十九.愛の形
気負わずに接してみれば、昭瑛は本当に要領が悪いだけの子どもだった。頭はずば抜けて良いのだが、手先が壊滅的に不器用。特に楽器の演奏は致命的で、ここまでの不協和音を奏でられるのはもう、別の意味での才能だろう。
時折堪えかねて声を荒らげる蓮瓔の叱責を、しかし昭瑛は嬉しそうに受け止めていた。それだけ、人に悪意以外の関心を向けられて来なかったのだと思うと、蓮瓔の胸は今も鈍く痛む。
以前とは別種の賑やかさに満ちた蓮瓔の部屋を、婚約者の世璋が訪ねて来たのは、それからしばらくしてのことだった。
「……お元気そうで、良かった」
緊張の面持ちで彼を迎えた蓮瓔に対し、世璋は普段通りの笑顔で椅子に落ち着く。そう呟いて目を細めた婚約者に、蓮瓔は口元を歪めて問うた。
「──何故、あんな嘆願書を出されたのですか?」
世璋は一瞬目を見開いたが、照れたように笑って誤魔化す。
「見られてしまいましたか。お恥ずかしい」
「李公子!」
いきり立つ蓮瓔の声に、世璋は肩を竦めた。杏仁型の綺麗な瞳に真っ直ぐに見つめられ、その視線の強さに、蓮瓔は思わずたじろぐ。
世璋は、声を潜めるようにして言った。
「──大切な婚約者を守ろうとすることが、そんなにおかしなことでしょうか?」
「ですから、何故……!」
蓮瓔は決して、良い婚約者といえる存在ではなかった。
彼は兄の幼馴染として気安い存在ではあったが、立場が変わって以降、軽薄にも思える自由さが癇に障って仕方がなかった。それゆえに蓮瓔は、辛辣な物言いを繰り返していた。
今思えば、自分で自分を雁字搦めにしていた癖に、立場に縛られない彼に嫉妬していた気がする。歳上の彼には、きっと見抜かれていたことだろう。
世璋は幾度も湯のみに手をやりかけては戻し、やがて、どこか拗ねたように言った。
「……白晟殿下の側近候補として育った私には、皇女様は、お生まれになった時から身近な存在でした。不遜を承知で言えば、妹のように感じていた。家族のように大切なお方を守りたいと思うのは、当然のことでしょう」
『せいしょう様! はやく!』
『待ってください、皇女様! ……ああ、そんなに泥だらけになって!』
雨上がりの庭をはしゃいで駆け回る幼い蓮瓔を、同じく泥だらけになって追い掛けていた世璋。そんな二人を遠くから眺めていた、兄の白晟。
忘れていた懐かしい記憶に、蓮瓔は思わず口元を押さえた。
「……だから、私との婚約もお受けになったのですか?」
兄の正妃が王家派の班氏に決まり、蓮瓔の降嫁先は、父母の後ろ盾である趙家派か、新たに父の寵妃となった周妃を擁中立派のどちらかとなった。どちらとも決め手に欠ける中、世璋が熱烈に訴え、同じ趙家派の李家に決まったのだった。
蓮瓔はその行為を、彼が将来の出世の足掛かりにしようとしていると捉えていた。改革を肯定する王家寄りの彼の主義主張が、それの証拠だと。
(でも、……違ったの?)
世璋は不貞腐れたような口調を崩さず、頬を赤らめながら答えた。
「……中立派は、まだまだ危うい。また朱家のような企みを起こせば、皇女様のお立場も危うくなる。朝堂の趨勢がどう転ぶかは誰にも分かりませんが、少なくとも私なら、何があっても傍でお守りする。だから……」
初めて触れた彼の本音に、蓮瓔は声を失った。
これほどに大切に思われていたなんて、考えたこともなかったのだ。
世璋は耳まで真っ赤になりながら、一息に言い切った。
「──この胸にあるのは、燃えるような恋情でないのは確かです。そうした幸せを皇女様にお与え出来ないことは、心苦しく思っています。……けれど、何があっても、一番身近な家族としてお支えすると誓います」
次回の英玄試では首席で及第間違いなしと言われる秀才の言葉とは、とても思えない。不器用で、直截な告白に、蓮瓔はすぐに反応することが出来なかった。
(それは……本当? 信じて良いの……?)
分かりやすい言葉や態度にばかり反応し、道を見失った記憶は鮮明で、今すぐ彼の胸に飛び込むことは難しい。本当は、誰かを信じることが怖い。
ただ、彼なら、その感情すら含めて受け入れてくれると、そう思えた。
蓮瓔は顔を上げ、真っ直ぐに世璋を見つめる。
「……時間を、ください。共に暮らす日々の中で、ゆっくり、世璋様を信じられるようになりたい」
今は、そう答えるのが精一杯だった。けれど、世璋は嬉しそうに微笑む。
「……久しぶりに、名を呼んでいただけた」
子どものような無邪気な笑顔に、蓮瓔もまた、おずおずと微笑んだ。
光啓十年、春。
伝統的な真紅の衣装を纏った美しい花嫁が、同じく真紅の衣装を身に付けた花婿に迎えられ、ぎこちなく微笑んでいた。花婿は満面の笑みを浮かべ、この世の至宝のように花嫁を見つめていたと言われている。
現帝の長女である公主・蘇 蓮瓔は、夫となった李 世璋と時に喧嘩を繰り広げながら、ささやかな幸せに満ちた家庭を築いた。彼女は時折後宮を訪ね、舞楽の名手として妃や皇女たちを指導している。彼女を慕う義妹の昭瑛皇女は、義兄となった世璋への嫉妬を隠そうともせず、義姉に叱られては嬉しそうに笑っていたそうだ。
一方、婚姻の儀の直前の英玄試で見事、首席合格を成し遂げた世璋は、次代を担う官僚として日々外廷で奮闘していた。六年後、光啓帝が急な病に倒れ、玉座を降りた後、彼は新帝となった幼馴染を身を粉にして支えたという。
端明、光啓の両時代を支えてきた派閥政治は、この頃には限界を迎えつつあった。かつての、廃家・朱一族や罪妃・姚氏の凶行も、派閥の存在が一因だと言われている。晃宇帝・白晟と宰相・李 世璋は、国を盛り立てる新たな仕組みを、生涯にわたって模索し続けた。
大国・礼はしばし、混迷の時代を生きることとなる。けれども、国を導く両輪は夜明けを信じ、家族に支えられながら、懸命に舵取りを続けたと後世に伝えられた。




