序章
少年は妹の名前を叫んだ。
だが、絶対に近くにいるはずの妹の返事はどこからも聞こえてこない。
まるで、地面に穿たれた深い穴に向けて怒鳴り続けているようだ。
少年は自分が居る場所の名前を思い返していた。
オールダリー・エッジの丘―――父に寝物語として聞かされていた、とある伝説が眠る地。
そこで語り継がれている伝説を脳裏に思い浮かべて、子供らしい奔放な想像力が、最悪の予測を立ててくる。
少年は両頬を自ら叩いた。
朝食前、質素な宿のベッドで寝ぼけ眼をこすっていた妹の話をもっと真剣に聞いておけばよかった、と。
そして、森の中に踏み込もうとした小さな姿を止めるべきだったのだ。
薄暗い森の中には誰も居ない。
奇怪な形の黒ずんだ岩がごろごろしていることが、吐き気を催すほど不気味に感じられた。
かすかに物音が聞こえた。
自然に発されたものとはわずかに違う、人工的すぎる、そんな音だった。
迷わずに少年は走りよった。
しかし、そこには、誰も居なかった。
正確な意味では。
居たのは、立派だが古めかしい装束をした一人の男だった。
背が高く、威厳に満ちた顔つきで、大樹に寄りかかり片膝を抱えているが、どことなく弱ったような印象がある。
妹のことが第一になっていた少年は、そんなことに気づく余裕はこれっぽっちもなかったのだが。
「―――これは珍しい。異国の子供かよ」
男は大らかに言い放った。
眼には露骨なまでの好奇心がある。
「ごめんなさい、妹を見ませんでした?」
少年は地元の人間だと決め付けた。
手がかりがもらえるなら、それに越したことはない。
だから礼儀正しく接した。
だが、男の方はぶしつけに彼の前身を舐めまわすな視線を投げかけてくる。
「知っているよ」
「どこですか!?」
「教えてやってもいいが、条件がある。それをぬしが約束してくれたら、わしが手ずからここに連れてきてやろう」
「条件?」
外見に似つかわしく古めかしい喋り方をする男だった。
彼が習ったこの国の言語と違い、妙な略語を多用することから、かなり聞き取りにくい。
その上、少年にとって聴いたことのない一人称を使うし、気のよさそうな雰囲気のくせにひどくえらそうで横柄だ。
だが、それさえも少年にとってはどうでもいいことだった。
「お願いします。妹はまだ小さいんです。お兄ちゃんの僕があいつを守ってあげなくちゃならない」
男はふんと鼻を鳴らした。
さっきまでの気のよさそうな部分は幻か、というほどの唐突な変化だった。そうとう気まぐれで感情的な人格の持ち主なのだろう。
「妹思いのいい兄貴というわけかよ。ちょっと面白くないのう。……だったら、こういう条件はどうじゃ?」
男は腹に当てていた手を外した。
そこは赤い色に染まっていた。
少年は、男が怪我をしていた―――おそらくは致命的な重傷―――を負っているだろうことを悟った。
さすがにショックだったので、一瞬だけ妹のことが頭から離れた。
「誰かを呼ばないと!」
「いや、いい。かわりにぬしは、わしが示す条件を呑むか呑まないかを考えよ」
「えっ」
「わしの名は―――」
それは聞いたことのある名前だった。
だが、目の前の男は普通の人間にしか見えない―――しかも死に掛けの、だ。
しかし、男は傷の痛みを気にしていないかのごとく悠然と少年を見ている。
しゃがんでいるから目線の高さは同じだが、実際にはかなりの身長差があるだろうことは疑いない。
森の雰囲気もあったろう。
少年がよく本を読む伝説好きな子供であったこともあったろう。
だが、最大の理由は男の醸し出す気配であった。
少年は男の自己紹介を信じた。
「僕は何をすればいいの?魂を差し出すの?」
「ピューリタンの奴ばらが未だに信じているものと違い、わしらは悪魔や魔女の使いではないから、魂なんてものは求めはせんよ。わしらとの契約で大切なものは、もっと違う、まあどうでもいいものじゃ」
少年は躊躇わなかった。
「妹を助けてくれるなら何でも払うよ」
「ほう。やはりもう勘付いておるようじゃな、妹の行き先に。賢しい子供よな」
「ここはオールダリー・エッジの丘だもん。お父さんに教えてもらったから知ってる。アーサー王と円卓の騎士たちが、いつかブリテンを救うときまで眠り続ける場所なんでしょ。でも、あなたはマーリンじゃないから違うかもしれないけど……」
「確かに、わしはマーリンなんぞじゃないな。で、ぬしの想像が正しければ、ぬしがコリンで、妹はスーザンかよ」
男はけらけらと嘲笑った。
それは『ブリジンガメンの魔法の宝石』と呼ばれる子供達の愛読書の主人公兄妹の名前だった。戦士達を眠りにつかせる魔法の宝石をめぐって、魔女やゴブリンたちと二人の兄妹が大冒険をするという筋書きのお話だ。
確かに、作品内の状況に今の立場はフィットしている。
少年は子供らしい率直さで、妹がはまり、自分がかかった、悪辣な罠のようにまずい状況を理解していた。
しかし、もう選択の余地はない。
(僕はどうなってもいい。でも、妹だけは助けないと!)
少年は一歩を踏み出した。
そして、男に向かって告げる。
「どんな条件でも呑むよ。だから妹だけは返して。お願いです」
男の返事は予想通りのものだった。
ただ、少年が考えていたものとは、わずかとは言えない大きな違いはあったのだが……。