第五話 もうだめです
「……ひにゅぅ……」
朝である。
地下の大書庫にも地上と通じた明かり取りはあるから、爽やかな晴天からの眩しい光が差し込んでくる。丁寧に掃除を行き届かせた愛すべき書棚たちがきらきらと輝いている。
だが、わたしにはその光は届かない。
物理的にも、心のなかにも。
いつもの執務机ではなく、書庫の奥、できるだけ光のあたらない作業机にわたしは突っ伏していた。寝ていないのだ。まったく、眠れなかった。
書庫の続き部屋はいくつかあり、わたしはそこで寝起きしている。仕事に便利というのもあるが、本に囲まれていないと眠れないからだ。なにがあっても、大好きな本たちのところへ戻ってくれば元気になる。ぐっすり眠れる。いつでもそうだった。
でも、昨日は、ちがった。
「うう……なんで、あんなことに……」
唸りながら思い出すのは、昨日の昼過ぎのこと。
例の騒ぎのあと、殿下たちの元を離れ、倒れこみそうになりながらエントランスから出たわたしは、すぐに背中から声をかけられたのだ。
『……あの』
振り向いて、引き攣った。フィオナさまだった。
柱の陰からもじもじと手を差し上げている。その頬はまだ薄い桃に染まったままだ。走り去ってからずっと物陰に隠れて、わたしを……いや、白装束の不気味な令嬢を待っていたのだろう。
うう。やめて。見ないで……。
身バレも怖いが、光の精のように愛らしいフィオナさまにこの奇妙な風体を見つめられるのが痛かった。
『……あの、お礼……言いたくて。本当に……ありがとう、ございました』
頭を下げたフィオナさま。でも、わたしは引き攣ったままなにも言えない。こんな場面の言葉なんて用意してない。眉を上げ、やや高飛車な態度で顎を上げているのは、脳内検索が最大回転数に達した印だ。もうすぐ、焦げつく。
『……わたし、この学院、辞めるつもりだったんです。今日で。あの……お慕いしている方に、お声すら、かけられなくて。そんな自分が嫌になって』
フィオナさまは頭を下げたままで言葉を続ける。
『でも、あのとき、あなたが現れて。あの方たち……怖い方たちを、避けるでも怒るでもなく、柔らかく抱きしめられて、静かな自然体ですうっと躱されて。わたし、見惚れてしまったんです。なんて、なんてお美しいんだ、って』
くっと顔を上げる。瞳がわずかに潤んでいる。
その衝撃的な愛らしさ、神々しさに視界が白く飛ぶ。思いつきかけた言葉なんてどっかに消えた。
『わたしも、ああなりたいって思ったんです。自然に、力まず、自分のこころから逃げないで、思うところへ進んでゆける。そんな……あなたのような女性になりたいって、強く思ったんです。だから、辞めません』
『……』
『それに……それに、あの方に、お声、かけていただけたから』
その言葉に我に返る。
そうだ。フィオナさまは結局、想いびと、殿下とはひとことも話せてない。あの騎士が間に入っちゃったから……誰だっけ、あの騎士。脳内人名録を探る。ええと……。
『……シリウス・エルヴァイン……伯爵令息にして、近衛騎士団所属』
思わず口からその名を零すと、フィオナさまがびくんと揺れた。両手で口元を隠し、しばらく動悸をこらえるように肩を揺らしていたが、やがてゆっくりと手を下した。真っ赤な顔を横に向け、小さく頷く。
『……はい。そうです。シリウスさま。わたしがずっと、ずうっとお慕い申し上げていた方。ようやく、お言葉をいただくことが叶いました。あなたのおかげです』
……はい?
『だから……わたし、頑張ります。シリウスさまにちゃんと気持ち、伝えられるように。素敵な女性になって、花誓の宵で、お花をいただけるように。それと……』
いやいや。待って。え。なに。どゆこと。
全身が硬直してまったく動けないわたしに、フィオナさまはふふっと柔らかく、おおきな笑顔を浮かべてみせた。
『それと、殿下に真っすぐにお気持ちを向けられた、あなたのことも見ていたいから。殿下に……恋を、されてますよね』
ぴしり。
心臓にひびが入った。でかいやつが。
『あなたの恋も、全力で応援したい。させてください。あなたと殿下、おふたりが互いを見る表情、思いあいかばいあうお姿、本当に素敵でした。わたしは……殿下のお隣に立つあなたが、見たいのです』
よろりと足元が揺らいだ。扇を持ち上げ、なんとか口元だけを隠す。そうしていないと砕けた心臓が口から飛び出てしまう。
なに、これ。なんで。嘘でしょ。
もう、世界がわからない。わたしの知ってる世界じゃない。夢なら覚めて。
『……ごめんなさい、勝手にひとりで喋ってしまって。お名前は伺いません。殿下にこっそり教えておられた、素敵なふたつ名、呼ばせてください』
そういって、くるりと踵を返す。でもすぐに振り返り、いたずらっぽく眩しい笑顔を作って手を振ったのだ。
『またすぐに、お会いできますよね。白薔薇、さま』
軽やかに去ってゆくフィオナさまの背を呆然と見送ってから、ずり、ずり、と、足を引き摺るように動き出した。瀕死の身体を地下の大書庫まで運ぶ。書庫の結界を潜り、書棚の間を通って、寝室として使っている作業部屋に入り、ぼふりとベッドに倒れた。頭から毛布を被る。寒くもないのに震えが止まらない。
そうしてまんじりともしないまま、朝を迎えたのだ。
「……神よ……わたしはどこで、なにを間違ったのでしょうか……」
はい。最初から、ぜんぶです。
神に問いかけるまでもない質問に自分で突っ込んでから、フードに手を入れてがりがりと頭を掻く。
なんで。どうしてこうなった。
当て馬作戦、大失敗。いや失敗どころじゃない。そもそも相手、間違えてるし。あり得ない。残念でしたどころじゃない。
それに……また会えるかって、言ってた。フィオナさまはともかく、ライエル殿下まで。たぶん、探される。逮捕されるんだ。だって、なんかほら、王家の変事だとかなんとかって言ってたし。あの怪しい不気味な女、何者だ、ってなるよね。
わたしには見える。
ある日、武装した騎士たちが強引に書庫の扉を蹴破り、雪崩れ込んでくるんだ。わたしなど踏みつけて、あの女はどこだって、書棚も本も、ぜんぶひっくり返されて。最後には焼かれるんだ。本も、書庫も、わたしも。
「……証拠、隠滅」
わたしはがばっと立ち上がった。昨日のドレスも化粧品も、ぜんぶ捨てなきゃ。痕跡、隠さなきゃ。そんなひと、いませんでしたよ、って。
すべてが置いてある作業室へ走ろうとした、その時。
りん、と、鈴が鳴った。
書庫の入り口、扉の外の結界に誰かが立ったのだ。続けてりりんと鳴る。入庫の許可を求める合図だ。
もうううう。なに。こんなときに。
どすどすと奥の扉を目指す。金の装飾のある把手を回し、ぎいいと薄く開けて、目だけを覗かせた。
「あの、ごご、ごめんなさい。今日は、ちょ、ちょっと、忙し……」
わたしとしては早口でそう言ってから、相手の顔を見上げる。見上げたままで、固まった。そのまま崩れるようにしゃがみ込んでしまう。
「……君。大丈夫か」
低く、だが圧のある声をわたしにかけたのは、黒い装束の騎士。
乱れた赤毛をうるさそうに跳ね上げ、分厚い体躯を折り曲げて、へにゃりと扉の向こうに座り込んでいるわたしと同じ目線まで降りてきてくれた。
「司書どのに聞きたいことがあるのだが。時間をとってもらえないだろうか」
エルヴァイン伯息、シリウスさまは、そう言って葡萄酒色の瞳を細めてみせた。微笑んでいるのではない。わたしの反応を観察しているのだろう。
わたしはしばらく座り込んでいたが、ふらふらと立ち上がった。なにも言わずに入口にかかった結界魔法を解除する。抵抗は、無駄だ。もう逃げられない。
黙って書庫の奥まで歩く。シリウスさまはなにも言わずについてきた。
執務用の机につくと、彼も向かいの利用者用の椅子に座った。いつもはフィオナさまが腰掛ける場所だ。彼女の優しい微笑を思い出し、じわっと涙が滲む。
お別れです、フィオナさま。
「……わたしの亡き骸は、ほ、星の輝く夜に灰にしてください……月とともに皆さんを見守っていますから。いつまでも、いつまでも……」
俯いて膝に手を突っ張り、フードの奥からぽたぽたと雫を落とすわたしに、シリウスさまは首を傾げているようだった。
「……なにを言っているのかよく分からぬが、まずは礼を言う。忙しいのに時間をとらせてすまない。単刀直入に尋ねるが……」
ぴくりと肩が揺れる。覚悟を決め、ふうと息を吐きながら言葉を待つ。
「……ウィステル伯爵令嬢、フィオナ殿のことだ。彼女について知っていることを教えて欲しい」
え。
思わぬ言葉に顔を上げる。
「……ふぃ、フィオナさま、ですか……」
「そうだ。実は昨日、学院内で……ちょっとした騒ぎがあってな。第二王子、ライエル殿下も巻き込まれたのだが、そこにフィオナ殿がおられたのだ」
「……え、その、フィオナさまが、なにか……」
そういうと、シリウスさまは慌てたように手を振った。
「いや、違う。そういうわけじゃない。騒ぎは収まったし、彼女にはなんの責もない。そうではなく、その……」
そこまで言って、黙ってしまった。なぜか横を向いて鼻の頭を掻いている。薄暗がりでも頬がわずかに色づいていることがわかった。
わたしも黙ってその様子を眺めていたが、ふいに天啓が降りた。
え。嘘。もしかして……シリウスさま、フィオナさまのこと……。
生命の危機に震えていた身体が、別の理由で震えだす。同じく潤んでいた目に温度の異なる雫が浮かぶ。
すごい。すごいよフィオナさま、両想いだよ。よかった、よかったね。
と、感極まっているわたしに、シリウスさまはぽつりと呟いたのだ。
「……フィオナ殿を、ライエル殿下の妻としたい」
どがん、と、机が鳴った。シリウスさまがびくっと身体を動かす。
わたしは机の下で膝を抱えて悶絶していた。言葉が脳に届いた瞬間、反射的に跳ね上がり、おもいっきり膝をぶつけてしまったのだ。
机越しにこちらを覗き込んで、シリウスさまは戸惑うように声を投げてきた。
「すごい音がしたが……大丈夫か」
応えない。しばらく悶えたのち、痛みを堪えてゆらりと立ち上がった。
漆黒のローブが揺れる。深く落としたフードの奥からぎらりとした瞳を相手に向ける。だらんとした腕を呪うように相手に向けて持ち上げる。
貴様。自分がなにを言っているのかわかっているのか。
声に、地の底から響くような音を込める。
「……にゃ、にゃんで……そそ、そんなの、だめ、です……」
ぜんぜん地から響いてない。が、そういう言葉を発したことでふたたびじわりと涙が浮かぶ。情緒の変動が大きすぎてもう自分の感情に説明がつけられない。
シリウスさまは驚いたようにわたしを見ていたが、なぜ、という言葉に目をさまよわせた。
「なぜ、か……。そうだな。それが一番、良いと思ったから、だ」
「う、うう?」
「……殿下は、たくさんのことを抱えておられる。第二王子というお立場であるのに、その聡明さゆえに否応なしに、王家の闇に向き合うこととなって……いや、これは聞かなかったこととしてほしい。とにかく、いつも苦しんでおられる。なのに周りに集うのは、あのような……」
眉根を寄せて口を曲げ、しかめつらを作る。
「お優しい殿下だ。決して邪険にはせぬ。だが、誰にもお心を預けられない苦しみのなかで、それを理解しようともしない下品な女どものお相手ばかりでは参られてしまう。自分はいつも、お傍でそのことを案じ続けていた」
げ、下品。すごいこと言っちゃった。でも、それに気づかないほど、真剣に悩んでいる表情。
「そして、昨日。フィオナ殿があの者どもに対してみせた姿勢。その言葉。自分は、心底驚いた。彼女のことは、その、ずっと……見ていた。見ていたが、あのような強いお心をお持ちとは。震えた。そして、決めたんだ。このひとこそ、殿下にふさわしいと。だから自分は身を引く、と」
……む?
少々お待ちください。
いま、なにか?
最後のところ、ちょおっと、聴きとれませんでした。
じっと顔を見ていると、物思いにふけるように拳に顎を置いていたシリウスさまの背が揺れた。揺れたまま、固まる。わずかに震えだす。しばらくしてからぎこちなくわたしの方に顔を振り向ける。傷の残る額が大量の汗に濡れている。
「……聴いた、か?」
「……」
「……いや、聴こえてなければ、よい」
わたしはしばらく黙り、ぼそりと声を出す。
「……決めたんだ。このひとこそ、殿下にふさわしいって。だから自分は身を引く。フィオナ殿の幸せこそが自分の喜びだ。山嶺に陽が沈むたびに、夜の街の灯を望むたびに、自分は彼女の眼差しを想うだろう。その想いは、永遠に……」
「そこまで言ってない!」
シリウスさまががたりと椅子を揺らして立ち上がる。しばらく肩で息をしていたが、わたしのじっとりした視線を浴びて観念したのだろう。どさりと腰を落とし、首を垂れた。
「……ああ、そうだ。自分は、フィオナ殿に惚れていた。ずっと、ずっとだ。あのひとが入学してきたときから。あの暖かい微笑みを見かけたときから。彼女はいつも遠くからこちらを見ていた。その視線が自分に注がれればいいと、自分を見てくれればと、ずっと願っていた」
……う、ううううう?
「だが、違うんだ。彼女が切なげな視線を向けていたのは、ライエル殿下。わかってる。わかっていた。が、諦めきれなかった。ああ、主を想うひとに横恋慕するなど、騎士の恥だよ。笑ってくれ」
「あ、あの、それ……」
「それでも、諦めた。きっぱりと、今度こそ。自分は王の騎士だ。殿下の盾だ。武の道だけに生きる。その道で、フィオナ殿の力になる。そう、決めたんだ」
顔を上げ、わたしに向ける。なにかを振り切っちゃった、きらきらと晴れやかな笑顔。いやいやちょっと待って。チャンスあるよ。めっちゃあるよ。というかもうできあがってるし。
言いたいことがありすぎるが、むろん言葉なんてでてこない。あにゅおにゅと手を振り回してなにかを訴えるわたしに、シリウスさまは目を細めてみせた。
「フィオナさまが足繁く大書庫に通われていたのは知っている。そして君が、彼女のよき友人としてずっと支えてきたことも。だから、これから協力してほしい。殿下のお心を彼女に向けるために」
「……は、う」
「今日は、ここまでにしておこう。最後に余計な話をしてしまった。これ以上は君の仕事の邪魔をするわけにはいかない」
そう言って立ち上がり、くるりと向こうを向いて、重い靴音を響かせて歩き出した。が、すぐに立ち止まる。しばらく天井のほうを眺めていたが、やがて肩越しにこちらに視線を寄越した。
「……そうそう、ライエル殿下がある女性を探されている。謎めいた白装束の女性だ。次の花誓の宵に指名したいと仰っている。が、今のところ、彼女の正体に気づいているのは自分だけだ。だから、きっと彼女は身を引くだろうし、協力してくれるだろう。正体を王室に報告はされたくないだろうからな」
そうして、鋭い目元を撓めてみせる。
「な。大書庫の、美しき白薔薇さん」
それだけ言い置いて、手を上げて出ていった。
彼がやってきたのは朝だったはずだ。
が、その場で膝を折って崩れ落ちたわたしが目覚めたとき、最初に見えたのは明かり取りの向こうの満月だった。
できれば、永遠に気絶していたかった。
助けて。
フィオナさま。
<第一章 了>




