第7話 「婚儀と抜擢」
象二郎が上機嫌で退助の家を訪れた。
大ぶりの鯛を持参して。
今日は退助と里の祝言の日。
両家の親戚御一党が集まる中、竹馬の友として特別に参加を許されていた。
象二郎は主役の退助を前にして
「どうじゃ!凄いだろう!!この鯛は土佐の大海に出でて3日間寝ずに得た偉大な釣果だぞ!」
祝いの挨拶抜きに、持参した魚自慢が始まった。
しかし退助は知っている。
(3日間寝ずに?昨日もお前とは会っていただろ。
独身最後の日と称し、酒屋のはしごをしたんじゃなかったか?自分は下戸のくせに!)
とは迫らず、
「おお!そうか!!それは祝着!では今日の席に用意したカツオも見てくれ!見事な戻りカツオだろ?このカツオも三日三晩徹夜して一本釣りした釣果じゃ!モッチモチした身が輝いておるぞ!絶妙な藁焼きで美味いのなんのって!塩で喰うとたまらんぞ!
さあさ、こっちに来て座れ!夜明けまで共に飲もうぞ!!」
と返した。
しかしその場に居合わせた親戚一同、知っていた。
退助は昨日もその前日も親戚廻りで顔を合わせていたことを。
大体退助も象二郎も海に出る船など持っていない。
見え透いた誰でも分かる冗談であった。
低次元の冗談でも競いあうふたりの仲。
「カッ、カッ、カッ!」と高笑いする様子を見て冷たい視線が集まる。
一同首を傾げ、眉を顰める場の空気に新妻となるお里がしゃしゃり出る。
「退助様も象二郎様も相変わらずでございますこと。
でも本日は私共の祝言の日。
せめて親戚の前だけでもお利口さんにしてくだされ。」
と云い、ちょっと目を吊り上がらせ小声で「め!」と云った。
肩をすぼませるふたり。
すると退助の母が、
「まあ良いではありませぬか。今日はお二人の門出のめでたい日。祝言のちょっとの間だけ大人しゅうしていただいたらあとは無礼講でよろしいのですよ。」
と、暗に祝言の間だけは畏まっておれと釘を刺した。
その場にいた者は全員、ふたりが破天荒な無頼者であり、一番の悩みの種なのを知っている。
だが彼らは本当のふたりを知らない。
彼らはふたりでいる時は、極めて真剣な天下国家の議論を繰り広げていることを。
退助の江戸勤番時代の2年前。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17:00浦賀沖に4隻のペリー艦隊が現れ停泊する大事件があった。
しかも艦隊が現れる事は事前にオランダ側からアメリカの要求として通告済みである事、まず琉球に現れ、当時の琉球国王への謁見を要求し、断っても武力を背景に強引に訪問した。
更に小笠原諸島を探検、領有権を主張する。
これはイギリス、ロシアなどが抗議しさすがに撤回しているが。
ペリーは「浦賀に出現した目的は平和的友好通商が目的である」と称していたが、侵略、征服欲丸出しである態度に当時の幕府は震えあがったが、同時に心から怒りを覚えた。
ましてや260年の間に弱体化した幕府の事情を知らない諸藩の大名など武士階級の者は、その不遜な態度に対し、武力による対抗策を幕府に求めた。
煮え切らない幕府。
国力と軍事力の差が歴然としている以上、対抗策などある筈もない。
そんな情勢もお構いなしにいきり立つ地方武士たち。
次第に幕府はあてにならないと認識するようになった。
即ち幕府に変わって朝廷をいただき夷敵を討つ、『尊王攘夷』論が芽生える場面に出くわした退助。
ペリー来航の興奮冷めやらぬ江戸の地での勤番が、その後の急進且つ強硬な政治信条を育むのだった。
勤番から帰ると、象二郎を巻き込み政治論義の花を咲かせた。
その後自ら廃嫡の危機を体験し、同時期失脚した吉田東洋の小林塾に通う象二郎と勉強嫌いだが孫子の兵法を学ぶ退助。
それぞれの学んできた知識を持って、今後の藩政や日本の将来をどう動かすか理想と夢を語り明かす日々を過ごした。
元々欧米諸国は食わせ物。
戦国時代には、日本女性を多数奴隷として売買したポルトガル・スペインの所業を知っている。
近年に於いても、1840年のアヘン戦争ではあの大国『清』がイギリスに負け、国中がアヘン漬けにされている。
あのインドもイギリスに植民地化され、昨年(1857年)セポイの乱が起きている。
欧米人に対し、良いイメージなどある筈はないのだ。
退助も象二郎も藩政に於いては国を富ませ、軍事力を強化するにはどうしたら良いか?
日の本の国はどうやって守るべきなのか?真剣に議論した。
一方藩主山内 豊重(容堂)公は積極的に藩政改革を行っているが、幕府に対しては甘い。
何故なら豊重の生家は1500石取りの分家であり、しかも本人は側室の子である。
先々代の山内 豊煕公の妻候姫(智鏡院)の実家島津家などが、時の老中首座阿部正弘に働きかけ藩主に就任する事ができたのだった。
本来なら自分にお鉢が回る筈はない。
だから自分を後押ししてくれた島津家と幕府に感謝し頭が上がらないのは当然であった。
それ故、薩摩藩同様、親幕府の立場を貫こうとするのは仕方ない事である。
象二郎との議論を深めるにつれ、尊王攘夷思想に傾くふたりと藩主 豊重の間には深い隔たりが存在した。
しかし豊重公は退助を何故か甚く気に入っている。
万延元年(1860年)免奉行、翌文久元年(1861年)江戸藩邸詰めに抜擢した。
つづく