第44話「大隈重信卿」
1884年退助の自由党は解党し、同年末、立憲改進党党首大隈らが脱党、こちらも事実上分解した。
これにより自由民権運動は一時衰退したが、1887年(明治20)10月、片岡健吉(元迅衝隊左半大隊司令、退助の右腕)が元老院に建白書を提出。
この建白書をきっかけに起きた政治運動を三大事件建白運動と云いう。
この建白は「外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減」を要求し、民権運動は再び激しさを増した。
この社会のうねりを見て象二郎が動いた。
象二郎は自由民権運動各派が再結集、来るべき帝国議会 第一回衆議院議員総選挙に臨む。
帝国議会を舞台に議会政治を打ち立て条約改正、地租改革・財政問題にあたるべきと唱え、旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけた。
だが、この時自由党元総裁の退助は自分が疎外された事にへそを曲げ、いじける。
しかしその疎外の理由は、何かと行動に不正疑惑が多く、退助とは性格の合わない運動のもう一人のメンバー、星亨の存在にあった。
また私事乍ら、妻の逝去、及び再婚問題に翻弄されていた最中での事もあり、余裕がない退助。そうした事由により、運動からは距離を置いていた。
またそれとは別に、ライバルだった立憲改進党の領袖、大隈重信も懐疑的であった。
それを見た政府は、12月26日、安保条例を制定、活動家を弾圧した。
弾圧する一方、政府は『飴と鞭』政策も同時進行で実行する。
1887年(明治20)5月、退助と同じく伯爵の爵位を象二郎に授け、懐柔作戦に出た。
象二郎は人の好い性格である。懐柔作戦などどこ吹く風の顔でニコニコして受け入れた。
後藤象二郎伯爵の誕生である。
更に政府の分裂工作は続き、1888年(明治21)2月大隈重信を第一次伊藤内閣の外務大臣として入閣させ、運動の盟主の象二郎も1889年(明治22)2月黒田内閣の逓信大臣として入閣させる。
そして象二郎は、運動からの撤退を表明した。
これにより運動はその後の方針の違いから、河野広中の大同倶楽部と大井健太郎の大同協和会に分裂、事実上崩壊した。
だが実際に帝国議会が開催すると民権派系の民党と政府の対立が激化する。
そうした情勢の中、大同団結運動と距離を置く退助を擁立する声が高まった。
これを契機に自由党系の再集結論が盛り上がる。その結果、第二次愛国公党、大井が結成した自由党、大同倶楽部らが結集、改めて退助を擁した立憲自由党(翌年自由党に改名)が結成された。
その結果、第1回帝国議会では130名を占めて第1党となる。
そして立憲改進党と民力休養(市民階級の育成)を掲げ、政党内閣の確立を目指した。
同1891年(明治24)退助は立憲改進党 大隈重信と会談、民党連合による連携に合意する。
その日は雨だった。 梅雨の初めは肌寒い。
退助は会談を始める前からあまり気乗りしない。正直言って大隈とはそりが合わないのだ。
大隈は饒舌で、こちらから討論を仕掛けてもいつの間にか相手のペースにはまり、丸め込まれてしまう。
それが大隈の長所でもあり、短所でもある。
しかも大隈の記憶力は超人レベルである。あまり人の話を聞かず、話の途中で割り込み自説を展開する癖に、相手が何を話したかちゃんと覚えている。
しかも大隈は金持ち。退助と違い、投資などで莫大な財を成している。
退助があばら家に住み生活にヒーヒー言っているのに、彼は別邸を何件も持ち、毎月1500円もの生活を謳歌している。
日本を背負う政治家とは我が身の一身を賭してでも捧げるべきものと考える武人退助に対し、大物大蔵官僚出の大隈は損得の理にさとい。
退助は、大隈を大蔵卿の職からの辞任を要求した過去がある。退助のみに非ず、大隈を嫌う者は多い。
明治天皇や木戸孝允、西郷隆盛らも嫌っていた。
でも、その強烈な個性と能力から慕う者もそれ以上に多い。
どことなく鈍臭い所がある退助は、その愛嬌と人柄で人を引き付けてきたが、大隈には通用しない。
案の定、会見は大隈のペースで終始した。
先に到着していた大隈は、「やあ、板垣殿、久しぶり!元気だったか?滋賀の襲撃からしっかり回復しようですな。」
「大隈顧問官(大隈は外務卿を辞職し枢密顧問官になっていた)もあの時は大変でしたな。杖をついての移動は大変じゃろ?」
(大隈は1888年(明治21)10月18日、国粋主義者に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの右脚大腿下三分の一を切断している。)
「お互いテロには苦労しますな!ハハハハハ!」
「そうですな。」
退助も大隈も襲撃犯に対し非常に同情的で、むしろその行為を高く評価するような言動を残している。
その豪放無比な性格は似ているのかもしれない。
「ところで板垣卿の自由党は随分迷走しているようですな。私の所(立憲改進党)も大変ですが、お宅は大丈夫ですか?」
「それが全然大丈夫じゃないんじゃ。どいつもこいつもあっちこっち向いてるもんじゃけ、纏まるものも纏まらん。おかげで毎日ヒーヒー云うとる。」
「お互い苦労しますな。でも板垣卿の場合、家が子だくさんと聞きます。
そっちの方の苦労もあるんじゃないですかな?」
「それが・・・そうなんじゃ。細君は日に日に強くなるし、子供らは昼夜を問わずビービー泣くし、寝ているワシの上をでんぐり返しするし、おちおち寝てられんぞ。ワシに同情してくれるか」
(笑いを必死で噛み絞める大隈卿)
「深く深く同情しますよ。大体、板垣卿は清貧過ぎますな。もう少し我が身と家族を顧みんと。
私が投資の方法を教授しましょうか。板垣卿が政府に戻ってきたら、私が全力でサポートするので、是非一緒にやりましょう。 まず現在の政治状況は・・・・」
そこから長々と講義が続いた。
退助は窓の外の霧のような雨を見る。
今日も我が家は子供らで戦争状態なんじゃろな。
その時その時の情勢により、目まぐるしく集合・離散を繰り返す政争に疲れを感じていた退助。
しかも家では毎年出産が繰り返され、鉾太郎兄ちゃんには、3人の妹と、ひとりの弟ができていた。
母として、逞しく家を切り盛りする絹子。
「とても伯爵夫人には見えない」・・・とは、口が裂けても言えない退助パパであった。
母乳を飲ませるのは母、おしめを替えるのは鉾太郎。(ただし、学校から帰ってきてからの話。)
犬の散歩と猫の餌やり、それからおしめの洗濯は(家事担当の女中さんと)時々退助伯爵の役目。
さて、その伯爵邸であるが、こんな証言が残されている。
市島健吉(明治のジャーナリスト)の証言
「常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯の住所は芝公園内の第何号地という様な分り悪い所にあった。
辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので自由党総理の家とは思えぬ。
そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。
下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。
下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。
戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理大隈伯の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」とある。
退助卿の家の近くに近づくといつも子供の声がする。
つづく