シェルキィ
レディンの住むアパートメントは、ロンドンではありきたりな造りのもので、わずかに色を塗り替えでもしたら、長い住民でもよその建物と間違えてしまうだろうシンプルなものだった。
すでに五年近く暮らしている彼でも、少しアルコールが入ったら混乱しない自信はない普通さだ。
そんな外見も内装も共に色褪せている我が家に戻ると、その心配を感じさせない原因に出会った。
管理人のハワード婦人である。
太った中年の意地悪おばさん以外のイメージが浮かばない外見の女性であったが、本当は聖人のように人がよすぎるおばさんである。
人は見かけによらない、の代表格だろう。
「あら、レディン。やっとお帰り?」
「ただいま、おばさん」
「奥さん、待っているわよ。ところで何か嬉しいことでもあったのかい?」
「へえ、わかるの?」
「あたりまえよ。今日はあんたの歩き方のリズムが珍しく速いから、たぶんいつもとは何か違うことがあったんだろうと見当をつけて、顔を見たら、えらく和やかじゃないの。だったら、嬉しいことがあったんだと判断したわけよ」
「さすが、ハドソン婦人」
「あたしは地元だけどホームズは嫌いなの。探偵だったら、エルキュール・ポワロがいいわ」
そのどっしりとした体格は、どちらかというとヘンリ・メルヴィルだろうと思ったが、口にだすのははばかられた。誰だって我が身は可愛いし、大家に逆らうのは大抵の場合は自殺行為だからだ。
「ははは、わたしの灰色の小さな脳細胞にわからないことなどないわ!」
と、捨て台詞を残して買物にでかける推理小説好きな管理人を見送って、レディンは階段を上った。
彼の部屋は三階にある。エレベーターもついてはいるのだが、いかんせん半年前から故障していて動かない。おかげで住人は運動不足にならずに済んでいる。
意外と活動的なレディンにとっては苦にもならない程度の運動ではあったが。
ドアを開けると、食欲をそそる匂いと、人が動き回る気配がしていた。
当然だ。
彼には共に暮らす同居人がいるのだから。
待っていてくれる人がいるという、この一点だけで人は単純に幸せな気分になれるものらしい。
レディンが分厚い手袋を戸棚に突っ込み、コートをハンガーにかけてつるしていると、トッポ・ジージョのアップリケのついたエプロン姿の女性がキッチンから顔を出した。
キッチンから漂ってくる香ばしいパイの焼ける匂いが、くすくすと鼻腔を突くと、柔らかい気怠さに包まれていく。
「ただいま、シェルキィ」
「おかえりなさい、レディン」
女性の名は、シェルキィ。
今年で二十二歳になるアイルランド人だった。
彼女と向かいあうたびに、彼は自分がこれほどまでに異性に対して積極的だったのかと、驚くことになる。
シェルキィと出会ったのは、二か月前のことである。
例の吸血鬼事件でのごたごたで疲弊している最中に、ある酒場でピアニストのバイトをしていたときに知りあったのだ。
彼女が店のリクエスト用紙に、話がしたい旨を書いて寄越し、興味を持った彼が閉店後に一緒に食事をしたのがなれそめだった。
当初はシェルキィの方が積極的だったのだが、気がつくと立場が逆転していて、レディンの方が彼女の魅力に捕らわれてしまっていた。そこから二人が同棲状態になるのは、もっと簡単だった。
確かに彼女は他に比類なき美女だった。
暗い金に近い栗色の髪と、すき通って見えるほどに白い肌、四肢は人形のように細く、力強く抱き締めるとすぐにでも折れてしまうかもしれないほどに華薯さだ。手を握るにしても遠慮してしまいたくなる。初めのうちは、毎晩ベッドの中でそんな他愛ない懸念を抱いたものだ。
性格も彼の好みだった。
本来は、平凡な女の中に娼婦のごとき艶やかさと、屈託のないあどけなさの二面が見え隠れする気紛れな女性のようなのだが(紹介した友人たちは誰もが似たようなことをいっていた)、何故かレディンに対してだけは男に尽くすタイプという姿勢を貫いていた。
芸術家らしい我儘さと強情な部分のあるレディンでも、彼女とともにいることはまったく苦痛とはならなかった。
気を遣われているとも感じさせない心配りに、レディンは感じ入ることもしばしばだった。
そして、彼に興味を持ったのも当然というべきか、彼女は驚くほどに古典音楽に通じていた。
もっぱらウェールズやコーンウォール、ヨークシャーの詩や歌が専門のようだったが、歴史にも詳しく、昔の作曲家関係の知識などはほとんど専門家顔負けである。実技に比重をかけ過ぎて、真面目に古典音楽史をやらなかったレディンにとっては、これだけで尊敬に値するといえた。
そのくせ、莫大で詳細な知識を鼻にかけることもなく、むしろ自分自身の鼻もちならないところを自省する羽目になるほどだった。
現在の彼にとっての最大の望みは、シェルキィと共に生きることであった。
そのためにはタナボタでも、多くの仕事をこなさなければなない。
彼に愛情たっぷりの笑顔を向けるシェルキィの顔を見て決意を新たにした。
テーブルに並んだ料理はどれもこれも美味で、旺盛な食欲をもって健啖に舌鼓をうち、食事を終わらせると、まずレディンが口を開いた。
「二ヶ月後に俺の初コンサートが決定した」
「初コンサートなら、二年前にやったんじゃないの?」
シェルキィにはあらかじめ自分の経歴を教えてあった。だから、彼のほとんどのことを彼女は知っている。
だが、彼には一つだけ誰にも話していない悩みがあった。
それは彼の演奏後の聴衆の反応についてだ。
悪いと言われたことはない。むしろ、アンケートや批評では絶賛されている。悪い評判はほぼ皆無だ。
それなのに、ある頃から、レディン・マックウェルは拍手を受けることやアンコールを求められたことがなくなってきていたのだ。
いつ頃からかは定かではないが、二年前の初コンサートの時期からははっきりと気づいていた。
曲と曲の幕間での拍手はある。
コンクールで賞をとったときに怒濤のようなコールを受けたこともある。
しかし、彼のみの舞台が開かれているとき、聴衆は予定されている最後の曲が終わると、あの『パーティー』ときのように、拍手もせずに帰ってしまうのだ。
それは、小さなバーでのミニコンサートでも同様だった。
原因は、彼の才能が人々の幸福を鼓舞させ、思い出の世界に浸らせている結果、拍手を忘れてしまっていることにある。
あとで友人にそれらの事実を説明されたことから、そういうこともあるのかと理性では理解していたが、それでも幾ばくかの物足りなさは感じてしまう。
聴衆のもっとアクティブな反応が知りたい。
なのに、それは手に入らない。
彼が実力にくらべて物足りない実績しかないのは、そのことでやや厭世的な態度をとり続けていたからに他ならなかった。
「……あれは大学の頃のアマチュアとしてだよ。今回は公式にプロとして、区民大ホールでの初コンサートが決まったんだ。動員観客敷は約千五百人!」
「すごいじゃない!」
レディンはそういった彼女の反応が大好きだった。本当に嬉しいときに、気持ちを共有してくれる相手の存在は、人間にはなくてはならないものだからだ。
一緒にいるだけで、楽しくなれるというのは恋愛の基本だが、シェルキィとレディンの関係はさらに進んだものなのかも知れない。たったの二年の付き合いだが、普通はありえないぐらい二人は強く結び付きあっていた。
レディンは幼い時のように素直に喜んだ。
ひとしきり、その話題で食卓は盛り上がった。
だが、おかしなことに、ガードナー氏がどこでレディンを見出したかについて語ったとき、シェルキィは何故か辛そうに眉をしかめた。
幸い彼は焼きたてのパイに夢中になっていたので、その変化には気付くことはなかったのだが……。
「そうそう、帰ってくるときに、ガードナー氏と同じパーティーで俺の演奏を聞いたって人に会ったな」
「へえ、どんな人? その人も音楽関係者なの?」
「……なんて言うのかな? そう、白いマントみたいなけったいなコートを着た奴でね、訛りはアイルランドっぽいのにアジア人みたいな顔つきの、人のよさそうな兄ちゃんだったな。音楽にもやたら明るくて、俺の曲に同じ修正案を創っていたほどなんだ。あれはびっくりしたなあ。口笛の世界チャンピオンかと思ったよ。で、夕食に誘ったんだけど、用があるらしくて断れたよ」
シェルキィのスプーンが床に落下していった。
金属の高い音が室内に響き渡る。
「おいおい、気をつけろよ」
「ちょっと、すべっちゃって……」
恋人の内心を襲った激しい動揺に、レディンはまったく気がつかなかった。
単にデザートに夢中になっていたということもあったが、芸術家というものは、えてしてそういう察する能力が抜けているものである。
熱っぽく出会ったばかりの青年との会話を喋るレディンとは裏腹に、シェルキィの態度は虚ろだった。
かなり激しい葛藤が心を占めているようだった。
しかし、その態度は一瞬だった。
レディンが悟る前に、シェルキィの表情は元の優しい笑顔に戻った。
「……そうなの。だったら、今度は連れていらっしゃいよ。その人にもおいしいものを作ってあげるわ」
「それは困ったな。まだ、食べ終わっていないんだ」
「バカ、今度の話よ」
対面に座った若き音楽家の額を軽くこづいて、先程の驚きを微塵も見せずにシェルキィは微笑んだ。
年齢に見合わぬ愛くるしい笑みだった。
ちっぽけなアパートの食卓を爽やかな風が吹きすぎていくようだった。
風には柑橘のいい匂いがついているかのごとく、気持ちが癒されていく。
いつまでもこのままでいたい。
これはレディンのささやかな願いだった。
しかし、何よりも彼が心から望んでいることであった。
レディンは腕を伸ばし、ゆっくりとシェルキィの髪を撫でた。掌に伝わる 感触は豊かで柔らかかった。芳しい花の香りがした。
シェルキィは恥じらいを込めて、目蓋で瞳をレディンの視線から覆い隠した。ためらうことなく、二人の唇が静かに重なりあう。
舌を互いに求めあいはしなかった。
ただ重ねあわせるだけの、平凡な口づけだった。
どこからか鳴り響く教会の鐘の音が近所まで届いてきていた。
二人とも、一緒にいる相手が、自分にとって世界の何よりも大事な存在だと、確信しきっていた。




