第5話 ラストレース(前編)
薄曇りの空。早朝の競馬場は、まだ人影もまばらだった。
スターライトゼリーが静かに姿を現す。毛ヅヤはいい。仕上がっている。それでも真司の手は、かすかに震えていた。
「おはよう、ゼリー」
ゼリーが軽く首を振り、真司の肩に鼻をすり寄せる。その温かさに、心が落ち着く。
「お前と走るのも、これで最後かもしれないな」
その呟きに、ゼリーが小さく鼻を鳴らした。
まるで「まだ終わりじゃない」と言っているようだった。
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スタンドの一角では、下野愛美がカメラを構えていた。いつもより少しだけ派手な格好。
首に巻かれた青と白のリボンが、風にひらめく。
(今日がゼリーの、最後のレースかも……)
彼女は何度も深呼吸をして、スマホを取り出した。
〈ゼリー、唐沢騎手。どんな結果でも、あなたたちは私のヒーローです〉
そう書き込んで送信する。たったそれだけのメッセージなのに、指先が震えていた。
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控え室。
真司はヘルメットを磨きながら、深く息を吐いた。他の騎手たちが談笑する中で、彼だけが黙っている。
「唐沢」
背後から沢調教師の声がした。
「はい」
「今日は逃げろ。ハナを取って、ゼリーのリズムで走れ」
「はい」
「勝ち負けなんざ、最後は勢いだ。だけどな――“心”がない騎乗は負ける」
真司はうなずいた。
沢はしばらく黙り、ぽつりと言った。
「……ゼリーはお前のことを信じてる。それだけは確かだ」
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パドックが騒がしくなる。アナウンスが響く。
「第9競走――ダート1600メートル。スターライトゼリー、1枠1番。鞍上は唐沢真司騎手です」
その実況を聞くと、真司の心臓がひときわ強く鳴った。
24戦、すべて敗北。
だが今日だけは―― そう、今日だけは違う。
愛美が観客席の最前列で手を振っていた。
目が合った。
彼女の口が、ゆっくり動いた。
“勝って”
真司は、ヘルメットのつばを軽く下げた。
それが、精一杯の返事だった。
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ゲート裏。
真司はゼリーの背にまたがり、手綱を握る。
静寂。
馬の吐息、蹄の踏み込み、ゲートの軋む音――
すべてが混じり合い、世界が狭くなっていく。
「頼むぞ、相棒」
ゼリーが短くいななき、前を見据える。
ゲート係が声を上げた。
「スターライトゼリー、1番ゲート、入りまーす!」
真司は深く息を吸い込み、手綱をわずかに締めた。
ゼリーの体が、前に進む。
カチリ、とゲートが閉まる音が響いた。
その瞬間――
風が、ぴたりと止まった。
アナウンスが響く。
「さあ、各馬ゲートイン完了!……スタートしました――!」
砂が舞い上がる。
ゼリーが飛び出した。
真司の身体が、風を切った。
「行け――!」
スタンドの歓声が、波のように押し寄せる。
24戦の悔しさも、涙も、すべてが蹄に変わって地を蹴った。
――ラストレースが、今、始まった。




