マン島の吸血鬼
その晩のささやかな宴のことを、レディンは生涯忘れることがなかった。
彼の手を死神が引き終わるまで、彼の生命が尽きる一瞬まで、最愛の恋人と気の合う友人に囲まれて過ごした、この宴は他に比べようもないほどに幸福なときであり続けたのだ。
レディンは浴びるように酒を飲んだ。
と、本人は思っていたが、それは第三者から見れば雀の涙ほどの量でしかなかった。
普段ならば彼の身を気遣って、酒を控えるように忠告してくれるシェルキィも、今日だけは何も言わずに会話に加わっていた。
今までの疲れと苦労で、身体と精神が参っていたレディンは、やけに饒舌になって、自分が音楽家を志した理由や大学でのエピソード、はては過去のアルバイトの記憶などをペちゃくちゃと飽きることなく話し続けた。
聞く方からすれば、結構苦痛なはずなのだが、二人の聴衆は文句一つ言わず聞き続け、ときにはジョークやウィットでちゃかして盛り上げた。
その点、青年のユーモア感覚は冴えていた。
とぼけた質問を発したり、語句をだじゃれにしたりして笑いを誘うのだ。
何故か、青年はその度に不機嫌な顔をするのだが、もしかして本気で質問している天然という訳ではないだろう。
レディンが深酒のあまり眠りについたのは、シェルキイに請われて彼女と出会った店で弾いていた曲をオルガンで演奏した後だった。
満足そうな寝顔を浮かべて、レディンの意識は暗黒に落ちていった。
だから、このあとシェルキィと青年が交わした会話や、その内容についてはまったく知らないし、知ることができない。
もっとも、幸せな時間の記憶を抱いたままの方が彼にとっては幸せといえたのだが。
「どう、完全に寝てる?」
「ええ、ぐっすりとね」
「用心のため、君の『夜の力』を送っておいたら。そうすれば、レディンさんは朝まで目を醒まさないよ。 これから起きる出来事を見せたくはないよね」
「そうするわ」
シェルキィは愛する音楽家の頬にそっと口づけをした。
それから、先程までの人懐っこい印象を残しながらも、不思議な蜃気楼のようにふわりとした雰囲気を発している青年を睨みつける。
「で、わたしを殺しにきたの、シーリーコート?」
シーリーコートは、ゆっくりと首を縦に振った。
こちらもいつもよりは真剣な顔つきだ。
「最初は連れ戻すだけの予定だったんだよ。 僕たちは、人間のいうクリミナ戦争以来、人界との深い交流は断つべしってのが基本方針だし。……人間との交流を止めたのは、君達のように外界へ出ていく者たちを作らないためなんだから」
「でも、それだけじゃないのでしょう」
「うん、まあ」
「私が人の血を吸ったからかしら?」
「そうだよ。君はすでに五人の人間を殺めてしまっている。『妖精郷』へ帰るには血にまみれすぎている。掟に反しているし、なにより人の血を浴びた妖精の臭いはみんなが嫌がる」
「別に好きで殺したという訳じゃないわ。あれはわたしがラナウン・シーである以上、避けては通れない問題だからよ」
「……だからこそ、僕は君を連れ戻しに来たんだけど。 君はラナウン・シーだしね。……僕がやってきたとき、ここで君はもう四人の男を手にかけていた。 だから、僕は何の蹄措いもなく君を抹殺して仕事を終わらせる気でいたんだけど……」
ここで一息つき、哀しそうに言の葉を紡ぐ。
「一人の詩人――レディンさんを――を愛しているっぽい君の姿を見たとき、まだ救いがあるのではないかと思った。そこで、二ケ月だけ待つことにした。でも、僕はしくじった。君は昨日また一人を殺してしまった。もう、情状酌量はないよ」
「抗弁はしないわ。だってわたしの名は……ラナウン・シーに属するもの。マン島の吸血鬼にして、詩人の守護者。人の血を吸い、語り部を祝福するもの」
判事が死刑を宣告する瞬間には、こんな静寂が落ちるものだろうか。
シェルキィ―――いや、ラナウン・シーと名乗った妖精は疲れたような妖艶な笑みを浮かべた。
口元に並ぶ人のものとは思えない獣の乱杭歯。
異形の歯型は、美しい女の顔を邪悪なクリープのものに変貌させていた。
「……どうするの? シーリーコート。 『祝福された妖精』『目に見える法廷』『オーベロンの血肉を持つモータル』。あなたの持つ二つ名の数はわたしたち以上よね。
わたしをここで殺すの? 明日、この人がピアニストとして絶頂に駆け登ったとき、わたしはこの人を殺す予定よ。だって、わたしの祝福を受けて才能を付与された相手は必ず短命で終わる―――それが運命なのだから」
「本当にそう思っているの?」
「あたりまえよ。わたしはラナウン・シー。不吉なる詩人の守護者」
シーリーコートは立ち上がった。
身に締った白っぽい上着の裾が風もないのにざわめいた。
シェルキィの美貌に、明らかにそれとわかる恐怖がひしめいていく。
それが不意に止まった。
シーリーコートが視線をそらしたからだ。
そして、彼女が知る中で最も恐ろしい白い着物ははためかなかった。
「明日にしようよ。僕は帰る」
その刹那、視界が白い壁によって覆いつくされた。
立ちすくむ女が、瞬きをする間にすでにコート姿の妖精の姿はどこへともなく消え去っていた。
「妖精偏在」。
どこにでも出没する英雄妖精シーリーコートの力だった。
しばらくして目を覚まさない男に向き直ったときに、その美しい顔は、さきほど指摘されたように五人の人間を殺した血に飢えた吸血鬼のものではなく、ただ愛する男を見つめるシェルキィという哀しい女のものでしかありえなかった。