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第三話「深海の瞳」

翌朝、夜明けと共に目覚めた優希は、簡単な朝食を済ませると、すぐにあの洞窟へと向かった。

昨夜とは打って変わり、朝の光が差し込む入り口は、不気味さよりも神秘的な雰囲気を纏っている。

ヘッドライトを消し、自然の光だけを頼りに洞窟の奥へと足を進めた。

波の音は昨日よりも穏やかで、洞窟の内部に反響するその音は、まるで心地よい子守唄のようにも聞こえた。


奥へ進むにつれて、洞窟はさらに広がりを見せた。

足元に広がる水たまりは、外の光を反射してキラキラと輝いている。

その光が作り出す、幻想的な空間に優希は息をのんだ。

さらに奥へ進むと、波が打ち寄せる小さな水辺があり、その先にわずかに光が差し込む場所があった。

そこは、まるで外界から隔絶された秘密の泉のようだった。


優希がその水辺に近づくと、水面が静かに揺らぎ、何か気配を感じた。

目を凝らすと、水底に微かに光るものが見えた。

思わず身を乗り出したその時、足元の岩が滑り、優希の体はバランスを崩した。

「うわっ……!」

優希の体は、そのまま水の中へと勢いよく落ちていく。

冷たい海水が全身を包み込み、視界は一瞬にして青と緑の混じった闇に包まれた。

焦りと恐怖で手足を必死に動かす優希の腕を、ひんやりとした何かが強く掴んだ。

反射的に身構え、振り払おうとした瞬間、その腕に引かれるように体がゆっくりと持ち上がった。

咄嗟に振り返った優希の目に飛び込んできたのは、水中で光を放つ、想像を絶するほど美しい少女の姿だった。


彼女は、銀色の鱗が眩い尾を持つ、まさしく伝説の人魚だった。

まるで絵本に出てくるような透き通る白い肌、濡れたような黒髪、そして深く澄んだ瑠璃色の瞳。

その瞳は、警戒と同時に、どこか助けを求めるような、深い孤独を宿しているように見えた。

優希は、目の前の光景にただただ見惚れていた。

村で聞いた「醜い魚の化け物」という言葉は、まるで嘘のようだった。

彼女は、優希の腕を強く掴んだまま、水面に押し上げてくれた。

荒い息を整えながら、優希は目の前の人魚を見つめた。

彼女の美しさに目を奪われながらも、優希は恐怖と、それにも勝る抗いがたい魅了を感じ始めていた。


優希は、ゆっくりと手を差し出した。

人魚は一瞬躊躇ためらったが、やがてその小さな手を優希の手に重ねた。

ひんやりとして、しかし温かいその感触に、優希の胸に温かいものが込み上げてきた。


優希は、彼女に話しかけてみた。

「大丈夫? 怪我はない?」

しかし、彼女からは何の言葉も返ってこない。

ただ、大きな瞳で優希を見つめ返すだけだった。

優希は何度も言葉を投げかけたが、彼女は終始、首を傾げるばかり。

そこで優希は、彼女が人間の言葉を理解できないことを悟った。

少し残念に思ったが、その分、彼女の仕草や表情から感情を読み取ろうと、優希の観察眼は研ぎ澄まされていった。


「君の名前はなんて言うんだい?」

優希が問いかけると、人魚は不思議そうな顔をした後、口を開き、透き通るような歌声を響かせた。

その歌声は、洞窟の中に満ち、優希の心に直接語りかけてくるようだった。

喜び、悲しみ、そして深い孤独……。

言葉ではないが、確かに感情が伝わってくる。

その歌声を聞いているうちに、優希の頭の中に、ふと一つの音が浮かんだ。


「ウタ……君の歌声みたいに綺麗だから、ウタって呼んでいいかな?」

優希が優しく問いかけると、人魚は嬉しそうに、まるで歌うかのように頷いた。

その瞳は、キラキラと輝いていた。

この瞬間、優希は彼女に「ウタ」という名前を与えた。

言葉は通じなくても、二人の間に確かな絆が生まれた瞬間だった。

優希とウタは、言葉を交わす代わりに、互いの視線と触れ合い、そしてウタの歌声で心を理解し合った。

ウタの警戒心は徐々に解け、優希の差し出す手に、そっと自分の手を重ねるようになる。

優希はウタの瞳の奥に、深い孤独と、人間に対する微かな希望のようなものを感じ取った。


彼のカメラは、この瞬間、ファインダー越しではなく、ウタの歌声を通して世界を捉えようとしていた。

日が傾き始め、洞窟の中にも夕闇が迫ってきた。

名残惜しそうに優希を見つめるウタに、優希はそっと手を振った。

「また来るよ。明日、また会いに来るから。」

ウタは優希の言葉を理解したかのように、ゆっくりと頷いた。

その瞳は、優希への信頼と、明日への期待に満ちているように見えた。

優希は洞窟を出ると、廃漁村へと戻り、再びテントで夜を過ごした。

しかし、その夜は昨日とは違い、ウタの美しい歌声が、優希の心の中で温かく響き続けていた。


翌朝、目覚めた優希は、身支度を整えると、昨日の約束通り、再び洞窟へと向かった。

洞窟の入り口に着くと、すでにそこにはウタの姿があった。

彼女は優希の姿を見つけると、嬉しそうに尾を揺らし、その瞳で優希を迎え入れた。


二人の時間は、言葉がなくとも、温かい交流に満ちていた。

優希は持参したスケッチブックに、ウタの姿を描き始めた。

ウタは興味深そうに優希の手元を覗き込み、自身の絵が描かれていく様子に、嬉しそうな歌声を響かせた。

優希は、ウタの純粋な反応に心を癒されていくのを感じた。


しかし、時間が経つにつれて、ウタの表情に、微かな翳りが差し始めることに優希は気づいた。

彼女の歌声も、時折、寂しげな響きを帯びるようになる。

何かを伝えようとしているのは明らかだが、言葉が通じないもどかしさに、優希は心を痛めた。


その日の夕方、優希はテントに戻る前に、ウタに別れを告げた。

ウタの瞳には、明らかに寂しさと、何か訴えかけるような光が宿っていた。

「ごめん、僕、明後日の朝、ここを出発しないと……。」

優希は心の中でつぶやいた。

この旅の終わりが、すぐそこまで迫っていることを、改めて自覚したのだ。

残された時間は、あと一日。

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