大正悲劇
第一章 薄紅の邂逅
春まだ浅い大正十二年の午後。帝都の空には、淡い霞がかかっていた。
野ばらは、女学校の制服に身を包んだまま、銀杏並木の続く通りを歩いていた。濃紺の袴の裾が、風に揺れるたび、小さく音を立てる。
「……今日も、無事に終わった」
小さく息をつきながら、野ばらは胸元のリボンをそっと整えた。
名門・白百合女学校に通う彼女は、成績優秀で品行方正。教師からも生徒からも一目置かれる存在だった。だが、その内側には、誰にも明かせない孤独を抱えていた。
両親を早くに亡くし、今は叔母の家に身を寄せて暮らしている。進学も就職も、自分の意志だけでは決められない身の上だった。
(……私は、これからどうなるのだろう)
そんなことを考えながら歩いていると、前方から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「すみれ様、こちらですわ」 「まあ、椿さんったら、そんなに急がなくても……」
野ばらの視線の先には、華やかな一団があった。
中心にいるのは、すみれ。
白磁のような肌に、艶やかな黒髪。財閥・白樺家の令嬢として知られる彼女は、女学校でもひときわ目立つ存在だった。
その傍らには、快活な椿はるか、理知的な楠、穏やかな枝が並んでいる。
(……きれい)
思わず、野ばらは足を止めた。
すみれは、笑うだけで周囲の空気を変えてしまう。不思議な力を持っているように見えた。
そのときだった。
「きゃっ……!」
突然、誰かが野ばらにぶつかった。
衝撃で手に持っていた書物が宙を舞い、石畳の上に散らばる。
「あ……す、すみません!」
慌てて顔を上げると、目の前には、あのすみれが立っていた。
至近距離で見る彼女は、想像以上に美しかった。
「こちらこそ、ごめんなさい。前を見ていなくて……」
柔らかな声が、耳に届く。
野ばらの胸が、どくん、と大きく鳴った。
「い、いえ……私こそ……」
二人は同時にしゃがみ込み、散らばった本を拾い集める。
指先が、ふと触れ合った。
その瞬間、野ばらの体に、微かな電流のようなものが走った。
(……なに、これ……)
思わず手を引っ込める。
すみれは、少し驚いたように目を瞬かせてから、くすりと微笑んだ。
「大丈夫?」 「……はい」
拾い終えた本を抱え、二人は立ち上がる。
「あなた、白百合の生徒さんよね?」
すみれが尋ねる。
「は、はい。野ばらと申します」
「野ばらさん……素敵なお名前」
その言葉だけで、胸が熱くなる。
こんなふうに、誰かに名前を呼ばれたのは、久しぶりだった。
「私は、すみれ。白樺すみれよ」
そう名乗る彼女の横で、椿はるかがにやりと笑った。
「へえ、野ばらちゃんね。よろしく!」
「急に距離が近いわ、椿」
楠がたしなめ、枝が穏やかに微笑む。
「ご縁ですね」
四人に囲まれ、野ばらは少し戸惑いながらも、心が不思議と温かくなるのを感じていた。
「……あの、私、そろそろ……」
そう言いかけたとき、すみれが一歩近づいた。
「また、会えますか?」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、野ばらは言葉を失う。
「え……」
「今度、学園の図書室でお茶会があるの。よかったら、一緒にどう?」
誘いの言葉に、胸が高鳴った。
(私なんかが……でも……)
迷いながらも、野ばらは小さく頷いた。
「……はい。ぜひ」
その瞬間、すみれの顔が、ぱっと花開いたように明るくなる。
「よかった」
夕暮れの光が、五人を淡く包み込む。
それは、野ばらの人生を大きく変える、最初の出会いだった。
第二章 揺れる菫色のまなざし
朝の薄光が、女学院の長い廊下を静かに照らしていた。磨き込まれた板張りの床には、窓枠の影が幾何学模様のように落ちている。
野ばらは、胸元でそっと手を組みながら歩いていた。昨日の出来事が、まだ夢のように心に残っている。椿はるかの言葉。あの澄んだ声。すみれの、どこか切なげな横顔。
「……落ち着かなくちゃ」
小さくつぶやき、自分を戒めるように深呼吸する。
教室に入ると、すでに数人の生徒が席についていた。白樺が窓辺で本を読み、楠は友人と楽しげに話している。枝は黒板の前でノートを広げ、熱心に何かを書き留めていた。
そして——。
すみれは、静かに自分の席に座っていた。
淡い紫のリボンが、黒髪によく映えている。その横顔を見た瞬間、野ばらの胸はきゅっと締めつけられた。
「おはよう……すみれさん」
勇気を出して声をかける。
「……おはよう、野ばら」
すみれは微笑んだ。その笑顔はやさしいのに、どこか遠い。
野ばらは、その距離がもどかしかった。
授業が始まっても、野ばらの心は落ち着かなかった。黒板の文字を追いながらも、意識は隣の席へと流れていく。
ときおり、すみれの指先が机の上で小さく動くのが見えた。ペンを持つ指、ノートをめくる仕草。そのすべてが、なぜか胸に残る。
「どうして……こんなに気になるの?」
自分の気持ちがわからず、野ばらは困惑していた。
昼休み。
中庭では、早咲きの椿が赤く花をつけていた。生徒たちは思い思いに集まり、弁当を広げている。
「野ばら、一緒に食べない?」
声をかけてきたのは楠だった。
「え、あ……うん」
三人で木陰に腰を下ろす。白樺もあとから合流し、自然と輪ができた。
しかし、すみれの姿は見当たらない。
「すみれなら、図書室よ」
枝が何気なく言った。
「さっき、資料を探すって」
その言葉を聞いた瞬間、野ばらの胸がざわめいた。
「……わたし、ちょっと忘れ物してきます」
衝動的に立ち上がり、皆の視線を背に廊下へ向かう。
図書室は、ひんやりとした空気に包まれていた。高い天井と、壁一面の本棚。ほのかにインクと紙の匂いが漂っている。
奥の机で、すみれは本を広げていた。
「すみれさん……」
呼びかけると、彼女は顔を上げた。
「あら、野ばら」
驚いたように目を見開き、すぐに微笑む。
「どうしたの?」
「えっと……その……」
言葉が詰まる。何を言いたかったのか、自分でもわからない。
沈黙が二人の間に落ちた。
やがて、すみれが静かに口を開く。
「昨日のこと……覚えてる?」
胸が跳ねる。
「……はい」
「わたしね……少し、怖かったの」
すみれは視線を伏せた。
「誰かに近づくのが……いつも、怖いの」
その声は、かすかに震えていた。
野ばらは、思わず一歩近づく。
「でも……野ばらといると、不思議と安心するの」
顔を上げたすみれの瞳は、まっすぐだった。
「それが……戸惑ってしまって」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「わたし……嬉しいです」
野ばらは、精一杯の気持ちを込めて言った。
「すみれさんが、そう思ってくれるなら……」
二人の距離は、いつの間にかほんのわずかになっていた。
互いの呼吸が伝わるほどに。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
午後の授業開始を告げる音。
はっとして、二人は離れる。
「……戻らなきゃ」
すみれは少し照れたように笑った。
「ええ……」
並んで歩きながら、野ばらは胸の高鳴りを抑えられなかった。
この気持ちは、もう否定できない。
菫色のまなざしは、確かに——
野ばらの心を揺さぶり続けていた。
第三章 椿はるかの微笑
午後の陽射しは、女学院の庭園をやわらかく包み込んでいた。冬の名残を残しながらも、草木は少しずつ春の気配をまとい始めている。
野ばらは、縁側に腰を下ろし、膝の上にノートを広げていた。しかし、視線は文字を追っていない。
頭の中には、昼の図書室での出来事が何度もよみがえっていた。
すみれのまっすぐな瞳。震える声。近づいた距離。
「……どうしよう」
頬に熱が集まるのを感じながら、野ばらは小さく息を吐いた。
そのとき、背後から軽やかな足音が近づいてくる。
「こんなところで、物思い?」
澄んだ声に振り向くと、そこには椿はるかが立っていた。
長い黒髪をゆるく結い、淡い生成り色の着物に洋風の上着を重ねている。和と洋を溶け合わせたその姿は、まるで雑誌の挿絵のようだった。
「は、はるかさん……」
「隣、いい?」
断る間もなく、はるかは自然に腰を下ろした。
「最近、元気ないみたいだから」
そう言って、やわらかく微笑む。
「……わかりますか?」
「うん。わたし、人の顔見るの得意なの」
冗談めかしながらも、その瞳は真剣だった。
しばらく沈黙が流れる。
風が庭の椿の花を揺らし、花びらが一枚、二人の間に落ちた。
「……すみれのこと、でしょ?」
はるかがぽつりと言った。
野ばらの肩がわずかに跳ねる。
「な、なんで……」
「見てれば、わかるわよ」
はるかは優しく笑った。
「あなた、あの子を見るとき、全然ちがう顔するもの」
胸を突かれたような気がした。
「……そんなに、わかりやすいですか」
「ええ。とっても」
はるかは悪戯っぽく目を細める。
「でもね、それって悪いことじゃない」
野ばらは、はるかの横顔を見つめた。
どこか大人びていて、包み込むような雰囲気がある。
「すみれはね……過去に、色々あったの」
はるかの声が、少し低くなる。
「大切な人と、突然引き離されてしまったことがあって」
「……そうなんですか」
「それ以来、人と深く関わるのを怖がってる」
野ばらは、胸が締めつけられるのを感じた。
「だから……あなたみたいな存在は、きっと救いになる」
はるかは、まっすぐに野ばらを見る。
「でも同時に、怖くもなるのよ」
「失うかもしれないって、思うから」
野ばらは、そっと拳を握った。
「……わたし、すみれさんを傷つけたくありません」
「知ってる」
はるかは静かにうなずく。
「だから、こうして話してるの」
しばらくして、はるかは立ち上がった。
「ねえ、野ばら」
「はい」
「迷ってもいい。でも、逃げないで」
その言葉は、やさしく、しかし強かった。
「あなたには、その資格がある」
はるかは微笑み、去っていった。
残された野ばらは、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに形を取り始めている。
——わたしは、すみれさんのそばにいたい。
その想いは、もう揺るがなかった。
庭の椿は、変わらず静かに咲き誇っていた。
第四章 白樺の告白
春の風は、女学院の校舎をやさしく撫でるように吹き抜けていた。廊下の窓は開け放たれ、遠くから街の音がかすかに届いてくる。
野ばらは、図書当番の札を胸に下げ、静かな足取りで図書室へ向かっていた。
今日は、白樺と二人きりで当番を務める日だった。
「……緊張するな」
小さく呟きながら扉を開ける。
室内には、すでに白樺の姿があった。窓際の机で帳簿を広げ、几帳面に文字を書き込んでいる。
「おはよう、野ばら」
「おはようございます、白樺さん」
穏やかな挨拶を交わし、それぞれの仕事に取りかかる。
本棚の整理、返却本の確認、机の整頓。
静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
やがて、白樺がふっと顔を上げる。
「……野ばら」
「はい?」
「最近、すみれと仲がいいね」
胸がわずかに跳ねる。
「え……そう、でしょうか」
「うん。いつも一緒にいる」
白樺の声は、穏やかだが、どこか影を帯びていた。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、白樺は意を決したように口を開いた。
「……わたしね」
ペンを置き、野ばらをまっすぐ見つめる。
「ずっと、あなたのことが好きだった」
空気が、凍りついたように感じられた。
「え……」
言葉が出ない。
「入学したときから」
白樺は、静かに続ける。
「不安そうに周りを見てるあなたを見て……放っておけなかった」
「いつの間にか、特別になっていた」
野ばらの胸は激しく脈打っていた。
「でも……今は、すみれのほうを見てるんでしょう?」
白樺は、苦笑する。
「わかってる。でも、言わずにはいられなかった」
野ばらは、ぎゅっとスカートを握りしめた。
「……白樺さん」
「ごめんね。困らせたいわけじゃないの」
「ただ……本当の気持ちを、隠したままじゃいられなかった」
胸の奥が、きしむように痛んだ。
「……ありがとうございます」
野ばらは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「そんなふうに思ってもらえて……とても、嬉しいです」
白樺の表情が、わずかに緩む。
「でも……」
野ばらは、視線を上げた。
「わたし……すみれさんのことが、大切なんです」
はっきりとした声だった。
「まだ、答えは出せていません。でも……」
「その気持ちは、嘘じゃありません」
白樺は、しばらく黙っていた。
やがて、静かにうなずく。
「……そっか」
「正直でいてくれて、ありがとう」
微笑みは、少し寂しげだったが、誠実だった。
当番の時間が終わり、二人は並んで廊下を歩く。
夕陽が、長い影を落としていた。
「野ばら」
「はい」
「後悔しない選択をしてね」
「あなたなら、大丈夫」
その言葉は、静かなエールのようだった。
野ばらは、胸に残る余韻を抱えながら、校舎を後にした。
恋は、ひとつではない。
その重さを、初めて知った一日だった。
第五章 揺れる紫苑の心
夕暮れの女学院は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。西日が校舎の壁を橙色に染め、窓ガラスには淡く光が反射している。
すみれは、一人、音楽室に残っていた。
古いピアノの前に座り、鍵盤の上にそっと指を置く。しかし、音を鳴らすことはできずにいた。
「……野ばら」
小さく名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
最近の野ばらは、以前よりもずっと近く、そして遠くなった気がしていた。
笑顔は増えた。
けれど、その奥にある想いが、見えなくなってきている。
すみれは、ゆっくりと鍵盤を押した。
ぽつり、と不揃いな音が響く。
かつて、姉のように慕っていた人と、ここで連弾した記憶がよみがえる。
——ずっと一緒にいようね。
そう約束した翌年、その人は遠い土地へ嫁いでいった。
何も言わずに。
残されたのは、置き去りにされた想いだけだった。
「……また、同じことになるの?」
すみれは唇を噛みしめた。
そこへ、扉が静かに開く音がした。
「すみれ?」
振り向くと、そこに立っていたのは野ばらだった。
「探してました」
「……どうして?」
「今日、一度も話せなかったから」
野ばらは、ゆっくりと近づく。
すみれは視線をそらした。
「最近……忙しそうだから」
「白樺さんや、はるかさんと……」
言葉の端に、わずかな棘が混じる。
野ばらは、はっとしたように目を見開いた。
「……すみれさん、誤解です」
「わたしは……」
言葉を探しながら、胸に手を当てる。
「いつも、すみれさんのことを考えています」
沈黙。
風が窓を揺らし、カーテンが静かに舞った。
「……怖いの」
すみれは、ぽつりと打ち明ける。
「また、ひとりになるのが」
「誰かを好きになるほど……失うのが、怖くなる」
野ばらは、そっと手を伸ばした。
しかし、すみれの指先に触れる直前で、ためらう。
「……逃げません」
静かだが、強い声だった。
「わたしは、すみれさんから逃げません」
その言葉に、すみれの瞳が揺れる。
「……信じて、いいの?」
「はい」
迷いのない返事。
すみれは、そっと野ばらの手を握った。
小さく、温かな手。
「……ありがとう」
その声は、涙混じりだった。
ピアノの上に、夕焼けが差し込む。
ふたりの影は、静かに重なっていた。
それはまだ未完成で、儚い——
けれど確かな、想いのかたちだった。
第六章 雨に濡れる噂
朝から、空は重たく曇っていた。
低く垂れこめた雲は、まるで女学院全体を包み込むかのようで、校舎の白壁もどこか沈んで見える。
野ばらは、昇降口で足を止め、空を見上げた。
「……降りそう」
その予感は、外れることなく、三時間目の終わりには細かな雨となって地面を濡らし始めていた。
廊下を歩く生徒たちは、どこか落ち着かない様子で、ひそひそと小声を交わしている。
「ねえ、聞いた?」
「うん……ほんとだったら、びっくりよね」
そんな断片的な言葉が、野ばらの耳に入った。
「……なに?」
胸に、小さな不安が芽生える。
教室に入ると、すみれの姿が見当たらなかった。
いつもなら、窓際の席で静かに本を読んでいるはずなのに。
「楠さん、すみれさんは?」
隣の席の楠に尋ねると、彼女は少し困ったように眉を寄せた。
「……知らない?」
「今朝、職員室に呼ばれたって」
野ばらの心臓が、強く打った。
「職員室……?」
そこへ、白樺が小声で近づいてくる。
「……噂、聞いた?」
「噂……?」
「すみれが、外の人と密かに文通してるって……」
言葉が、刃のように突き刺さった。
「そ、そんな……」
「誰かが、手紙を落としたのを見たって」
「それで先生たちが……」
野ばらは、思わず机を握りしめた。
胸の奥が、ざわざわと波立つ。
——嘘。
——信じない。
そう思おうとしても、不安は消えてくれない。
昼休みになっても、すみれは戻ってこなかった。
雨脚は次第に強まり、中庭の椿の花びらを地面へと打ちつけていた。
野ばらは、傘も持たずに校舎を飛び出した。
「……すみれさん……」
向かった先は、裏庭の温室だった。
以前、すみれが「ここが落ち着く」と話していた場所。
ガラス越しに見える影。
そこには、ひとり佇むすみれの姿があった。
野ばらは扉を開け、中へ入る。
「……野ばら?」
すみれは驚いたように振り向いた。
その瞳は、少し赤く腫れていた。
「……どうして、ここに」
「探しました」
息を切らしながら、まっすぐに告げる。
「噂……聞きました」
すみれの肩が、小さく震えた。
「……やっぱり」
「でも、信じてません」
即答だった。
「わたしは、すみれさんを信じてます」
雨音が、温室の屋根を強く打つ。
すみれは、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ありがとう」
「手紙はね……昔の、家族からなの」
「事情があって……誰にも言えなかった」
野ばらは、そっと近づく。
「話してくれて、嬉しいです」
すみれの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「……信じてもらえるのが、こんなに救いになるなんて」
野ばらは、迷わず抱き寄せた。
初めての、はっきりとした抱擁。
すみれは、しばらく戸惑ったあと、そっと抱き返した。
雨は、まだ止まない。
けれど、二人の間には、確かな温もりがあった。
第七章 すれ違う心、重なる想い
雨上がりの朝は、ひどく静かだった。
水を含んだ校庭は鈍く光り、濡れた木々の葉からは、ぽつりぽつりと雫が落ちている。澄んだ空気の中に、どこか張りつめた気配が漂っていた。
野ばらは、窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
——昨日の温室。
すみれの涙。抱きしめた温もり。震える肩。
あの時間は、確かに本物だったはずなのに、今は夢のように遠く感じられる。
「……すみれさん」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
教室に入ってきた生徒たちのざわめきが、少しずつ大きくなる。しかし、すみれの姿は見えなかった。
席は空いたまま。
その光景が、野ばらの不安をさらに膨らませていく。
「……まだ来てないの?」
楠が心配そうに尋ねてきた。
「うん……」
「昨日のこと、関係あるのかな」
その言葉に、野ばらは返事ができなかった。
やがて鐘が鳴り、授業が始まる。それでも、すみれは現れなかった。
先生の声も、黒板の文字も、ほとんど頭に入らない。
野ばらの心は、ずっと彼女のもとにあった。
——嫌われた? ——迷惑だった? ——重すぎた?
考えれば考えるほど、不安は深く沈んでいく。
昼休み。
野ばらは、弁当箱を手にしたまま、席を立った。
「ちょっと、探してくる」
白樺とはるかが、同時にこちらを見る。
「無理しないでね」
はるかの言葉に、小さくうなずいて廊下へ出た。
図書室、音楽室、中庭、温室。
思いつく場所を、次々と巡る。
しかし、どこにもすみれはいなかった。
最後に向かったのは、旧校舎だった。
今はほとんど使われていない、木造の建物。静かで、人目につかない場所だ。
きしむ床を踏みしめながら、二階へ上がる。
突き当たりの小部屋から、かすかな物音が聞こえた。
「……すみれさん?」
恐る恐る扉を開ける。
そこにいたのは、窓辺に座り込むすみれだった。
膝を抱え、外を見つめる横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「……野ばら」
振り向いた声は、ひどくか細い。
「どうして、ここに……」
「探しました」
息を整えながら、そっと近づく。
「今日、来なかったから……心配で」
すみれは、視線を伏せた。
「……ごめんなさい」
「昨日のあと……怖くなってしまって」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「何が、怖かったんですか?」
問いかける声は、自然と震えていた。
「……野ばらが、あまりにも優しいから」
すみれは、小さく笑った。
「信じてくれて、抱きしめてくれて……」
「それが、嬉しくて……でも同時に」
唇を噛みしめる。
「失ったときのことを、考えてしまったの」
野ばらは、思わず膝をついた。
「失うって……」
「また、置いていかれる気がして」




