第3話 唯一のファン
週末の朝、地方の小さな競馬場には、ゆっくりと陽が差し込んでいた。
観客はまばらで、売店の湯気が風に流れる。
その隅で、スターライトゼリーが調教後の引き馬をしていた。
「お、ゼリーだ!」
フェンスの向こうから聞こえた声に、真司は思わず振り向いた。
いたのは若い女性――
カメラを手に、フェンス越しにゼリーを覗き込んでいる。
肩までの黒髪を風に揺らし、目元はまっすぐだった。その手には、ゼリーの勝負服カラーである青と白のリボンが巻かれていた。
「えっと……」
真司が声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「ごめんなさい! 撮っちゃダメでしたか?」
「いや、大丈夫です。どんな写真撮ってるのかなと思って」
「よかった……。私、ゼリーのファンなんです。ずっと」
そう言って、彼女はカメラを胸に抱えた。
「デビューの時から、欠かさず来てるんですよ」
「……本当に?」
「はい。ゼリーって、負けてもちゃんとゴールまで走るでしょ。あの真っ直ぐなところが好きで」
真司は少し照れくさそうに笑った。
「そいつは、喜ぶと思います」
「唐沢騎手も、ですよ」
「え?」
「私、SNSに“ゼリー推し”ってアカウントで載せてるんです。唐沢騎手もフォローしてくれてるみたいで……」
「あ、あのアカウント、あなたが?」
彼女は頷いた。
「下野愛美と言います。もしよければ、ゼリーの写真……撮らせてもらってもいいですか?」
「どうぞ。ゼリーも、撮られるの嫌いじゃないですから」
愛美はフェンスの隙間からレンズを向けた。
カシャ、カシャ、と静かなシャッター音。
ゼリーは耳をぴくぴく動かしながらも、大人しく立っていた。
「優しい顔してますね」
「そうですね。気の強い馬じゃないけど、人の声によく反応するんです」
「だから、真司さんの声もきっと好きなんですよ」
――“真司さん”。
名前で呼ばれたのは、久しぶりだった。ほんのわずか、その響きが胸に残った。
「次のレース、出ますか?」
「出ます。たぶん……これが最後です」
愛美の手が止まった。
「最後って……」
「馬主さんの意向で。勝てなかったら、引退です」
「引退……」
愛美は小さくつぶやいた。
真司は、少し言いにくそうに視線を落とした。
「ゼリーみたいな地方馬は、引退しても行き先が限られるんです。繁殖にもなれない、人気もない。……ほとんどは屠畜に回されます」
愛美の目が、揺れた。
「そんな……あの子、あんなに優しいのに」
「俺も、できれば誰かに引き取ってほしいけど……現実は厳しいです」
愛美はしばらく黙っていた。その表情を見て、真司は慌てて笑顔を作った。
「でも、まだ決まったわけじゃない。勝てば続けられる」
「……絶対、勝ちましょう」
その言葉には、迷いがなかった。
「応援してます。ずっと」
「ありがとう」
愛美は深く頭を下げて、そのまま観客スタンドの方へ歩いていった。
真司はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
――ゼリーが、小さく鼻を鳴らす。
「……わかってるよ。俺たち、まだ終わっちゃいけないな」
青空の下、風がゼリーのたてがみを揺らした。その柔らかな光の中で、真司は久しぶりに“勝ちたい”と思った。
誰かのために。
そして、自分自身のために。




