第1話 敗者のゲート
午後の空は、どんよりとした雲に覆われていた。風は冷たく、砂塵を巻き上げながらコースをかすめていく。
地方の小さな競馬場。スタンドには、わずかの観客しかいない。
それでも、ゲート前に立つ馬たちは、ひとつの勝利を目指して並んでいた。
「第6競走、ダート1200メートル。枠入りです」
アナウンスが響く。
その列に、鹿毛の馬が静かに歩いていた。
スターライトゼリー、牡4歳。
デビューから23戦――未勝利。
それでも彼には、いつも優しい目があった。
その目が、たった一人の騎手の心を離さなかった。
「今日も頼むぞ」
手綱を取るのは唐沢真司。デビューしてから未だ勝利ゼロ。
“勝てないジョッキー”という陰口にも、もう慣れてしまっていた。
「1枠1番、スターライトゼリー。鞍上は唐沢真司騎手です」
実況の声が響く。
スタンドの奥で、マフラーを巻いた女性がカメラを構えていた。
――下野愛美。
彼女はゼリーのデビュー戦からずっと追い続けているファンだった。
SNSで“#スターライトゼリー推し”のタグをつけ、勝てなくても、負けても、毎レースの感想を投稿してきた。
「今日もゼリー、優しい顔してた」
「勝てなくても好き。がんばれ」
彼女の投稿は数十件の“いいね”を集めるだけ。けれど、その小さな声援が、確かに真司の目にも届いていた。
ゲートに入り、真司は手綱を軽く握る。
「……ゼリー、行こう」
小さく息を吐いたその瞬間――
バンッ!
ゲートが開いた。
「スタートしました!」
ゼリーは少し出遅れた。後方から、砂煙を浴びながら一歩ずつ前へ進む。
「スターライトゼリー、内からじわりと上がっていく!」
実況が声を張り上げる。だが、前との差は埋まらない。
第四コーナーを回り、直線へ――。
真司は最後の一鞭をいれた。
「行け! ゼリー!」
ゼリーは応えた。小さな体を震わせ、まっすぐに駆け抜ける。
だが――
ゴール前で脚が鈍った。
「勝ったのはトーセンミラージュ、2着ファストランナー。スターライトゼリーは7着!」
真司は息を吐き、ヘルメットを軽く叩いた。
「……7着か」
ゼリーの首を軽く撫でる。
「よく頑張ったな」
ゼリーは鼻を鳴らして応えた。
パドック裏で、調教師の沢邦夫が腕を組んでいた。
「真司。今日のゼリー、悪くはなかったが……もう限界かもしれんな」
「限界って……」
「馬主さんが言っとる。“次でラストにする”ってな。維持費がもう持たんそうだ」
沢の声には、責める響きよりも、諦めの色があった。
真司は黙ってうなずいた。ゼリーの運命も、自分の立場も――もう先が見えている。
⸻
その夜、厩舎でゼリーの手入れを終えると、真司はスマホを開いた。
〈#スターライトゼリー #がんばれゼリー #優しい目〉
画面には、今日のパドックでのゼリーの写真が映っていた。
投稿者は、――下野愛美。
真司はその投稿をスクロールし、過去の写真を見返した。
デビュー戦の頃、若駒らしい光を宿したゼリー。
雨の中、泥だらけになって走るゼリー。
どの写真にも、彼を信じてくれる人の愛があった。
「……見てる人が、いるんだな」
小さく呟いた声が、静かな馬房に吸い込まれていった。
ゼリーは穏やかな瞳で真司を見つめる。まるで「大丈夫」と言っているように。
「なあ、ゼリー。次が……最後かもしれない」
ゼリーは小さく鼻を鳴らした。その音は、冬の夜の風よりも、胸に深く響いた。




