第9話「容堂公」
退助と象二郎の主君である山内容堂公。
この容堂と云う名は世間によく知られているが、実は安政の大獄により蟄居の命令が下り、それにより隠居させられた後の号である。
山内 豊信が本名であり、隠居後の号を名乗るにあたって『忍堂』と称するはずだった。
彼は自分の性格を自覚している。
短気で意に添わない事柄に腹を立てる事が多く、「時局は腹の立つ事ばかり」と嘆いていたという。
そうした性格の自戒から忍心を持てとの意味を込め、自らの号を忍堂とするつもりでいた。
しかし水戸藩 藤田東湖の勧めで『容堂』と改める。
「この大変な時局、忍耐より寛容の心が大切でありましょう。」との進言を受け入れ、「自ら寛容になれ」と言い聞かせるべく『容堂』としたのだった。
だがここでは今後『豊信公』として統一する。
豊信公は武芸に秀でている。
写真に見る容姿からは意外に感じるかもしれないが、軍学は北条流、他に弓術、馬術、槍術、剣術、居合術を学び、特に居合では18歳にして目録を得るほどの達人であった。
退助や象二郎などの家臣たち数人が稽古に参加したが、七日七夜ぶっ通しの苛烈なしごきに最後までついてこられたのは退助たち僅か2~3人に過ぎなかった程である。
退助や象二郎が豊信公に気に入られその後重用されたのは、普段からの度重なる稽古付き合いと、人格・能力・人を引き付ける個人的な魅力が認められたからであろう。
特に豊信公は退助が好きだった。
憎めない奴。
とにかく下の者たちの間で人望がある。
本人は豪胆粗野でありながら、誰に対しても公平で尊重する姿勢や、弱い者をいたわり全力で守ろうとする性格は、誰しも無条件でついて行きたくなる。
困ったことに退助は時々問題を起こす。
だが何故か守ってやろうとの想いが豊信公を突き動かす。
短気な藩主にしては不思議な感情を彼に持っていた。
「こりゃ!退助!!」
問題を起こす度、平伏する退助を厳しく叱るが、その目はいつも優しかった。
今日も豊信公による稽古の日。
あまりの激しさで家臣たちヘロヘロの状態だが、豊信公は息ひとつ乱れていない。
家臣たちは決して口には出さないが
その超人的 様にいつも心の中で「殿は本当に人なのか?」
と訝る気持ちが湧いてくる程であった。
そんな家臣の心のうちを見抜く豊信公は時として意地悪な鬼と化す。
「退助!もう一本!!」
(あぁ、また名指しだ)
一瞬表情を曇らせた退助に、「秘儀、蛇の剣を見せてみよ!」と所望する。
「殿、ご無体な!昔の戯言をいつまでもいつまでもねちねちとおっしゃられるなんて、まっこと人の上に立つ者の所業とは思えませぬ。」
口をとがらせ、ブツブツと呟くようにもはや少年ではない退助が言う。
稽古を重ねるにつれ、そんな口答えができる間柄になっていた。
殿様に対し、こんな言動は下手をすれば、(人により)打ち首ものの反抗と見なされる。
だがそんな無礼もどこ吹く風の豊信公は狡い笑顔で「何をグタグタ申しておる!土佐の男ならグヅグヅせず早よせんか!」
と有無を言わせない。
仕方なく「恥ずかしながら、・・・イザ!」と構え、舌をピロピロと出し始めると、「隙あり!!」鋭い殿の竹刀が退助に打ちかかる。
寸でのところでかわし二の太刀に備える退助。
間合いを保ち、スリ足の幅を心持ち狭める。
お互い呼吸を止め、我慢比べが続く。
堪らず退助が構えを中段から上段に引き上げようとした瞬間、溜めた呼吸が乱れ、軸足である左の踵が浮く。
間髪入れず豊信公が素早い足捌きで一挙に間合いを詰め、鞘の位置から斜め横に切り上げる動きで退助の胴を決める。
(しまった!早い!!)
「勝負あり!」との声に「参った!」と退助が負けを認める。
「まだまだやのう。」仁王立ちの豊信公の高笑いが道場に響いた。
退助の名誉のために一言。
彼は決して弱くはない。
無双の剣を持ち、その力は後の討幕の戦で証明される。
しかしここでは対戦前の心理戦での常套手段を得意とする豊信公。
幻術(人の心を惑わす術)を使うが如く、退助の恥ずかしい過去をほじ繰り出し弱点を導き、そこを突く。(第5話の御前試合参照)
増してや相手はわが主君。
退助の性格では忖度はありえない。
でも本気で突けるはずもない。
そこに手加減があったとは思えないが、躊躇する心理は働いた筈である。
豊信公と退助の対戦を眺めていた象二郎が、「クッ、クッ!」と笑う。
「何を笑う?」殿と退助が同時に象二郎に問う。
「殿、この退助はんは子供の砌、私と喧嘩をするとき、いつも私の苦手な蛇を持ち出し私を脅すのです。
だから今日は痛快でなりません。
殿、もっともっと、退助はんに蛇の型を申し付け下さい。」
「よし、分かった!!
退助、余の大事な象二郎を虐めるなど、不届き千万!余が成敗してくれようぞ!!」
「殿~ぉ・・・。」
情けない顔の退助であった。
そんな豊信公は、退助の祝言に際し、格別の計らいで数々の祝いの品を贈っている。
それは厚い信頼の証であり、大のお気に入りの証でもあった。
そんな豊信公と退助の間柄を見せつけられ、嫁となるお里は目を丸くする。
「まぁ!」元々お嬢様育ちで勝気な新妻ではあったが、お殿様のお声めでたい旦那様に相応しい妻であろうと心新たに気負うのだった。
そんな妻を可愛いと思いながら、心のどこかで持て余し気味の退助。
明日は免奉行着任の挨拶に登城するという日。
不安と希望で一杯の退助であった。
つづく