第42話「叙爵の恩命と三顧の礼」
退助の自由民権運動は運動の過激化と政府の弾圧により閉塞感を強め、次第に萎んできた。
過激派自由党員が起こした主な事件。
1881年(明治14)秋田事件
1882年(明治15)福島事件
1883年(明治16)高田事件
1884年(明治17)群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件
1885年(明治18)大阪事件
1886年(明治19)静岡事件
事件は次第に過激化し、暗殺や爆発物によるテロ、活動資金集めに銀行強盗を計画するなど、思想犯としてより凶悪な犯罪者の様相を呈してきた。
退助はそんな状況を企図した訳ではなかったが、自分が提唱した自由民権運動の広がりが、こんな結果になってしまった事に強い責任を感じる。
有る日退助は伊藤博文と会見する機会があった。(その会見は後述する)
冒頭、伊藤は退助に謝罪している。「私が後藤殿(象二郎)に洋行を勧めた結果、疑惑を招き自由党解党を招いた事を謝罪したい。」
「いいや、謝罪は結構。貴殿のせいで解党したのではないきに。自由党を解党したのは、全くの自滅が理由じゃき。
逆にワシの方こそ謝罪したい。ワシは多くの若者たちをあおり過ぎ、過激行動に走らせてしまった。焚きつけておきながら暴発を制する事ができなかった事を貴殿と政府に謝罪する。」
退助は伊藤の分裂工作には気づいていた。
然し、伊藤は国家の屋台骨を背負い、国民が持つ様々な不満を限られた財政条件と未整備な仕組みの中で懸命に治めてゆかなければならなかった。
伊藤は民権運動の重要性を完全否定しているのではなく、あくまで時期尚早とし、国をまとめながら緩やかに移行せよといっているのだ。
自由も人権も、その真意を廣く国民に浸透させなければならない。自由や民権の主張を『徳政令』と同一視し過激化した行動に明け暮れている現状では、簡単に(不用意に)権利の付与はできない。
国民が真に自由、平等、人権に目覚め、その権利を正当に行使できるようになるためには、まだまだ教育による理解と、権利を持った者の責任と自覚が必要である。
また、成熟した民主主義を確立するためには、国民の大半を占める中間層を主流として育てなければならない。
貧困層ばかりでは、どうしても生活の安定と自分たちへの税負担軽減しか関心を持たない。
生活にある程度のゆとりを持たせ、過激な思想や行動に走りにくく穏健な考えを持った市民階級の育成が急務なのだ。
伊藤の考えと目指す立憲政治とは、そうした仕組みを持つ国家体制である。
だから彼は殖産興業に、とりわけ民業の育成と強化に一番力を入れているのだ。
そんな立場を(同じ政府部内にいた退助は)痛い程理解していた。故に伊藤を責める気は無い。但し、だからと云ってお互いが慣れあいに染まり、異なる主義主張に対し決して忖度はしない。退助は何処まで行っても頑固に主張を曲げない明治の元勲であった。
そんなスーパー頑固オヤジ退助のエピソード。
1887年(明治20)5月9日戊辰戦争と明治維新の功労者に対し、叙勲の恩命が下される。
退助は伯爵に叙せられた。だが退助は勿体なくも叙勲を辞した。その理由は退助の主義、主張にある。彼は常に一君万民、四民平等を唱えている。
しかし爵位を受けると云う事は自ら特権を受け入れ、平等主義に矛盾した行為になると考えたのだった。
辭爵表
臣退助、伏して五月九日の勅を奉ず。陛下特に 臣を伯爵に叙し華族に列せしむ。
天恩の優渥なる 臣誠に感愧激切の至りに任へず、直ちに闕下に趨て寵命を拝すべき也。而して 臣 退て窃かに平生を回顧するに 臣、素と南海一介の士。(中略)
而して、陛下 臣を賞するに厚禄を以てし、並に物を賜ふ事若干、次て参議に任じ正四位に叙せらる。
陛下に咫尺し以て 臣が説を進むるを得ば、臣の願既に足れり。
尚ほ何ぞ伯爵に叙し、華族に列するの特典を拝するを須ひんや。
且 臣、平生衷に感ずる所あり、高爵を拝し貴族に班するは、臣に於て自から安んずる能はず縦令、陛下の仁愛なる、臣が舊功を録し重ねて特典の寵命を下さるるも、臣にして敢て天恩に狃れ一身の顯榮を叨りにする事あらば則ち臣復た何の面目を以て天下後世の清議に對せんや。
因て 臣茲に表を上り 謹で伯爵並に華族に叙列するの特典を辭す。
伏して願くば、陛下 臣が區區の衷情を憫み、其狂愚を咎めず、以て臣が乞ふ所を聽されん事を。
慚懼懇款の至りに任へず、臣退助誠惶誠恐頓首頓首。
明治二十年六月四日 正四位 板垣退助
想定外の退助の反応に政府は慌てふためいた。
6月11日宮内次官が天命を奉じ退助に「陛下(明治天皇)は貴下の『辞爵表』を奏聞されるや、御嘉納あらせられず、深く叡慮を煩わせれておられる。
よって速やかに前志を翻して受爵されるように」と諭す。
一方内閣は秘密会議を開催、「板垣辞爵問題」を討議し、あくまで退助を受爵させると再確認する。
(わざわざ議題にまで上げ国家の閣僚たちが退助問題を討議した!驚き!!)
それを受け退助は主な旧自由党党員140名を集め、その場で説明を行う。
「『再辞爵表』を上書し「自分が今、叙爵の寵命を固辞する理由は、封建門閥の弊習を取り除き、四民平等を宣した維新の精神を守ろうとするものである」と訴え、辞爵を再請願した。
しかしその請願も宮内省書記官に「陛下の叡慮は前日と変わらない」旨を告げられまたしても差し戻される。
頑固で困ったチャンの退助を説得することに周囲が混迷の度を深め、思い余って伊藤博文が「三度の拝辞は不敬にあたる」という三顧の礼の故事をひいて諭し、ようやく退助の心を動かすことが出来た。7月15日、退助は参内し『叙爵拝受書』を奉呈する。
その三顧の礼の説諭の会談が、あの伊藤と退助の謝罪と和解の場でもあったのだ。
頑固オヤジ退助は、公私共に波乱を巻き起こす。
絹子の事で話があると云い、絹子を斡旋した福岡 孝弟を呼び出した。
「やあ、退助先生、暫く会わないうちに、一層精悍で脂ぎった土佐男になったのぉ!」
「何を言うか!会って草々、皮肉はよか!別にワシャ脂ぎっておらんし。ほら、このウルサラのきれいなお肌をみよ!」
(は?・・・・)ふたりは目を合わせ、暫く気まずい空気が流れる。
そんな雰囲気に耐えきれず退助が、「ウォッホン!・・・。今日はうちの絹子の事で話がある。」
「うちの?もうそこまでの関係になったとか?やはり退助先生の女子に対する手の速さは早打ちマックや、ビリー・ザ・キッドなみじゃのぉ。」
「何でワシが彼女に手を出したと決めつける?ワシャまだ手を出しておらんぞ!大体、ビリーとか、マックとかは何じゃ?ハンバーガーか?」
孝弟は質問を無視し、「まだ出していない?じゃぁ、これから出すつもりね?」
「だから!ちゃんと聞かんね!妻の鈴が亡うなって早一年になるが、我が息子の鉾太郎が心配なんじゃ。
でも息子は健気にカラ元気を装って居るきに。そんな鉾太郎を絹子が懸命に支えておる姿がワシの胸を打つんじゃ。
そこでワシは考えた。絹子も我が板垣家に馴染み、鉾太郎の母代わりになろうとしているのなら、いっそのこと本当の母になってはどうかとの。
だから、絹子にその考えを伝える前に斡旋業者のおまんに一言云っておこうと思っての。」
「誰が斡旋業者じゃ!ワシャ悪徳人身売買の『人買い』か!じゃが、先生が本気でそう思うならワシも考えてやっても良いきに。」
「それは有難い!では早速話を進めよう。(福岡)孝弟大明神様。」
「まつり上げんでよか。でも、このまま祝言をあげるとなると、世間体が悪いの・・・。
女中に手を出して我が物にするとの噂が経つと先生にとっても都合が悪かろ。」
「先生は止めんかい。おまんとワシの仲じゃろが。」
そんな退助の言葉をまたも無視し、「そうだ!絹子殿を養子として、ワシの家から嫁がせると云うのはどうかな?それならきっと絹子殿の父親の荒木殿も納得するじゃろ?」
「そうかな?・・・そうじゃな。そうしてくれるとワシとしても有難い。
孝弟殿、引き受けてくれるか?お礼にワシが発行する『何でもお手伝い券』をあげるきに。」
「『何でもお手伝い券』?何じゃ?そりゃ?子供か?ワシは?(何か企みを思いつき、気を取り直し)でも本当じゃな?本当にくれるんじゃな?」
孝弟がワザと含みのある悪そうな顔で念を押す。
「その反応、何だか恐ろしいな。やっぱりやめようかな?」
「土佐の男に二言は無しじゃ!お手伝い券を貰うのを楽しみにしておるぞ!」
退助は何だか悪魔に魂を売ってしまったかのような不安を胸に、孝弟との話をつけた。
そしてついに、満を持して退助は絹子にプロポーズした。
絹子の答えは一言。「嫌だ。」
つづく