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第八章 約束の白い花



 旧校舎の小部屋には、午後の淡い光が差し込んでいた。曇り空を透かして届く光は、やわらかく、どこか頼りなげだった。


 窓辺に座るすみれの横顔は、その光の中でひどく儚く見えた。


「……また、置いていかれる気がして」


 その言葉は、かすれた糸のように細く、今にも切れてしまいそうだった。


 野ばらは、胸の奥が締めつけられるのを感じながら、ゆっくりと息を吸った。


「すみれさん」


 震えを抑えた声で、そっと呼ぶ。


「わたしは……置いていったりしません」


 すみれは、驚いたように顔を上げた。


「……どうして、そんなふうに言い切れるの?」


「未来のことなんて、誰にもわかりません」


 野ばらは、正直に言葉を紡ぐ。


「わたしも、怖いです」


「すみれさんに嫌われたらどうしようって、毎日考えています」


 すみれの瞳が、わずかに揺れた。


「……でも」


 野ばらは、一歩、距離を縮める。


「それでも、そばにいたいんです」


「怖くても、逃げたくない」


 沈黙が落ちた。


 遠くで風が窓を揺らし、木々の葉が擦れる音がかすかに響く。


「……強いのね」


 すみれは、かすかに笑った。


「全然です」


 野ばらは、首を横に振る。


「弱くて、不安で……だからこそ、必死なんです」


 すみれは、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。


「わたしね……昔、大好きだった人に」


「何も言われないまま、離れていかれたの」


「そのとき……自分には、つなぎとめる価値がないんだって、思ってしまった」


 胸に、鈍い痛みが走る。


「それからずっと、人を好きになるたびに……」


「失う準備ばかりしてきた」


 野ばらは、思わずすみれの手を取った。


「……そんなこと、ありません」


 小さく、しかし確かな力で。


「すみれさんは、誰よりもやさしくて……」


「一緒にいると、心があたたかくなる人です」


 すみれの指先が、わずかに震えた。


「……そんなふうに言われたら」


「信じたくなってしまうじゃない」


 目尻に、小さな涙がにじむ。


「信じてください」


 野ばらは、まっすぐに見つめた。


「もし……いつか、迷うことがあっても」


「そのときは、逃げずに話します」


「黙って離れたりしません」


 すみれは、静かに涙をこぼした。


 それは、悲しみの涙ではなかった。


 長い間、閉じ込めてきた不安が、ようやく溶けていくような涙だった。


「……ずるいわ」


 かすれた声で、微笑む。


「そんな約束、反則よ」


「破ったら……許しませんからね」


 野ばらは、思わず小さく笑った。


「はい。覚悟しておきます」


 二人は、そっと額を寄せ合った。


 触れ合うほど近い距離で、互いの鼓動を感じる。


 逃げ場のないほど、確かな温もり。


 窓の外では、雲の切れ間から、淡い光が差し込み始めていた。


「……ねえ、野ばら」


「はい」


「これから先、たくさん不安になると思う」


「泣くことも、迷うことも、きっとある」


 すみれは、ゆっくりと言った。


「それでも……一緒に歩いてくれる?」


 野ばらは、迷わずうなずいた。


「はい」


「何度でも、手を取り合って」


「一緒に歩きます」


 すみれは、そっと微笑んだ。


 その笑顔は、これまででいちばん、穏やかだった。


 野ばらは、胸の奥で、小さな花が咲くのを感じた。


 白く、静かで、強い花。


 それは、約束の証のようだった。


 ふたりの未来は、まだ何も決まっていない。


 けれど——


 もう、ひとりではなかった。





第九章 薄紅に触れるくちづけ


 春の終わりを告げるように、学院の庭には白い花が咲き始めていた。名もなき小さな花々が、風に揺れながら、静かに季節の移ろいを語っている。


 放課後の中庭は、人影もまばらだった。


 野ばらは、石畳の小道を歩きながら、胸の鼓動を必死に抑えていた。


(……落ち着いて)


 そう言い聞かせても、心臓は言うことを聞いてくれない。


 今日は、すみれと二人で過ごす約束をしていた。


 図書室でも、教室でもなく——

 この庭で。


 白い花の咲く木の下で待っていると、やがて、軽やかな足音が近づいてくる。


「……待たせた?」


 振り向くと、そこに立っていたのはすみれだった。


 淡い藤色のワンピースに、薄手の羽織。風に揺れる髪が、午後の光を受けてきらめいている。


「いえ……今、来たところです」


 少し噛みながら答えると、すみれはくすっと笑った。


「緊張してる?」


「……はい」


 正直に言うと、すみれの表情がやわらぐ。


「わたしもよ」


 二人は並んで、木陰のベンチに腰を下ろした。


 白い花びらが、はらりと肩に落ちる。


「……綺麗ですね」


 野ばらがつぶやく。


「ええ」


 すみれは、花ではなく、野ばらを見つめていた。


 その視線に気づき、思わず目を伏せる。


「すみれさん……」


「なあに?」


 声が、いつもより近い。


「この前の約束……覚えてますか」


「もちろん」


 すみれは、静かにうなずく。


「逃げないって……言ってくれたこと」


 野ばらは、胸に手を当てた。


「わたし、ずっと考えていました」


「すみれさんと一緒にいる未来のこと」


 すみれの指先が、ベンチの縁をきゅっと掴む。


「……それで?」


「怖いです」


 正直な言葉。


「でも、それ以上に……」


 顔を上げる。


「離れたくないって、思いました」


 風が、二人の間をすり抜けていく。


 花の香りが、ふわりと広がった。


「……野ばら」


 すみれの声は、かすかに震えていた。


「そんなふうに言われたら……」


「もう、戻れなくなるじゃない」


 野ばらは、そっとすみれの手に触れた。


「戻らなくて、いいです」


 一瞬の沈黙。


 それから、すみれは小さく息を吐き、微笑んだ。


「……ほんとうに、ずるい人」


 指を絡め返す。


 二人の距離は、いつの間にか、吐息が触れるほど近くなっていた。


 互いの視線が、絡み合う。


 逃げ場のないほど、まっすぐに。


「……ねえ、野ばら」


「はい」


「今……いい?」


 何を指しているのか、言わなくてもわかった。


 野ばらの頬が、熱を帯びる。


「……はい」


 小さな返事。


 それだけで、すみれは決心したように、ゆっくりと顔を近づけた。


 触れるか、触れないか。


 その、ほんの一瞬。


 世界が、止まったように感じられた。


 そして——


 すみれの唇が、そっと、野ばらの唇に触れた。


 淡く、やわらかな感触。


 花びらが触れたような、かすかな口づけ。


 野ばらは、目を閉じた。


 胸の奥で、何かが静かに弾ける。


(……すみれさん……)


 すぐに離れようとしたすみれの肩を、野ばらはそっと引き寄せた。


「……もう、少しだけ」


 かすれた声。


 すみれは、驚いたように目を見開き、それから、やさしく微笑んだ。


「……欲張りね」


 二度目のくちづけは、少しだけ長かった。


 互いの気持ちを確かめ合うように。


 確かに、ここにいると伝えるように。


 やがて、ゆっくりと離れる。


 二人の額が、そっと触れ合ったままになる。


「……初めて、なの」


 すみれが、小さく告げる。


「わたしもです」


 野ばらは、照れながら答えた。


 二人で、くすりと笑う。


 白い花が、また一枚、舞い落ちた。


「……ねえ、野ばら」


「はい」


「これから先、どんなことがあっても」


「今日のこと、忘れないでね」


 野ばらは、強くうなずいた。


「忘れません」


「一生、忘れません」


 すみれは、満足そうに目を細めた。


 その笑顔は、もう迷いを帯びていなかった。


 それは、恋を選んだ人の顔だった。


 春の庭で交わされた、薄紅のくちづけ。


 それは、ふたりの物語が、次の章へ進む合図だった。





第十二章 永遠に咲く菫と野ばら


 春の終わりと初夏の気配が交じり合う頃、女学院の庭は一年で最も美しい季節を迎えていた。


 若葉は陽を受けてきらめき、花々は最後の力を振り絞るように咲き誇っている。白い花、淡い桃色、そして——紫苑色の小さな花。


 そのすべてが、静かに季節の移ろいを語っていた。


 野ばらは、木陰のベンチに腰掛け、手のひらの上の封筒をじっと見つめていた。


 淡いクリーム色の紙。


 そこに書かれた文字は、彼女の未来を大きく左右するものだった。


「……進学許可書」


 教師の推薦を受け、東京女子高等師範学校への進学が決まったのだ。


 本来なら、胸が躍る知らせだった。


 孤児同然の身で育った自分が、ここまで来られたことは奇跡に近い。


 けれど——


「……すみれさん」


 その名前を思うだけで、胸が締めつけられる。


 進学すれば、離れ離れになる。


 距離も、時間も、立場も変わってしまう。


(それでも……行かなきゃいけない)


 夢を諦めることは、すみれが望まないとわかっているから。


 野ばらは、そっと封筒を胸に抱いた。


 そこへ、聞き慣れた足音が近づく。


「……ここにいたのね」


 振り向くと、すみれが立っていた。


 淡い紫のワンピースに、白い帽子。風に揺れる姿は、まるで一枚の絵のようだった。


「すみれさん……」


 すみれは、野ばらの隣に腰を下ろす。


「聞いたわ」


 静かな声。


「進学、決まったんでしょう?」


 野ばらは、小さくうなずいた。


「……はい」


 一瞬の沈黙。


 鳥のさえずりだけが、二人の間を満たす。


「おめでとう」


 すみれは、やさしく微笑んだ。


「あなたなら、きっと行けると思ってた」


 その言葉が、胸に刺さる。


「……寂しくないんですか」


 思わず、こぼれた本音。


 すみれは、少しだけ目を伏せた。


「……寂しいわ」


 正直な答え。


「すごく、寂しい」


 でも、と続ける。


「それ以上に……誇らしいの」


 野ばらは、目頭が熱くなった。


「わたし……怖いんです」


「離れたら……気持ちが変わってしまうんじゃないかって」


 すみれは、そっと野ばらの手を取った。


「変わらないわ」


 きっぱりと。


「距離なんて、心の前では無力よ」


 野ばらは、涙をこらえながら微笑んだ。


「……すみれさんらしい」


 その夜。


 寄宿舎の部屋で、野ばらは一通の手紙を書いていた。


 すみれへの、初めての長い手紙だった。


 ——どんなに離れても、あなたを想っています。


 ——毎日、あなたの名前を心の中で呼びます。


 ——必ず、また並んで歩ける日まで。


 数日後。


 学院の講堂で、卒業式が行われた。


 厳かな音楽と、拍手。


 白い制服に身を包んだ生徒たちの中で、野ばらとすみれは、しっかりと視線を交わした。


 言葉はいらなかった。


 その瞳だけで、すべてが伝わる。


 式のあと、二人は人気のない裏庭へ向かった。


 かつて、すべてが始まった場所。


 白い花の木の下。


「……ここ、覚えてる?」


 すみれが言う。


「もちろんです」


 野ばらは微笑んだ。


「初めて、ちゃんと話した場所です」


 すみれは、そっと懐から小さな箱を取り出した。


「……これ」


 中には、細い銀の指輪が二つ入っていた。


「派手なものじゃないけど……」


「約束の印」


 野ばらは、言葉を失った。


「すみれさん……」


「今すぐ結婚とか、そういう意味じゃないわよ?」


 照れたように笑う。


「でも……」


「いつか、一緒に生きるって決めた証」


 野ばらの瞳から、涙がこぼれ落ちた。


「……はい」


 震える声で答える。


「一生、大事にします」


 二人は、互いの指に指輪をはめた。


 小さく、しかし確かな誓い。


「……野ばら」


「はい」


「わたし、もう逃げない」


「あなたとなら、どんな未来でもいい」


 野ばらは、すみれを強く抱きしめた。


「わたしもです」


「どんな遠回りをしても、戻ってきます」


 そっと、唇が重なる。


 今度のキスは、迷いのない、深いものだった。


 数年後——。


 東京の小さな出版社。


 そこでは、一冊の本が話題になっていた。


 女性の友情と愛を描いた、静かな恋物語。


 作者名は——野ばら。


 その編集室には、いつも一人の女性が寄り添っていた。


 紫苑色の服を好む、美しい女性。


 白樺すみれ。


 二人は、ひっそりと、しかし誇り高く生きていた。


 手を取り合いながら。


 誰にも否定されない、確かな愛として。


 庭には、今も白い花が咲いている。


 あの日と同じように。


 菫と野ばらは、これからも——


 永遠に、咲き続ける。










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