第56話 ファルナ登場
王太子の子どもの急死の話題で、三人がしんみりしている時、家のドアがバーンと音を立てて力いっぱい開いた。
三人がギクリとして、ドアを振りむくと、一人の元気のよいふくよかな女性が入って来て、大声で言った。
「また、なんかしでかしたわね! ルーン! 塔が半壊してたわよ?」
「あ……」
ダグは片手をちょっとあげて、かわいらしく挨拶した。
「ファルナさん、お久しぶりです」
ファルナと呼ばれた女性は、もう四十歳に手が届こうかと言う年回りに思われたが、よく動く黒い目ときっぱりした唇の線の持ち主だった。フローレンは後で聞いたが、ルーンの妻だった。
「あら、久しぶり。アストラッド」
アストラッド?
不思議そうな顔をしたフローレンを見て、ファルナと呼ばれた女性は笑い出した。
「そうか。アストラッドは、世を憚る名前だからね。ここでしか呼べないのよ。ところで、あなたは誰なの? かわいらしいお嬢ちゃん」
ルーンが手短にフローレンを紹介した。
「まあ。辺境伯のご令嬢!」
ファルナはまじまじとフローレンを見つめ、フローレンはドギマギしてきた。
ファルナの黒い目は良く動く。フローレンを値踏みしているようだ。
「じゃあ、あなたはなんて呼んでいるの? アストラッドのことを?」
ダグの名前は、アストラッドって言うの? フローレンは混乱した。
「ええと……ダグと」
「そう。では私たちもダグと呼ぶわ。笑いだしたりしないといいけど」
ルーンは、塔の破壊がフローレンの仕業だったと聞いて、何か納得したらしかったし、ファルナはすっかり怒りを治めた。
「ダグがどうにかするわよね」
とか言って、台所に引っ込んでしまった。ダグは微妙な顔をしている。
「さあさ、お茶の用意が出来ましたよ?」
ファルナは家事魔法が得意らしく、塔の中の食堂はこぎれいで気持ちよく、家庭的な雰囲気で一杯だった。
そして髪をおさげにして興味津々と言った様子で眺めてくる十歳くらいの少女と、精一杯お行儀良くしているのがわかる小さなの男の子三人も一緒だった。
「子だくさんでね。後隣のベッドの中には先月生まれた末息子が寝ている」
ルーンは自慢そうに言った。
ファルナがどこかせかせかしているのは、多分五人の子持ちだからだろう。
まるで実家に帰った時のように、呑気で気が緩む雰囲気だった。
男の子の誰かがテーブルクロスにスープをこぼすと、穏やかだがキッパリした声が響く。
「マルクト、気を付けなさい、肘のことを忘れてはダメよ」
スープのシミはあっという間に綺麗にされて、マルクトのひじのシミも消えていく。
「食べ終わったら、ディーナが三人の監督をしてお皿を洗ってね」
「はい、母様」
そして防音魔法を施してから、ルーンがフローレンの婚約の経緯を話してくれた。
「ジルベルトという男は、信用できない。まるで、我々と違ったゼンマイ仕掛けで動いているような男だ」
「あの男は悪魔です」
静かにファルナは言った。
「さあ、悪魔が何なのか、実は私たちはよく知らないからな」
ルーンは妻を手で押さえていった。
「あの……そのあと王太子妃様は?」
気になっていたフローレンは、聞いてはいけないかもしれなかったが、聞いてしまった。
「姉のことなら、その後故郷に戻った。夫のことは愛していたが、故郷には昔からの仲間たちがたくさんいる。その中から幸せに再婚した。愛息子も無事に成長したし、よかったと思っている」
愛息子?
「でも、王太子のお子さまは亡くされたのですよね」
「いや、死んでなんかいないよ」
ルーンは真顔で言った。
「さっきは死んだと言ったがね。彼にしてみれば、死んだ方が安全だからね。我が一族の結束は固い。潜入なんかできやしない。それに解毒剤なんかお手の物さ。やって来た間抜けなヘルデラントのスパイの話に合わせてやっただけだ」
フローレンは黙った。
「あんたは辺境伯の令嬢だ。それに見たところ、バカでもないらしい。話を知っとく必要があると思うんだ」
かたわらでファルナが真剣な顔をしてうなずいた。
「彼は我が一族として迎え入れられた。彼は母譲りの魔法の才能が有ったので、誰にも遜色ないビストリッツの戦士として育ったよ」
フローレンはびっくりした。
「本当はヘルデラントの王位継承者なのでないのですか?」
「だから彼が誰だかは秘密だ。知られるわけにはいかない。ジルベルト王は蛇のような男だ。しつこく付け狙って殺そうとするだろう。彼は内戦の火種になり得る。本人にそんな気はないとしてもだ」
その人物は今どこにいるのですかと聞きかけて、フローレンは思い留まった。
それは聞いても仕方がないことだ。おそらく一族あげて、その人物のことは秘匿しているのだ。
彼を前面に押し立てて争えば、ヘルデラントは内戦になる。武力に勝る、ビストリッツはヘルデラント全土を掌握できるかもしれない。
だが、その後のことを考えたら……無理だ。
ビストリッツには有能な行政官も行政組織もない。国が大混乱に陥るだけだろう。
「私たちビストリッツは、魔力に頼り過ぎていたのかもしれないな。魔力さえあれば、どうにかなると。確かに魔力は、強力だ。どんな魔獣も敵ではない」
ルーンは続けた。
「ドラゴンだってキメラだって、人にはかなわない。人は武器を使えるからね。魔道具に鋭い刃を乗せ、魔力を回転させる。硬いドラゴンの皮膚には下からうろこを削ぐような回転をかけたナイフを投げつける。ジルベルトは考えたのだ。どうして魔力があるのかと」
フローレンは首を傾げた。そんなことを疑問に思ったことがない。
彼女は生粋の魔力持ちだった。魔力に対して何も疑問に思わない。
幼馴染のキースだってマリアだって、当たり前のように魔力を使っていた。城の台所の下仕えだって、いとも簡単に火を起こし、当然のように箒やハタキは勝手に一人で高窓まで上がって行って、手の届かない場所のほこりを払っていた。
「ジルベルトは違う。そして魔力持ちのことは、むしろ異常者だと思っている。恐れている。一方であこがれている」
王は喜んで魔法戦士を採用していたのに? そのためにオーグストス魔法学院を、王家のお金で運営しているのに?
ビストリッツの住人に比べて、オーグストス魔法学院の生徒の魔力は弱かったし、能力に凸凹があったけれど、そう言うものなのだとだんだん納得した。それでも、一般のヘルデラントの住人に比べれば、突出した才能に恵まれていると言われていた。
フローレンは得意不得意はあったが、一応まんべんなく使えたので、能力に凹凸があると言うことも考えたことがなかった。
「あなたが異常なのよ」
ファルナが指摘した。
「城の中でも、おそらくあなたほどの魔法量がある人はほとんど、いいえ、誰もいなかったのよ」
「でも……」
ファルナは首を振った。
「いいえ。あなたは違っていた。ここにいるルーンは膨大な魔法量を持っていた。彼に勝るとも劣らない力だわ」
ルーンは静かな目をして黙っていた。
フローレンは今の話に気になる点があった。
持っていた?
だが聞く雰囲気ではなかったし、ダグも黙っていた。
「それで、ダグとあなたの希望で私たちは攻撃魔法を教えるのね。わかりました。まずは、型を覚えてください」
ファルナは本を二冊押し出した。
「実技が一番なんだけど、まず、読むところから始めてもいいと思うの」
フローレンはだんだんと気になる点が増え始めていた。
「あの……急ぎなのですか?」
「そうなの」
ファルナはうなずいた。
「本を読み終わったら、出来るだけ急いでまた来てちょうだいね」




