第7話 旅立ちの日
朝の厩舎は、やけに静かだった。小鳥の声も、いつもより遠くに感じる。
スターライトゼリーは馬房の中で、包帯を巻かれた脚をそっと浮かせていた。
痛みは薄れたようだったが、走ることはもうできない。
唐沢真司は、清掃用のほうきを握ったまま立ち尽くしていた。
「……行っちゃうんだな」
横から沢調教師が来て、帽子を軽く押し上げた。
「昨日、馬主さんから連絡があった。ゼリーは牧場に戻り余生を過ごすってさ」
「……そうですか」
「よくやったよ、真司。お前の手で勝たせてやれて、本当によかった」
真司は何も言わずに、馬房の前に膝をついた。
ゼリーが顔を寄せてくる。その瞳は、どこまでも澄んでいた。
「お前、ほんと強かったな」
手のひらで頬をなでる。ゼリーは静かに鼻を鳴らした。
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その日の昼。
馬運車が厩舎の前に止まった。白い車体が、まるで別れを告げる儀式のように見えた。
愛美がいた。涙で目を真っ赤にして、カメラを持って立っている。
「真司さん……少し、いいですか?」
真司は振り向く。
「下野さん……」
「最後に……撮ってもいいですか?」
「……もちろん」
彼女はゼリーの前に立ち、そっとシャッターを切った。ゼリーが少し耳を動かし、愛美の方を見た。
まるで、「ありがとう」と言っているように。
愛美は、静かにカメラを下げた。
「真司さん、ゼリーはきっと幸せですよ」
「……そうだと、いいな」
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「じゃあ、行くぞ」
沢が声をかける。ゼリーが馬運車に乗り込む。右前脚をかばいながらも、姿勢はまっすぐだった。
ドアが閉まる。真司はその場に立ち尽くした。排気音が響き、車がゆっくりと動き出す。
――ゼリーが、最後に一度だけ振り向いた。
その視線が、まっすぐに真司を射抜いた。
涙が勝手に頬を伝う。
「……ありがとな」
声にならない声で、彼は呟いた。
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夕方。
厩舎には静けさが戻っていた。
真司は、ゼリーのいた馬房の前に立ち、ブラシを見つめていた。
その柄の部分には、ゼリーの毛が一本だけ絡んでいた。夕陽がそれを金色に染める。
「俺も、もう一度……頑張ってみるか」
空を見上げると、うっすらと雲の切れ間に星が浮かんでいた。
――スターライトゼリー。
その名の通り、彼は空の光になった。




