月影の君(つきかげのきみ)
宮中にはある噂が立っていた
月影の清らかな夜 淡く青白く光る人影 【月影の君】
その容姿は肌は白く細面で切れ長な目、穏やかで上品な顔立ちだという
或る時の夜、幼女が心静まらず風の音に惹かれ庭をさまよい歩いていた
月影の池の隅 松の木の裏 ほのかに光る人の姿が目に映る
静寂の中、かすかに聞こえる衣の擦れる音が、気配を伝える
「こんな夜更けに愛らしい姫君にお目にかかれるとは」
「貴女様は…?」
「私は… 【月影】とでも言っておきましょう 姫君はなかなかお休みになれないのですか?」
「はい 眠れぬまま庭に出たところ、麗しき御方に出会えたので、寝なくて得をしました」
「ふふ、姫君は面白い方ですね しかし、私のことはそっと胸の内に秘めておいてください」
「この秘密は、わたくしたちだけの宝物ですわね」
それから幾月もの間、眠れぬ夜には月影の池を訪れ続けた
「貴女様のご身分は如何なるものですか?」
「… 我がことを語ることは、いささか控えさせていただきたい」
月影の君は頑なに自分のことを話さなかった
その秘められた魅力が、心を深く引かせた
「姫さまっ!!そんなに急がなくても」
「浅葱!わたくしは早く池の鯉を見に行きたいのよっ」
庭へと月の御殿をかける女子女子
彼女は現帝の実子、実義と内定が決まっている
齢十五歳
父である秋盛太政大臣と、現帝実頼の間で取り決められた縁組
「ずっと心待ちにしていたから気持ちが逸ってしまったの」
「相変わらずですね 姫さまは」
緑写の池にて歌会が行われていた
「本日はようこそ、玉響の会にお集まりくださいました
春の朗らかな日に、皆さまと歌を詠み交わし、心を通わせることができればと存じます
それでは、心に浮かびましたら順にお聞かせ願いましょうか
まず、道綱さま 、お願いできますでしょうか」
霞立つ 長き春日の 心には のどけき風の 吹きにけるかな
『おー これは素晴らしい』 『歌会の序開にふさわしい歌だ』
「わたくしの歌など、帝の詠む歌に及びませぬ」
「では、実忠の君、お願いできますでしょうか」
御簾越しに こぼるる光 春浅き 庭の草木も 色めきにけり
『さすが実忠の君』 『帝に引けを取らなく美しい歌を詠んでおられる』
実忠の君 帝の実子だ
帝には二人の皇子が居られる
弟の実忠は、文学に優れており、歌が見事だ
兄の実義は、眉目秀麗と宮中の女子のもとへ通うという
帝は聞くところ色好みの多き方だそう
父に倣ってか、実義もたらしなのだと
転じて、実忠は勤勉で学問を好む
実義は実忠に狐を贈った
しかし、実忠は毎日のように山へ入り、泥や蚤をつけてくる狐を疎ましく思い切り殺してしまう
そして実義と実忠の間には深い傷ができる
過ぎし日のこと、帝は実忠を宮中から追放した
齢十のころ
そのため次期帝は実義となった
「浅葱、父上は恙無いだろうか」
「ええ 先日は公卿会議があったそうですよ」
「まあ、宮中にいるのに父上に逢えぬのは寂しいわ」
「そういえば、姫さま知っておられますか?実忠の君が都落ちだそうですよ」
「都落ち?殿下もお厳しい方ですわね」
幾年も過ぎた頃
「実義 お前も十八になった いい頃合いだろう」
帝の実子実義と、太政大臣の娘雪織の婚礼が行われた
夫婦の契りの時
「雪織 今はわたしに委ねておくれ」
実義は雪織の小袖に手をかけ床をともにした
しかし、実義と雪織は夫婦とは名ばかりの関係で
初契りの後、実義が雪織のもとへ通うことはなかった
「浅葱 やはりお家のためとはいえ、この結婚は実義様にとって良かったことなのかしら」
「わたくしにはわかりませぬ しかし、姫様 お子を身籠ることができなければ…」
雪織は実義の通いがないことに何故か焦りを感じていなかった
純粋な愛を感じることのできる立場ではない そうわかっているのに
実義の心が自分に向くのを静かに待っていた
或る時
父の妹の娘、玉鬘が宮仕えとなった
「玉鬘! 久しいわね」
「雪織姉さまも変わらずお健やかにお過ごしと存じ上げます」
「愛しうて思うておりましたのよ」
「雪織姉さま 契りを交わされたのですね わたくしも憧れていますの」
「憧れ?」
「はい 夫婦で生涯添い遂げる 慕わしいではりませんか」
「そう…」
姉妹の居ない玉鬘にとって雪織は姉のような存在であり、親友でもあった
「雪織姉さま、実は相談があるの」
「どうしたの、玉鬘 珍しいわね」
「わたくし、ここに来るまで宮の中を歩いていましたら とても麗しい方に出会ったの」
「あら どんな方なの?」
「身分はわからないのだけど、渡廊で笛を吹いていらしたの」
「笛?」
「ええ 容姿のように美しい音色でしたわ」
「あなたにもやっと春が来たようね」
「そこの殿方!」
「これはこれは、玉鬘殿ではないか」
「わたくしを知っておいでで?」
「ええ、もちろん 宮中の女子は知っておくのが私の務めですから」
「ふふっ 変なお方」
目を見開き、感情の波が突如揺れた
「貴女のような方は初めてです」
「わたくしは宮中に来て間もないので、よろしければ教えてくださらないでしょうか」
「ええ、もちろん 私でよければ」
玉鬘はあるお方と頻繁に宮中で逢うようになり
次第にふたりは惹かれていった
「玉鬘」
「はい」
「この帳の奥、共に心の花を咲かせぬか」
風の音も鳴りやんだ頃、帳の中で二つの魂が響く
隠された繋がりを確かめ合う
今宵の空は雲一つ見えぬ静かな夜だ
「雪織姉さま、わたくしの春が実りましたわ」
「まあ、婚礼はされるの?」
「いいえ、そのような話はまだしてませんの」
「そう しかし、貴方が楽しそうでわたくしも嬉しいわ」
「雪織姉さまは実義様とどうなのですか?」
「わたくしは… あまり会えていないの 床にも呼ばれないし」
「こんなにも美しい姉さまをそのような扱いするとは なんとも不誠実な方ね」
「実義様はお忙しいから…」
「雪織姉さま わたくしにできることでしたらなんでも言ってくださいね」
「ありがとう 玉鬘」
つれづれなる肌寒き昼
雪織は浅葱と歌を詠んでいた
ひややかに 風の吹く昼の
光に紛れ 忍ぶ月影
今宵もまたや 我を照らすと
「姫さまの歌はやはり情景が美しいですわ しかし、昼に月影を恋しく思うとは もしや想い人が?」
「それは…」
「ここにはわたくししかいません 姫さまが想う方はどのような方なのです?」
「… あの御方は、身のぼどではなくわたくしの心のありようをご覧になった方なの」
「姫さまが愛おしそうな表情をみせるとき、その方を想うておるのですか?」
「そんなにも悟られてしまっていたのね」
「姫さまがお慕いしている方ということは心篤き御方なのですね」
幾日かの静寂を経た清らかな昼下がり
ある男女が宮中のしがらみから逃れようと企てていた
「実義様?」
「っ、雪織」
「そちらの方は?」
扇の隅から素顔が見えたとき
冷たい静寂が場を包んだ
「姉さま…」
「玉鬘… なぜ実義様と居るの?」
「その… 初めはわたくしも知らなかったの まさか実義様だなんて」
「そう…」
「雪織、私は玉鬘を愛してしまった 互いに思いが薄れていたではないか」
「元はといえば、帝と父上が選んだ結婚 初めから気持などありませんでしたし」
「なら、なぜそのような切なげな眼差しを向けているのだ」
「わかりませぬ ですが、なぜか心の奥がとても揺れております」
「すまない、私のせいだ」
実義が憐れむ目でそっと頬に手を寄せる
すると雪織は手を制して間を置く
「触らないでっ わたくしを可哀そうだと思っていらっしゃるの」
「そうではない」
「では、なぜ今になって差し伸べようとするの」
「そなたとの関係に変化を望んでいないから」
「わたくしに想いがないことをわかってるのに… 強欲なお方ですわね」
「互いに続いていたほうが得ではないか」
「… もういいです、わたくしは必要ない、用済みというわけですわね」
「そこまでは言っていない」
「はっきり言ってください わたくしが貴方様の想いが離れていき、今はもうないと」
「ではこうしよう 位を今のままにする代わり、互いに思いのまま過ごそう」
帝の子実義、その妻雪織 事実上の離婚である
その後玉鬘は女御となり実義に世を尽くし愛を受け、常に慕われ過ごした
肌寒き雲なき清らかな霜夜
雪織は心しづかなるまま、月影に誘われ庭を歩いている
肌寒き 夜の月影 よに淡く
忍ぶ恋路に 似てぞ寂しき
君を想えば 胸は熱くとも
触れえぬ月よ 遠き面影
「姫君、久しゅう 御心地はいかがですか」
「月影様! 常々お慕いしておりました」
「雪織 私にそのような感情抱いてはいけませぬ」
「幼き頃から心惹かれておりますのに」
「それは、ひと時の惑いでしょう」
「わたくしは、貴方様に触れたいのです 募る思ひのあまり他人を悩ませてしまっているのです」
「私は共に在るべきではないのです」
「月影様、一夜でいいの」
互いに愛おしい視線が交わる
頬に触れたとき 薄紅の唇が重なった