天才ピアニストと妖精
シーリーコートは、普段、ロンドンに存在している。
住んでいるのではなく、わざわざ「存在」していると表現されるのは、彼が人間とは違うものであるというだけでなく、世界中どこにでも出現することができる「妖精遍在」の能力を持っているからである。
だからこそ、彼を知るものたちは、人間も人を外れたものも異口同音に彼のことを一種の概念的存在として扱うことが多い。
もっとも、シーリーコート本人は自分のことを限りなく人間に近い妖精であると考えているので、そのような扱われ方について差別的であるとよくこぼしている。
実際のところ、ロンドンにいるときは、たいていの場合、以前からの身分のまま人間と同じ生活をしていたので、住んでいるというのも必ずしも間違ってはいなかったが。
彼は、シーリーコートとしての仕事が必要な場合に限って、例の白い変則的なコートを纏い、帽子をかぶって出掛けることになるが、それ以外はお気に入りのブランドの服を好み、スーパーで食材を買って料理をし、ときおり日銭を稼ぐために人間の仕事をしたりしていた。
素性が桁外れに怪しいので、とりあえず仮の名前と仕事をもっているが、彼曰く、それも楽しいよねと非常に楽観的である。
「僕は普通が好きなんだよ」
もっとも、そういう風なあまり賛同を得られない言動を繰り返しては周囲に呆れられるのが、彼の日常の風景といえた。
その彼が久しぶりにコートを纏い、路上で退屈そうに突っ立っているのは、市内にあるコンサートホールの前だった。
大都市にして歴史ある街ロンドンにふさわしい、半世紀以上の歴史を有する建物であった。第二次大戦のときに焼失した先代の建物をそのまま造り直したものなので、見た目はざっと百年以上の年月経ているように見える。
ロンドンの少し大きめの観光パンフには必ず載っているホールだった。
中心地に近いところにあるため、人通りも激しく、多くの人々が彼の周りを通り過ぎていくが、彼の正体に気づくものはまずいない。
たまにぶしつけな視線を送る者がいるのは、まとっている突飛な服装と、男には珍しい中性的な美貌に惹きつけられるからで、彼の妖精としての身分を見抜いているからではない。
そもそも、特殊な体験をしたもの以外、妖精の実在を認めいているものはおらず、シーリーコートの持つ奇妙な存在感について勘づくものもほとんどいないのである。
黙っていれば、飄々とした人畜無害な雰囲気の貴族か上流階級のおぼっちゃんにしかみえない。
「あー、彼かな?」
シーリーコートは、ホールの玄関から足取り軽く現れた青年を目ざとく見つけ、手首だけで小さく指差し、誰かに対して確認をとった。
しかし、彼の周囲には誰もいない。一人佇んでいるだけである。
それなのに、誰かが応えた。渋く低い男性の声だった。
「そうです。彼がレディン・マックスウェル。今回の案件の中心人物の一人です」
「音楽家っぽさがあるね。歩き方とか、表情とか、服の着こなしとか、まさしく立ち居振る舞いが芸術家そのものって感じだ」
「ええ、倫敦の気鋭の若手の中でもかなりの注目株ですよ。十代のころからコンクールで賞をとっていますし、それも音に聞こえた名高い大会ばかりです。才能がまったくもって半端ないようです。そのくせ、指揮者というある種の憎まれ役をかってでても、楽団のメンバー全員に好かれることができるという人格者でもあります」
「僕は、そういう人、好きだよ」
「そういうと思いました、シーリーコート様。まさに、あなたの好みのタイプでしょう」
シーリーコートは平気で会話を続けるが、そこには彼の他に誰もいない。
いったい誰と会話をしているのだろうか。
声量は普通で、独り言を言っている風には見えず、存在しない誰かと話をしてしまうようなおかしいタイプにも見えない。
そのため、会話を聞きとがめた通行人が慌てて見渡すが、そこには誰も見つけることはできなかった。
しかし、周囲の様子をまったく気にすることもなく、シーリーコートは自然体のまま、会話を続ける。
「で、例のマン島の吸血鬼が彼の周囲にいるの?」
「ええ、ラナウン・シーは彼の情婦として、ともに生活をしているようです」
「じゃあ、いつものように芸術家にとり憑いて生気を吸うだけ吸って、ポイされる前に僕のお仕事をするとしようかな。まったく、最近の妖精たちは芸術の敵ばかりだね」
「あなたも妖精でしょうに」
「さっさと辞めたいんだけどね」
つまらなそうに呟くと、シーリーコートは自分と反対側に歩き出したレディンの後を追いはじめた。
※
一方、コンサートホールを退出したレディン・マックスウェルは、喜びの色を満面に押し出して、ついさっき交わされた話の内容を反芻していた。
ホールの広報担当であり、企画部長のガードナー氏が、彼に破格の申し出をしたのである。
いくつもの賞をとっているとはいえ、まだ若い新人音楽家に、二ヶ月後の土曜日の夜に大ホールを開けてくれるというのだった。
彼も、若い頃から様々なコンクールで名前を売ってきた新進気鋭のピアニストではあるが、このホールで演目を開くには本来ならば知名度がまったく足りていない。
いつかはここで単独コンサートをと望んではいたが、本当のベテラン以外は、ゲストにすら呼ばれないのがこのホールの不文律のはずであった。
呼び出されて話を聞いてみたはいいが、あまりにおいしすぎる内容に、さすがの彼も幸運以外の何かがあるのではないかと、無礼を承知でと訊いてみるほどだった。
そして、広報担当者は、申し訳なさそうに口を開いた。
「そう思われても当然です。……気を悪くしないで欲しいのですが、ありのままをお話しますと、当初は、この話はあなたもご存じのあるピアニストの方のために設けられたものなのです」
ヨーロッパの音楽関係者なら誰もが知っているであろう有名な名前をガードナー氏は口にした。
よく知った名前だった。
なぜなら、それは彼が大学で教えを乞うた師の一人だったからである。
希代のピアノ演奏家であり、長年の活動に敬意を表され、王室から騎士の位を任じられているほどの有名人。
それだけでなく、無類の博愛心にも富んでおり、ボランティア活動にも盛んに参加し、一時は国連の平和大使としてアフリカヘ赴いて何か所も廻り、演奏旅行をしたこともある人物である。
そういえば、ほんの数週間前に、腰痛でロンドンの病院に入院したという噂があったことを思い出す。
ああ、その代役なのか。
ピアノの実力について自信の塊のようなレディンは、比較にならない若手のくせに、自分が誰かの代わりという事実に少し不満を抱く。
わかっているのだ。たとえ代役でも、転がってきたチャンスを掴み取ることができなければ成功への道は開かれないということは。彼のことを指名してくれた恩師の計らいをありがたく思わなくてはならないということも。
だが、彼の若く向こう水な矜持が先に立ってしまったのだ。
レディン・マックウェルという若者の本質は、幸運に頼らず常に自分で勝ち取ることを至上とする勝気さにあった。
レディンの顔に軽い失望の色が沸いたのを見て、ガードナー氏は慌てて前言を補った。
「そんな顔をなさらないでください。あなたを強く推挙してくれたのはその方ですが、実は私どもの腹の中でも、代理は是非あなたにお願いしたいと思っていたのです」
意外な言葉だった。
ただの代用として選ばれたのではなく、自分の名が挙がっていたのだという。
どういう事だ?
「お忘れですか、二か月前のパーティーのことを?あの後、大変だったらしいですね。私と家内まで警察に呼ばれました。もっとも登録名簿にあったものは、全員端から出頭させられたらしいですけれど」 .
「えっ?」
「あの『吸血鬼事件』ですよ。例の『ドラキュラ伯爵釆態青年記念集』に私と家内は夫婦で出席していたのです」
ようやく、レディンにも合点がいった。
あのときの参加者の一人なのか!
途端に現金にも機嫌がよくなっていく。
あのパーティーは最後こそトラブルに巻き込まれたが、全体的に見れば彼にとってとても想い出深いイベントであった。
想い出を共有することができるというだけで、目の前の人物の好感度まで一気に上がっていく。
「参加していらしたんですか?」
「ええ、お恥ずかしいことですが、私は家内共々ああいったモダンホラー関係の催しが大好きでして、すぐに参加の申し込みをしてしまったのです。……参加してみたら、若い人が多かったので、わりと肩身が狭かったのですけれど」
ガードナー氏は照れくさそうに微笑んだ。
はにかんだような邪気のない笑顔に繊細な性格の音楽青年は好印象を抱いた。
そして、何より幾つも年の離れたレディンに対しても、きちんと偉ぶらずに話をしてくれる姿勢がよかった。
一芸に秀でたものは、えてして些細なことで胸襟を開くものである。
レディンも例外ではなかった。
「わかりました。私のわずかな才能程度でお役にたてるのなら喜んでお引受けします」
実際、ガードナー氏を気にいったほどに、レディンはこの話を喜んでいる訳ではない。
自分の才能がわずかだとも思っていない。
しかし、現代で新人音楽家が名を売るには、ある程度の社交儀礼や商的な駆け引きは当然に要求されるのだ。
人に媚びるとまではいかなくても、上昇志向を持つのならチャンスは掴み取らねばならない。特に音楽を初めとする芸術、そのほかにもスポーツなどを続けるにはどうしても金がかかる。
加えて彼にはどうしても有名にならねばならぬ事情があった。
さきほど顔に出してしまった不快感を完全に棚に上げて、契約書に昔通りのサインをして、大まかな打ち合わせもした。
主なプログラムは本職のピアノ演奏であるが、指揮能力にも卓越したものがあると言われて、前半にホールを根城にする小楽団による演奏が追加された。
ピアノの演目は、すべて彼にとってなじみのあるものばかりである。
その中でも、あの時の彼のオリジナル曲をアンコールに廻したいという部分は格段の熱意をもって語られていた。
さすがに企画部長というだけあって、ガードナー氏はてきぱきと手際良く話を詰めていく。
ほぼたった一人で、パンフレットに記載するだけのことを決めてしまい、それでいてレディンが口を挟むだけの余地は十分に用意してくれる。
大学時代からアルバイトでコンサート関係の修羅場をこなしてきたレディンだったが、手なれたプロとの仕事であり、自分が主役ということもあり、すなりの緊張を強いられることになった。
決定が急だったことと、新人の初コンサートであることから、十分な集客は難しいのではないかと、彼が尋ねると、ガードナー氏は「私の交友関係をフルに使っても、全席埋めてみせますよ」と胸を張った。
ちなみに大ホールの席は千五百席もある。
いくらなんでも不可能だと、レディンは思ったが、最終的には自分の才能をこれほどまでに買ってくれたと感激してしまい、口には出さなかった。
長時間の打ち合わせを終え、帰ろうとしたレディンは、ガードナー氏に夕食に招待されたが、それは丁重に辞退した。
心底残念そうな表情をガードナー氏が浮かべたので、少しだけレディンは後悔した。
ホールから出ると、吹いてくる木枯らしは寒かったが、興奮で精神と身体は火照っていた。
千載一遇のチャンスとはまさにこのことである.
このコンサートを見事に成功させれば、プロ生活の出だしとしては申し分のないことだろう。
今までの気楽な無名生活が終わることも多少惜しくはあったが、取敢えず成功してみるのは悪くはないだろう。
この少し楽観的な面は彼の欠点でもあったが、口と実力が双壁な分には誰も文句は言わないし、彼はその両方を兼ね備えていた。
とにかくコンサートまでに最高の準備をしなければならない。
お礼ついでに恩師の見舞いにも行かねばならないし、忙しい二ヶ月になりそうだった。
頭の中でこれからの予定を練りはじめたとき、彼の名前が呼ばれた。
「……レディン・マックウェルさんですか」
「はい?」
反射的に振り向くと、一人の青年が立っていた。