黄昏に泳いで
この作品は、企画「四季の乙女たち」に参加したものです。四季の中から一つ選び、「乙女」のお話を、という素敵なコンセプトで、私は「夏」を選び書かせていただきました。
バカンス、三日目。
真っ赤に燃える太陽が沈み行くグアムの海で、あたしはたそがれている。
『たそがれている』という表現は好きだ。だって、何もせず、何も考えてなくっても、なんとなく許される表現だから。
少し寂しくて、少し愛しくて、少し切ない。その絶妙なバランスが混在する、絶妙な言葉だと思う。
世界が夕焼けに染まっているだけで全てがお洒落になって、懐かしさを誘う甘い景色に変わる。だから、あたしはたそがれているのだ。というより、そうする以外に何もしたくなかった。
――違うな。
「……何もできないんだ、あたしはもう」
そんな風に自分で言い直したのは、太陽の最後のてっぺんが、海の奥へ消えてしまってからだった。
大きなパラソルの下でそれを見届けたあたしは、ようやく立ち上がる。被ったままだった白い麦わら帽子を取り、下ろしていた髪をゆるくまとめあげたら、うなじまで汗ばんでいた。べたつくのに爽やかな潮風が、同じ白のサマードレスの裾を揺らす。
砂浜にびっしりと並んだ同じパラソルの下には、人目も気にせずイチャつく観光客や地元カップル(金髪だと見分けが付かない)、それから同じ日本人のツアー客たち。彼らの目当ては砂浜にあつらえられた特設舞台で始まるポリネシアンダンスショー&バーベキューで、もう既に肉の焼けるいい香りが漂いつつある。
だけど、あたしのお腹は鳴らない。興味も持てない。それでホテルの部屋に帰るべく俯いて歩いていた、その時だった。
「Excuse me」
ドシン、とぶつかった相手がそう言ったので、あたしはただ会釈した。発音がよかったから外人だと思ったのに、相手はあたしの顔を覗き込むようにして、「あれっ?」などと妙な声を出したのだ。
黄昏モードでないあたしはまだ普通の二十五歳の会社員――の名残を保っていたので、呆けていた顔を咄嗟に整えて、上向けにした。が、バカンス仕様のつば広帽子をまだ被っておけばよかった、とすぐに後悔した。だって――、
「ちょ、お前さ、菜緒じゃね?」
突然フランクな日本語で、相手は聞いてきた。
なんでこんなところに、こんな男が、よりにもよって、このタイミングで?
神様ってやっぱり残酷だ、とあたしは驚愕にゆがんでいた頬を更に引きつらせた。
「間違いねえよ、お前菜緒だ! 米倉菜緒! うわーひっさしぶり! マジでびっくりな再会だな!!」
お向かい同士で生まれ育って、小・中・高まで一緒だった幼馴染のイタズラ坊主。その頃の面影よりかなり成長した男が、余裕であたしを見下ろしている。しかも体格までがっちりしていて、日焼けしたそれに白い半袖パーカーと黒のサーフパンツをはいた格好は、完全に『大人の男』だ。
「……久しぶり、海」
目前で波打つダイナミックな本物の海と同じ名を、あたしはため息混じりに呼んだ。
岸元海。それがこの男の名前だ。高校卒業後、別の大学に行ったことでもう会わなくなって七年になる。忘れたわけではないけれど、記憶の奥の引き出しにしまいこんで、ほとんど出してくることもなかった『思い出』。そんな相手がいきなり成長して、現実のものとなって、あたしの最初で最後の――つもりだった――バカンスにわいて出るとは。
「あ、今お前さ、俺を虫かなんか見るみたいな目で見てたぞ、菜緒。失礼なやつだな、会えて嬉しくないのかよ」
ちゃっかりあたしのホテルの部屋に遊びに来たりなんかしてる海は、頬を膨らませている。そんな表情だけは昔のままで、あたしはつい本音を言ってしまった。
「嬉しいよ? 嬉しいけどさ……予定になかったんだもん、こういうの」
「予定?」
「そうだよ。あたしは一人で、単身で、七日間のバカンスを楽しんでくる予定だったの! なのに、まだ序盤であんたに会うなんて、予定外だもん。たそがれられなくなっちゃう」
「は? たそがれ?」
「う、ううん、何でもない何でもない」
へーんな奴、とぼやきながら、向かい合った籐の椅子から海は立ち上がり、バルコニーの手すりにもたれている。
昔と同じ硬そうな黒髪の下に見える太い首と、筋肉のついた肩のライン。パーカー越しにも背中の広さは見て取れて、逆三角形にまとまっていく最終地点には腰と形の良いお尻があって――そこまで目で追ったところで、あたしはぶんぶん頭を振った。これまたバカンス仕様の大きな雫型の二連ピアスがうるさい音を立てて、海が振り向いた。
「お前さ、失恋旅行だろ」
語尾にハテナも付いていない、断定形だ。あたしは飲みかけていたビールを思わず吹きそうになって、海を睨みつけた。
「……うるさいな」
否定なんかしたってしょうがないくらい、ありがちで安っぽい一人旅の理由。そんなのわかってる。でも、そうするしかなかった。
「やっぱなあ~、ま、顔に書いてあるよ。お前って昔からわかりやすいし」
「そういうあんたはどうなのよ? って、あ……」
「そっか、忘れてた、こいつにも旅の理由があるんだよね――とか今頃気づいてんだろ。ハイハイ、どうせ俺はお前に忘れられてる虫けら程度の存在ですよ」
「そ、そこまで言ってないし。でも一人じゃないでしょ? 友達とか、彼女とか……ってちょっとヤバイじゃん! 早く戻らないと……!」
ガラステーブルに置きっぱなしだった腕時計を見ると、夜の八時半。友達とにしろ、彼女とにしろ、今からが楽しい時間帯ではないか。あわてるあたしを可笑しそうに見て、海はあたしの缶ビールを取り上げた。ぐびぐびと、おいしそうに喉を鳴らして飲んでから、イタズラ坊主の顔で笑ったのだ。
「残念でした、俺は旅行じゃねーの」
「えっ? じゃ、仕事? でもそのカッコじゃ違うよね」
「仕事だよ? 正確には、仕事上がった後だけど」
「は? 仕事って……添乗員、とか?」
たっぷり考えてから訊ねたあたしを、海はまた楽しげに見つめた。やっぱりまだ見慣れない大人な顔なのに、なんだかひどく懐かしい、海らしい表情。
「俺、今グアムに住んでんの。こっちでダイビングのインストラクターやったり、ショップの店番やってたり、たまにツアーガイドまで引き受けたりしてさ」
「はあ? マジで? 意味わかんない」
「いや、その発言のが意味わかんないんだけど。なんでそんな驚くよ」
「だってさあ……海がグアム在住とか、イメージじゃないもん。せいぜい江ノ島でしょ、湘南とかさあ。えー、おかしいよ絶対おかしいって。あたしが初めて来たってのに、海のくせにグアムに住んでるなんておかしい生意気ふざけんなって感じ~」
ムカつきついでに新しいビールを一気飲みしたあたしは、思いきり唇を尖らせてぶうたれた。
「もう酔ってるし。お前って酒弱いんだ。しかも絡み酒、うわサイアク」
対して、顔色一つ変わらない海は、真剣に取り合いもせず笑っている。
生暖かい夜風と、遠く聞こえる波の音。懐かしい海の声と、幼馴染独特の空気感。そのどれもが、なんだかすごく温かくて、優しくて。あたしはそれからも海を罵った。そりゃもう散々、昔算数で0点取って廊下に立たされてたこととか、くだらないことまで持ち出して絡み続けた。
黙って聞いていた海は、あたしが三つめのビールの缶に手を伸ばしたところで、その手をそっと掴んだ。
「もうやめとけって。ツアーだったら、明日もなんか予定あんじゃないの。ゲロゲロ吐いて一日ベッドの上で過ごしたいのかよ」
苦笑している海に、あたしは笑った。クーラーの利いた室内に戻って、ベッドに寝転がり、お腹を抱えて散々笑う。昨日――いや、今日の昼間までも泣き濡らしていた枕につっぷして、答えた。
「予定なんかないよ。英語できないからしょうがなくツアーに入ったけど、全部フリーのやつにしてもらったし、オプションなんか何も取ってないし。今日も明日も明後日も、帰るまでずーっと何もなし! だからいいの。ほら、返してよ」
大の字に寝転んだまま手を伸ばし、海が取り上げたビール缶を要求するあたし。
そうだ、あたしに予定なんてない。存在しないのだ。このバカンスは、ただ何もしないでいるためだけのものだと決めていた。ずっと正直に真面目に、懸命に生きてきたあたしが、初めてする贅沢。惰眠をむさぼり、酒を飲み、まどろんで、海を見ながらたそがれて――それこそ、最高の贅沢というものだろう。あくせく働いて、頑張って今日も出勤している世の中の社会人の方々に申し訳なくなるくらい、快適で魅力的なバカンス。なのに、どうしてだろう。全然楽しくない。
「菜緒……」
ぽろりとこぼれた熱い滴は、生産再開早々に増産決定したらしい。いいかげん枯れたと思った涙の泉から、あっという間にあふれだしてくる。
「おかしいよ……」
ずっとバルコニーにいたせいで、顔に交差した自分の腕まで潮の匂いがした。この潮風に一緒に吹かれるのは、久しぶりに会う幼馴染なんかじゃないはずだったのに。
今日も明日も明後日も、本当ならば忙しくショッピングに繰り出したり、観光したり、一緒に海を見て甘くたそがれるはずだったのに。
「なんで……? なんでここに海がいんのよお……なんで、一緒に来るはずだったあいつはあんな大バカ女孕ませて、さっさと結婚なんてしちゃうの。なんで、二年も付き合ってたのに裏切られてたことも全く気づかないのあたしは……なんで、なんで、なんでえっ……!」
口に出したらもう止まらなくなって、今まで一人たそがれてた時間に悶々と考え続けていたことをぶちまけていた。ようやく放出された感情の嵐は、矛先を求めて無関係の海に向かっていく。
「菜緒――菜緒」
落ち着け、というように優しく抱き起こされて、子供にするみたいに頭をポンポンと軽く叩かれる。そんな風にされたら余計に涙も嵐も止まらなくて、あたしは子供のように声を上げて泣いた。
突然の裏切りで泡と消えた、幸せな婚前旅行。念願の社内発表は、あいつと別の課の新人女子社員のでき婚発表に変わった。平謝りされて泣くも怒るもできないまま、自分が身を引く形になって、衝動的に会社を辞めてきた流れの全て。包み隠さず海に聞いてもらいながら、あたしはやっとわかったのだ。本当は、こうやって思う存分泣きわめきたかったのだということを。
「ごめん……海。もう遅いのに、明日も仕事なんでしょ?」
落ち着いた頃にはもう十一時を回っていて、あたしはボロボロの顔をこすって海の腕の中から抜け出そうとした。
いくら幼馴染でも、我に返ってみればもうあの頃の海じゃないのだ。彼にも彼の生活があり、予定がある。いつまでもあたしに付き合わせるわけにはいかない。なんとか残っていた理性で判断して、立ち上がる。お礼は明日以降にちゃんとすることにして、ともかく海の帰りを見送るつもりだった。
でも、海は立ち上がらなかった。ううん、立ち上がったのはふらついたあたしを支えるためで、ドアには向かわなかったのだ。
「菜緒」
気遣う代わりに名を呼んで、海は微笑んだ。大人びた、静かな笑み。
「失恋に一番効く薬って何か、知ってる?」
「……どうせ、新しい恋、とか言うんでしょ。もうそんな気力ないよ。二日酔いの薬なら必要になると思うけど」
乾いた笑いで応対したあたしは、それでも海が手首を離さないことに気づいて、もう一度顔を上げた。ゆっくりと、持ち上げられた手首ごと壁に固定されて、すぐ目と鼻の先で見つめられて――思わず、ドキリとする。
「じゃあさ、このバカンスの間だけってのはどう?」
「何……」
「残りの四日、俺がなってやるよ。お前の、新しい恋人にさ――」
ニッと笑ってみせた海の瞳が、一瞬真剣に瞬く。その目に吸い寄せられるように、引き込まれるように、気づけば小さく頷いていた。それが了承の印になってしまったのだと我に返ったのは、海の唇が下りてきてからだった。
葛藤と後悔が胸に渦巻いたのは数秒で、唇が触れ合った刹那にもろく溶けて消えてしまった。熱く、優しく、甘いキスが、あたしの疲れ切った心と体を瞬く間に捕らえ、翻弄していく。
唇を離すと同時にずるずると壁際に崩れ落ちたあたしを、海の力強い腕が抱き上げた。
「……もう何も考えんな、菜緒。俺だけ見て、俺だけ感じて……ずっとそばにいるから」
ベッドに下ろされ、キスの合間に囁かれて、頭の奥までとろけていく。そうして始まった長い長い時間の中、ずっとあたしは海の名前を呼び続けていた。
翌朝、ほとんど寝ていない状態で海はシャワーを浴びて、部屋を出て行った。
額に軽くキスして、頭を撫でられたことも、クーラーの風に冷やされていた裸の肩に布団を掛けて行ってくれたことにも気づいていたのに、あたしは寝たふりをしていた。だって、朝日が差し込む明るい部屋で、まともに海の顔が見られるはずなんてない。
昨夜の――というよりつい先ほどまでの自分がどんな風に何をやったか、はっきり明確に思い出せるからだ。お酒に弱いとはいっても、ただ荒れるだけで別に記憶まで失うわけではないのだから。
「やっちまったよ……嘘でしょお、あたしってば……」
ああああ、と頭を抱えて布団にくるまる。その中でおそるおそる確認すると、胸元に散った赤い印が鮮やかに見えた。
「ああああ、どうしようどうしようどうしよう、もう、海のバカあっ!」
いや、バカなのは海じゃなく限りなく自分のほうなのだが。一夜の過ちで済ませるには熱すぎる、濃密な時間。
――あんな風に愛されたの、久しぶり……ううん、初めて、かも。
「ってそんなこと考えてる場合じゃないって! やばいよだって海なのに!」
相手があの海だということが問題で、あたしは延々布団でのたうち回り続けた。
どれくらいそうしていたのか、いきなり部屋の電話が鳴って思いきり驚く。鳴るはずのない、相手もいない電話はしばらくなり続けていたから、渋々受話器を持ち上げた。
「ハ、ハロー……?」
言ったところでそれ以上のやりとりはできないのに、それでも言ってみる悲しい日本人。が、聞こえたのは海の笑い声だった。
『ハ、ハロー、だって。怯えてやんの』
声真似されてムッと来たあたしに、海は続ける。
『どうせ今頃俺とのこと思い出して、ベッドで転がりまくってたんだろ?』
「なっ、なんでわかるの! まさか、どっかで覗いてるわけ?」
『やっぱりな。お前のことだから予想ついた。だから電話したんだよ』
「だから、って……」
忘れろ、とか、気にするな、とか言うのかと思ったら、海が告げたのは全然別のことだった。指示されたとおりにサイドテーブルの上を見ると、さらさらと綺麗な英字で書かれた住所と電話番号らしきメモが置かれている。
『今日は午前中そこで店番して、昼から夕方まではインストラクターやってるから。気が向いたら遊びに来いよ。夜には部屋行くから、浮気すんなよ?』
「う、浮気って」
『だって彼氏だろ? 昨日決めたじゃん』
「あ――」
『じゃな。あ、そうだ。ルームサービス取っといてやったから、ちゃんと食事しろよ』
「ちょっと海!」
抗議の言葉も半ばにさっさと切られ、呆然としていたところにノックの音。あわててバスローブをはおってドアを開けたら、本当に朝食メニューが運ばれてきた。しどろもどろで断ろうとしたけれど、何やら困り顔で説明を続けるので、しょうがなく受け取った。なけなしの英語力を総動員して、チップがどうとか支払い済みだとか聞こえた気がしたので、やっぱり海が頼んで行ったらしい。
湯気を立てるブラックコーヒーとオレンジジュース、クロワッサンとその他パン各種が盛られた皿。もう一枚の皿にはスクランブルエッグやソーセージ類。更にサラダとスープとデザートのフルーツまで。
「こんなに食べきれないって……バカ海」
何がいいかわからないから全部持ってこさせました、的なメニューだ。海が頼んだ様子まで想像できて、あたしはため息まじりに降参した。食欲を思い出したのは、本当に久しぶりのことだった。
結局日中は二日酔いもあってだらだらと寝て過ごし、やってきたバカンス四日目の夜。
「おい、何やってんだよそこで」
ふてくされた低音で訊ねられ、あたしは振り向く。怒った顔の海が、ビーチチェアにもたれたあたしを睨んでいた。
例のパラソルの下で帽子を目深に被っているのに、やっぱり奴には気づかれたらしい。って当たり前か。
「何って、たそがれてんの。悪い?」
「いやいいとか悪いとかじゃなくて、夜に部屋行くって言っただろ? どこ行ったのかと思って捜し回っただろうが」
「あたしが他にどこ行くのよ」
本当に肩を上下させていたから、言い返す語気も弱くなる。俯いたあたしに、海はヘッドロックをかけてきた。
「あいたたた、な、何……っ」
「素直に『ごめんなさい』だろ? 彼氏を心配させた罰だ! この!」
「か、彼氏って……く、くるしいっ」
「俺は『彼氏』でお前は俺の『彼女』なんだよ! 素直にそういうことにしとけって言ってんだ!」
「わ、わかったわかりました……ごめんってばあっ!」
太い腕を掴んで叫んで、やっと解放される。恨めしげに見上げると、海の満足げな笑顔。
「よし。じゃあ行くぞ」
「行くってどこに」
「メシに決まってんだろ? どうせ食ってねえんだろうが」
「だって、朝あんなに食べたらもう入らないもん」
「そんなんだから細っこいんだよ。道理で成長してないと思ったぜ」
あたしのオレンジ色のサマードレスの、特に胸元辺りを見下ろす海。にやにやした目にムカついて、隠すように腕で覆う。
「大丈夫、見えないって。ちょっと残念ではあるけど」
「はあ? 残念ってあんたね!」
「じゃなくて、キスマーク。ちゃんと服で隠れる場所にしといたからさ」
「バ……ッ、バカ海! 知らないっ!」
「ハイハイ」
「ハイハイじゃないっ! 知らないったら知らないんだから!」
「わかったわかった」
「もーっ、わかったじゃないってば!」
小学生みたいなやりとり。なのに海はにやにやして適当にスルーする、なんて大人な技を使ってくるのだ。昔なら一緒になって言い返してきたのに。
いいようにあしらわれているようでムカムカしながら、結局海に案内されて向かった先は、チャモロ料理のレストラン。
チャモロというのはグアムの先住民の名前で、彼らの伝統料理のことだ。向かい側でスマートにオーダーを済ませ、あれこれ説明してくれている海の受け売りなんだけど――。
「聞いてんのかよ、菜緒」
「えっ? うん、聞いてる聞いてる。チャモロ料理は『甘い』『辛い』『酸っぱい』が混在する料理なんでしょ」
ぼんやりしつつも要点だけは聞いておくのは、社会人生活でうまく身に着けた裏技だ。「タイ料理みたいだよね」と付け足すと、海は機嫌を直したようだ。
「でももうちょっと懐かしい味っての? 実は日本人の口にも合うんだぜ。グアムってほら、スペインとアメリカの後、日本にも統治されてるから」
「え、そうだったっけ」
「まあ、お前は歴史も苦手だったし、部屋に閉じこもってばっかでガイドの説明も聞いてないだろうから知ってるわけないか」
「……悪い?」
「別に~」
軽く睨みつけるあたしを受け流す海。そんなあたしたちのテーブルに、料理の皿が運ばれてきた。
車海老のココナッツミルク煮に、タコのケラグエン(チャモロ風マリネみたいなもの)、それからココナッツ・クラブというボイルしたヤシガニのココナッツソースがけ。
「またこんなにいっぱい頼んで……」
「俺が腹減ってんだからいいの。ほれ、どんどん食え」
日焼けした海の笑顔はとっても健康的で、明るくて、すさんだあたしの心にすっと染みこんでくる。
――ずるいよ……。
またそんなことを思いながら、海がとりわけてくれた料理を少しずつ口に入れる。あたしの好みを覚えてて、ちゃんとシーフード中心に頼んでくれていた。強引なようでいてさりげない優しさだ。態度に昔の不器用さがなくなった分、そのまま伝わってきて困ってしまう。
こんな風に向かい合って料理を食べるはずだった別の相手を思い出しながら、少し優柔不断だった彼より海のほうが大人だ、なんて無意識に比べてる。
そう、ずるいのはあたしだ。泣いてるところに差し伸べられた手を、拒絶するべきだったのに。もう取ってしまった手を離すことも、この優しさを今失うことにも、耐えられそうにないから。ただそれだけの理由で海を利用してる。
幼馴染だからじゃない。ただ、ここにいてくれたからだ。もし他の男が相手でも、あたしは利用してしまっていたのだろう。
いっそ行きずりの男のほうがよかったのかもしれない。こんなに優しい海を、懐かしい幼馴染を、寒い時にくるまる毛布みたいに扱っちゃいけなかったんだ。
「……最低」
「え?」
最低だ、あたしは。
気づいてしまえばもう笑顔を見てることなんてできなくて、スプーンを置いていた。
「ごめん、海。ひどいことして――」
「菜緒」
「やっぱ無理。無理だよ……こんなこと」
「……菜緒っ!」
首を振って、涙が落ちる前に席を立つ。周囲の客の視線も気にせず、あたしは飛び出した。一分でも、一秒でも早く、海のそばから離れなきゃいけないと思ったから。
走って、走って、もう走れなくなるまで走って、海から逃げる――つもりだったのに、あたしは思い出した。海はスポーツ全般得意の現役ダイビングインストラクターという体育系で、対する自分はずっと帰宅部だった運動オンチだということを。
あっさり腕を掴まれ、振り向かされて、それでも抗おうとしたあたしを、海が思いきり強く抱きしめる。普通に抱擁、というレベルを超した強さにあたしが根を上げてしまうまで、ずっと。
「……ひどいのは俺だよ」
耳元で吐息と共に響いた低音は、よく聞き取れなかった。あきらめて力を抜き、あたしはそっと顔を上げる。海は何もなかったみたいに、また笑ってくれた。
「あーあ、お前のせいで金だけ払ってメシ食い損ねちまったな」
「ご、ごめ……」
「よし、買い物して帰るから食材はお前のオゴリな」
「え、帰るって?」
「ここからだと俺ん家のほうが早いし、なんかテキトーに作ってやるよ」
「でも、あたしは――」
まだ言い募ろうとするあたしの頭に、海の大きな手が置かれる。次の瞬間、クリップでまとめていた髪をぐちゃぐちゃに乱され、イタズラ坊主の笑顔で海が言った。
「もう話は終わってんだから、返品不可だバカめ。お前が何と言おうとどう思おうと、俺はお前の彼氏なんだよ」
今は、と口に出されずともわかる響き。その言葉と優しい手の体温に、あたしの脆い理性はまた崩壊してしまったのだった。
結局海の言う通り、地元スーパーで簡単な買い物をして、連れて行かれたのは海の住むアパート。黄色いペンキが塗られた壁は見るからに南国風で、古くはあっても綺麗だった。
ただ、すぐ隣にナイト・クラブやバーがある地区なので、夜は騒がしいのが難点らしい。観光客じゃない地元の酔っ払いたちにちょっと怯えていたら、海が肩を抱いてくれる。外階段で上がった二階の角部屋が海の部屋で、入るなり大きなサーフボードに出迎えられた。
「あ、やば。友だちに借りたの忘れてた」
その他脱ぎ捨てられた洗濯物や床に散らばった雑誌類なんかを急いで片付けている海を横目に、さりげなく周囲を見渡すあたし。間取りは日本で言うところの1DKで、隣が寝室のようだった。映画のポスターや海(風景のほう)の写真なんかが数枚貼られた壁の向かいに英語の本やダイビング関係らしい雑誌が並んだ本棚とラック、あとは木製テーブルと椅子が二つ。
その椅子の片方にあたしを座らせ、海が作ってくれたのは日本食の夕飯。
「味噌汁とご飯は朝の残りで悪いけど」なんて言いつつも、ちゃんと焼き魚にサラダまで付いて、立派なものだ。大学から一人暮らししてるあたしより、はっきり言って上手だった。
「へえ~海が料理ねえ」
「何だよ」
「何でもない」
照れくさそうに言われ、あたしは首を振る。でもなんとなく嬉しかったのは、海が変わってないことがわかったから。
「朝は米のメシ食わねえと食った気にならねえんだよ、ってよく言ってたもんね」
そう笑ったら、今度は海がくすぐったそうな顔をする。
「変なこと覚えてんだな」
「だって、朝からパンとか力つかねえぞ、なんてよく文句付けられたもん」
シリアルとかパンとか、軽めのもので済ませてたあたしのことを日本人失格みたいな言い方してた。そんな海が外国暮らししてることに、変な寂しさを感じてたのに。
「誰も作ってくれねえからさ。見よう見まねで始めたんだよ」
呟くと、海はさっさとご飯をかきこんでいく。
「……いないの?」
「あ? 何が」
「ご飯作ってくれるような人。ホントに、いない?」
なんとなく気恥ずかしくて、焼き魚を箸でつつきながら聞く。
「……もしかして、彼女がいるかって聞いてんの」
「ちょ、直球で返さないでよね。たださ、その……いたら悪いなって思ったから。それだけ」
あたしが言い終えるなり、海が自分の箸を置く。外から聞こえる騒音より、なぜか大きく響いた。
「お前、俺がそういうことするやつだって思ってんのかよ」
まっすぐに、真剣に視線を捕らえられて、思わずたじろぐ。海は、すごく怖い顔をしていた。
「そんな相手がいるのに、お前を部屋にまで連れてくるような男だと思うのか?」
「え、と……」
ガタン、と音を立てて立ち上がった海があたしのそばに来る。怒られるのかと肩を縮めたら、その肩を掴んで上向かせられた。
「う……っ」
名前を呼ぶことも許さない、激しいキス。椅子ごと固定されて動けないあたしは、抵抗もできずに海の熱い唇を感じるしかなくて。
「……わけないだろ」
唇が離れた一瞬、低い声が吐き捨てた。
「こんなに抱きたいと思う女、他にいるわけないだろうが」
「海――」
ひどく怒ったように、それでいて切なげに耳元で聞こえた言葉。それを合図にしたかのように、海の動作が激しくなる。椅子から立ち上がらされ、強引に隣の寝室に連れて行かれ、突き飛ばすようにベッドへ倒された。
「菜緒、菜緒……っ」
荒い息と共にうわごとのように何度も呼ぶ声。それと同じだけキスされて、着ていたサマードレスの肩紐をずらされる。薄布は何の歯止めにもならずに脱がされ、あっという間に下着だけになってしまう。
「ちょっ、待って海、だめ……っ」
「嫌だ」
「海ってば」
「嫌だ……!」
まるでわがままな子供みたいにそう言って、海はあたしの両手首を押さえこむ。勝ち誇ったみたいに見下ろしてるのに、泣き出しそうな顔。
「抱きたいんだ」
苦しげにかすれた一言に、心臓を掴まれた気がした。痺れたみたいに、声まで出ない。
「ずっと、ずっと、こうしたかった。お前は気づかなかっただろうけど、もういつからか思い出せないくらい昔から、俺は菜緒を抱きたかった。無理だってあきらめて、あきらめようとして――でも、夢が叶った。泣いてるお前に卑怯なやり方して、それでも……叶った夢をまたあきらめるなんて、もうできないんだよ……っ」
再び下りてきた唇が、また重ねられる。最初の夜の余裕が嘘みたいな、むさぼるような必死のキス。だからこそ、海の心が そのまま伝わってくる。
そう、あたしは気づいていた。本当は、もうずっと前に。
ふとした仕草の裏に、何でもない会話の合間に、海があたしを見ていたこと。その目に込められた熱にも、優しさにも気づいていたのに、気づかないふりをしてた。そんな海の気持ちに応えるのが怖くて、二人の関係が変わってしまうのが嫌で、あえて別の相手と恋をした。違う人といる時間が長くなって、海といるのが苦痛になって、そのうちに大学が離れて、内心ではほっとしてたのかもしれない。
わかっていたからだ。こうして、一度触れ合ってしまったら、もう昔のあたしたちには戻れなくなることが――。
「好きだ……菜緒」
目を閉じ、キスを受けながら、流れた涙。それがどちらのものだったのか、触れ合った頬の熱さに、もうわからなくなっていた。
バカンス五日目の朝が来た。仕事が休みだという海がはりきって用意してくれた車(これも友達に借りたらしい)で、あたしはかなり遅めのグアム観光に出ることになった。渋るあたしを海が強引に連れ出した形だったけれど、ショッピングから始まり、ラッテストーンというグアム名物の不思議な石が並ぶ公園や聖母マリア大聖堂まで見る頃には、外の空気に気分も晴れてきた。
ローカルの人々にも人気のレストランで昼食後、次にやってきたのは植物園。鮮やかな色合いの花々が咲き乱れ、パパイヤやグアバなどのトロピカルフルーツが実る光景は、まさに南国そのものだ。それほど人も多くなくて、静かな散策にほっとできる。瑞々しいフルーツの試食に夢中になっていたら、海が笑いかけてきた。
「少しは元気出たみたいだな」
優しい言葉なのに、ドキッとする。今の時間は全部夢で、現実はこんなに優しくないことを思い出してしまったからだ。
忘れたいけれど、忘れられずにいる記憶。思い出したくないのに、ともすれば思い浮かべ、考え続けてしまう疑問。そんな全てが明るみに出るのと同時に、昨夜のことも思い出す。
激しくて熱いのに、温かくて優しい。本当の海に抱かれてるみたいに、包み込まれていた時間。あれが現実だったなら、どれほどいいだろう。そんなことを思ってから、ずるくて汚い自分に気づくのだ。
「ごめん、思い出させたな」
くしゃりと頭を撫でられ、あたしは首を振った。海が考えるほどに、あたしは殊勝でも純粋でもない。どろどろした気持ちに蓋をして、こんな風に一緒に過ごしているのだから。
手を引かれて歩きながら、この手を離さなければいけないことを心に刻む。あと二日、その間しか、海とはいられないのだ。
ズキンと痛んだ胸を押さえ、この痛みがどんな種類のものなのか、考えないようにしていた時。立ち止まった海が言った。
「あの花、お前みたいだよな」
「え?」
指差された方角を見ると、そこに咲いているのは白いプルメリアの花々。五枚の花弁の真ん中がほんの少し黄色く色づいている、よく花嫁のブーケなんかにも使われる花だ。
「明るい太陽が似合うんだけど、他の赤とかピンクの花みたいに派手じゃなくて、静かに咲いてんの。でも、見た人の心に残る、そんな花。なーんてな」
「なっ、何それ。いつからそんなクサイこと言うようになったの?」
「あっ、クサイって言ったな? ロマンチストと言えロマンチストと!」
「きゃーっ、ちょっとそれ反則!」
またヘッドロックをかけられそうになって、逃げ惑うあたし。他の観光客から見たら、きっと普通の恋人同士に見えるんだろう。
――でも、違う。
あたしはそんな綺麗なプルメリアじゃないし、海の気持ちには応えられない。ううん、応える資格もない女なんだ。だから、今のこの瞬間も、綺麗な思い出にする。グアムでの、忘れられないバカンスに。
一人で決意を固める頃には、ホテルのビーチに戻っていた。でも、今度は海と一緒に例のダンスショーを見ながらバーベキューを食べることにした。
炎なんかも振り回してぐるぐる踊る男の人や、お姉さんたちのテンポのよいダンスに、共に手を叩いて感心する。海もよく喋ったし、あたしも同じだけ喋った。何でもないことでも可笑しくて、ただ一緒にいるだけで楽しかった。まるで昔に戻ったみたいに、全部忘れて笑い合った。
でも、その夜ホテルの部屋まで送ってくれた海は、中に入ろうとはしなかった。あたしも勧めなかったし、海も何も言わなかった。明日仕事が終わった後にまた会いに来るから、と約束して帰って行った。
一人で眠るベッドは、ひどく広く感じた。
六日目の日中、あたしは海が予約してくれたスパに来ていた。観光客があまり多くないという穴場らしく、のんびりとエステとマッサージを受けられて、ゆっくりしていた時。日本人スタッフだという、海の知り合いらしい女の人が挨拶に来てくれた。
「岸元さんの彼女さんですよね? お会いできて嬉しいです!」
元気な笑顔に、思わず否定できなくなる。
曖昧に返していたら、元々お喋りであるらしい彼女は世間話を延々続けていく。地元の日本人の間でも海は有名なのだと言われたところで、ようやく聞き返した。
「え? なんでって、だってやっぱりすごいラッキーじゃないですか! みんなが喉から手が出るほど欲しがってるグリーンカードを、抽選で当てちゃうんですもの」
「グリーンカード?」
「ほら、永住権のことですよ。最近アメリカの就労ビザもなかなか出ないのに、それどころか永住権持ちなんてもう何でもできるじゃないですかー! みんな苦労してるから最初はわりと嫉妬したりしたんですけど、でも事情聞いたらすごくお気の毒なこともあって……それに岸元さんの人柄もいいから、今じゃみんな応援してるんです」
ポカンとしているあたしをよそに、彼女が語った内容は、あたしの知らない海の過去――会わなかった七年の間の、海の真実だったのだ。
「嘘……でしょ」
スパから出たあたしは、外のベンチに力なく座り込んでしまった。
アメリカ政府が年に一度、各国の希望者に永住権取得のための抽選をしていること。日本でも現在、年に三百名前後の当選者がいること。その一人になった海が、四年前にグアムにやってきたのだということ。
それももちろん驚く話ではあったけれど、そのきっかけとなったのが海の両親の事故死だなんて、全くの初耳だったからだ。
「どうして、言ってくれなかったの……?」
じゃあ、今の海は本当にたった一人きりで、異国で頑張っているということではないか。あんまり衝撃で、いざという時のために買っておいた国際電話カードで実家に電話してしまった。そして母から聞いたのは、他でもない海自身が、あたしには言わないでくれと口止めしていたという話だった。
『だって、あんたも就職したばっかりで大変な時期だったし、海くんが時期を見て言うからって……結局七年も経っちゃったのね』
『亡くなったご両親がサプライズのつもりで申請してたのに、それが形見の贈り物みたいになっちゃうなんて、すごく切ないですよね……!』
母の言葉と、先ほどスパで聞いた言葉が交互に蘇る。極めつけは、母がほっとしたように話したこと――今回の再会は、決して偶然なんかじゃなかった、という事実だった。
『あんたがあんまりひどい状態で一人旅なんて行くもんだからさ、心配になっちゃって。それで海くんに連絡したのよ、一応住所とかだけは聞いてたから。え? いつって? もちろん、あんたが行く前に決まってるじゃないの。でも、ちゃんと会えたみたいでよかったわ。とにかく帰ってくるの待ってるからね』
最後のほうは耳にも入らず、電話を切った。つまり、海は知っていたのだ。あたしが来ることもその理由も知っていて、会いに来てくれた。
あくまで偶然を装うといういかにも海らしい優しさが、あたしを余計に責め立てる。そんな辛い思いをして、たった一人で頑張ってきた海に何もしてあげられないどころか、ひどい仕打ちを続けているのだから。
「やっぱり、だめだ……」
そう漏らしたあたしは、決意のままに立ち上がった。バッグの中から取り出したのは、海の働いているお店の住所。あたしにしてはすごい行動力で、一人でタクシーに乗って、住所のメモ通りに行ってもらった。たどり着いたのはダイビングショップと書かれた建物。海沿いの、お店などが立ち並ぶ場所の一番端、青いペンキで塗られた店の中に、海の笑顔があった。
ダイビングに来たのだろう客の手続きやら案内をしているらしく、愛想よく何やら話している。少し離れた路上からこっそり覗いていると、しばらくしてダイビングの一行らしき人々が出てきた。その後に付いて行く海も車に乗り込むのかと思ったら、お辞儀をして見送っている。次も、その次も同じで、あたしは首を傾げた。
すると、いきなり後ろから肩を叩かれ、死ぬほど驚く。振り向いたあたしの前で笑っていたのは、日本人の中年男性。日に焼けたいかにも人のよさげなその人は、海のいるショップのオーナーなのだと自己紹介した。
「あいつね、アシスタント・インストラクターなんだよ。あ、その顔見ると、自分がメインでやってるみたいにどうせ見栄でも張ってたんだな? でももうすぐ試験にも合格しそうだし、嘘じゃないよ、近い未来にはね」
「はあ……」
近くのカフェでコーヒーをご馳走してくれながら、オーナーさんは笑った。
「今はイントラも足りてるし店内メインで働いてもらってんだけど、時々アシスタントで潜らせてんの。あいつ潜るの好きだし、すげー頑張ってるしさ。単身乗り込んできた気合と努力を買って、面倒見てるわけよ」
「そうなんですか」
「菜緒ちゃんのことはよく話聞いてたし、写真も見せてもらったことあるからさ、すぐわかったよ」
どんな風に話をしていたのかと思うと恥ずかしくなって、俯く。そんなあたしに、彼は優しく続けた。
「あんまり年寄りくさいお節介はしたくないけど、その気があるなら海のこと頼むよ。あいつ、本当に君のこと想ってるから」
待ってて、と言い置かれて大人しく座っていたあたしは、あわてたように海が走ってくるのを見て仰天してしまった。
本当に嬉しそうに日差しの下を駆けて、あたしに手を振る海。
「オーナーが急遽オフにしてくれたんだ。だから、今から行こうぜ」
「どこに……」
「いいからいいから、早く乗れって!」
仕事が終わったらすぐ駆けつけるつもりで借りたままだったという車で、海は上機嫌であたしを連れて行く。
もう無理だって伝えて、謝るつもりだったのに。結局流されてしまう自分につくづく嫌気が差しながら、降り立った場所は海の見える丘。
「恋人岬。グアムと言えばここだしさ、菜緒を連れて来てやりたくて」
青く晴れ渡っていた空は、いつしか黄昏色に染まりつつある。向こう側が断崖絶壁のその岬には、昔スペイン統治時代に、有力なスペイン人と結婚させられそうになったチャモロの娘が恋人と身を投げた、という伝説があるらしい。
互いの長い黒髪を結び合って、離れないですむようにした悲しい恋人たちの話。それが本当なのかはわからないけれど、美しいこの海でそんな悲劇があったのかと思うと切なくなる。
でも当人たちにとっての悲恋も後世の人々にはロマンチックな伝説となって、幸せな恋人たちの見物場所となっているのだ。展望台の柵に南京錠をかけると永遠に結ばれるという新しい伝説が生まれ、今ではたくさんの南京錠が付けられている。
「俺たちもやろうぜ」
冗談めかして南京錠に名前を書いて、付けようとする海の手を、あたしは止めた。正直になるなら、今ここでしかないと思ったからだ。悲しい恋人たちの崖で、嘘はつけない。
「あ、オーナーのやつ、本当のこと話したんだって? やべーな、俺マジでかっこ悪いじゃん」
沈黙に耐えかねたように、海が苦笑いをする。でも、あたしがスパの女性と母の話を伝える頃には、その笑いも消えてしまった。ただ乱暴に頭を掻いて、柵に突っ伏す海。
そうして夕日を二人で眺めながら、あたしは自分の気持ちを告げた。ぐちゃぐちゃした、醜い心を全て説明することはできない。それでもわかるのは、あたしと海が一緒にいられるのは、今夜だけだということ。
夢を見るのも、懐かしさに浸るのも、忘れたふりをして笑うのも、今夜まで。その後は、海もあたしもこれからの道を歩まなければいけない。ただ何にもせずにたそがれていることはできないのだと、あたしはもうわかっている。
「そうやってさ、菜緒は結局ちゃんと前に進むんだよな」
かなり時間が経ってから、海は寂しそうに笑った。その目が笑えていないことも、苦しげに眉間に皺が寄っていることもわかっていたけれど、ただ頷いた。
「……ごめん」
「謝んなよ。謝られたらさ、俺だけがすげーバカみたいだろ」
「そんなことないよ。バカはあたしだもん。バカすぎるから、自分がわからないんだよ」
いろんなことがありすぎて、自分がどうしたいのか、どうするべきなのかもわからない。前に進もうとしているようで、本当は必死にあがいているだけなのだ。
「菜緒、こっちに来いよ。このまま一緒にグアムに住んで、ずっと夢見てたっていいじゃんか。どうせ俺には好きなダイビングしかないし、ここで生きてくって決めたんだ。だから菜緒も、別に無理して辛い現実に帰る必要ないって」
「だめだよ。海とここで住むってことは、それが現実になるってことだもん。夢見たい気分だけのあたしがここにいたら、海の邪魔になる。あたしだってちゃんと海と向かい合えない。それにさ、あたし泳げないし、海とダイビングもできないよ」
小さい頃に大人用のプールで溺れかけたから。そんな単純な理由で泳げなくなった。だから、グアムのビーチでもたそがれるしかなかったのだ。
「菜緒……」
白い波が、遥か彼方の岩に当たって弾けていく。紅く染まっていく夕焼け空を、あたしは瞳に焼き付けていた。ちゃんと、自分の足で立たなければ。もう、バカンスは終わりなのだ。
「ねえ、海」
自分の心を見つめて、真剣に向かい合って、それで答えが見つかったら――あたしの言葉を聞く海の表情は、きつく抱きしめられて見えなかった。
一年後、あたしは二十六になった。
あれほど好きで、苦しめられたバカ男とは、一度だけ再会した。偶然、前の会社の近くを通りかかった時、忘れ物を届けに来たらしい奥さんと話しているところを見たのだ。そばにはベビーカーに乗った赤ちゃんがいて、二人には気づかれずにそっと笑いかけた。そうできるくらいに、自分の中にもうわだかまりが残っていないことがわかった。
そしてあたしは今、かなり短くなった髪を夕方の潮風にそよがせながら、ビーチに立っている。一年置いて、はっきりと確信が持てた自分の気持ちに、正直になるために。
「菜緒!」
先ほど呼び出したばかりの相手が、遠くから駆け寄ってくる。去年と同じ、日に焼けた笑顔を見つけた途端、泣きたくなるくらいに胸が熱くなった。
確かにあたしたちは、もう昔の二人じゃない。けれどあの頃恐れていたようにではなく、全く新しい未来への道があたしの前に続いている。
こうして来てくれたことで、その道が閉ざされなかったことがわかったから、あたしは勇気を振り絞った。
「待って!」
近づいてこようとするのを遮って、そこで見ていてくれるように伝える。プルメリアみたいに真っ白なビキニを着ているのは、このためだったのだから。
いきなりざばざばと海に入っていくあたしを、心配そうに見つめる視線。そう、ずっとこんな風に見つめてくれていた彼に、あたしはあたしの決意を見せるのだ。
ちょうど海水が胸辺りまで来る深さで立ち止まり、すう、と息を吸い込むと、あたしは一気に足を蹴った。
まだしつこく残る水への恐怖心と、生まれつきの運動オンチを必死に克服しようとしてきたこの半年の、訓練成果。あたしの決死の挑戦は、十メートルにも満たない距離で終わった。水に濡れた顔をこすりながら、みじめに苦笑いする。
「ま、まだ……息継ぎ、できなくて」
言い訳は、そこまでしかさせてもらえなかった。ばしゃばしゃと勢いよく踏み込んできた彼が――海が、あたしを強く強く抱きしめたから。
「海と、一緒にいたいから。あたし、まだ何もできないけど……海の好きなこと、あたしも一緒に好きになりたいから。だから、あたし――」
アルバイトをしながら頑張って旅費を貯めて、合間に通ったのは近所のジム。初心者のための水泳クラスで、懸命に泳ぎを習ってきた。そんなあたしの話を何度も頷きながら聞いていた海は、信じられない、とでも言いたそうな顔で、あたしの体を一気に持ち上げた。
海の首に手を回した状態で、自然と見つめ合う。今にも沈み行こうとする太陽に照らされ、壮大な海に包まれながら。
「ずっと……そばにいてくれるんだよな?」
海の問いに、あたしは微笑む。
「もう、どこにも行かねえんだよな?」
次の問いにも、しっかりと頷いた。
そしてあたしは、満面の笑顔になった海の頬を両手で引き寄せ、自分から口付けたのだ。
人生で二度目の、二人で始めるバカンス。この南の島で愛しい人と見続ける夢が、永遠に覚めないように。二人で手を取り合って、歩んでいこうと決めたから――。
黄昏の海の中、あたしたちは何度も何度も、気が済むまで誓いのキスを繰り返した。
(了)
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