第4話「さらばお菊」
孝弟とのリベンジに成功した退助は、その後一度も彼との諍いを起こしてはいない。
しかしその場に合わせた象二郎以外は大人になるまで交流の記録がない。
孝弟の家は上士であり、象二郎の家も上士。
それに対し、慎太郎の家柄は庄屋であり、名ばかりの士分である。
*註釈
(1)庄屋とは今で云う村長。
本来農民の代表であり、もちろん士農工商の『農』。
しかし、江戸中期以降、庄屋たちは各々の条件により
士分に格上げされ、名字・帯刀が許される者が増えた。
(2)上士と下士(郷士)
土佐藩に於いて同じ武士でも
上士と下士(郷士)に歴然とした身分差があった。
下士(郷士)とは、秀吉の時代に改易された長曾我部氏の家臣。
家老から足軽まで等しく家禄を失い、武士の身分のまま農民や商人・町人と同じく生活の糧を自前で持たなければならない名ばかりの下層武士だった。
上士とは、長曾我部氏の遺領を山内一豊が拝し、土佐全土を治める。
その家臣たちが上士であり、下士との間に常に軋轢があった。
中岡慎太郎が庄屋の出であると云う事は、当然『上士』との扱いは受けない。
でも正確には下士でもない。
ただその立場は下士に近く、下士である坂本龍馬や竹中半平太と気脈を通じていた。
孝弟はその後退助を避けるように姿を消し、その場に居合わせた慎太郎は敵意を帯びた目を残し、同じく姿を消した。
それに対し、象二郎には自分と同じ匂いがする。
即ち、気の合うガキ大将としての匂いが。
その後、何かとふたりはつるんで歩く。
しかしベタベタした関係でもない。
象二郎は孝弟同様、蛇が苦手である。
それに気づいた退助は、事あるごとに蛇を使って象二郎を怖がらせからかっている。
ただふたりとも喧嘩はめっぽう強かった。
年上にも臆することなく立ち向かい、打ち負かすほどの猛者である。
退助の母はそんな退助を心の底では頼もしく思う。
しかし、本人の前ではいつも『トラの穴』のような厳しさしか見せない。
母の教えは曰く、
・「喧嘩をするならば必ず勝利を得よ」
・「喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ」
・「卑怯な挙動をして祖先の名を汚してはならぬ」
である。曲がった事が大嫌いな母であった。
手習いが嫌いな退助もひとつ年下ながら、象二郎という親友を得て武勇伝の数と質を高めた。
彼らは連れションの時も競い合う。
どちらが高く遠く小便を飛ばせるか、どちらが長く出し続けられるか競い、負けた方が勝った相手の後ろに回り肩を激しく揺すぶる。
揺すぶられた方は「オイ!止めろ!!小便が足にかかるだろ!止めろ!止めろ!!」
揺すぶる方は笑いながら、「オイ止めろ 小便は急に 止まれない。」
揺すぶりを続けながら、交通安全標語を真似た口調で云う。
何ともふざけた間柄だった。
ある日退助と象二郎が剣術(居合術)の稽古を終え家路につく途上、眼前にお菊の姿を認めた。
どうやらお菊は奥向きの使いとして外出していたようだ。
お菊のそばに、たむろする目つきの悪い年上の3人組の少年たちがいた。
彼らはライバルの隣組の輩である。
彼らはお菊が通り過ぎるまで卑しい目で舐めるように目で追っている。
退助は突然走り出し、彼ら3人をグーで殴り倒した。
頭に血が上った退助特有の険しい表情である。
象二郎は一体何があったのか訳が分からなかったが、何か特別な怒りが彼を支配しているのを察し、退助の元に駆け付けた。
目の前の事態にお菊は退助の性格を考え、象二郎の前では自分の存在と親密さを気取られてはけないと本能的に感じ、その場はお辞儀をして去ることにした。
目つきの悪い三人組は一体何故自分たちが殴られたのか分からず、打たれた頬を抑えながら目をぱちくりした。
鬼の形相の退助の気迫に負け、「覚えておれ!この借りはきっと返すからな!」と云ってその場を逃げるように離れた。
その日帰宅した退助にお菊は「退助様、先ほどはありがとうございます。」
とお礼を言った。
それ以降お菊は「坊ちゃま」とは言わなくなる。
「でも何故あの方たちをいきなり殴ったのですか?」相変わらず答えにくい質問をズケズケとする。
「気にくわない顔をしていたからさ。」
「顔の何処が気にくわなかったのですか?」
「目つきさ。」
「どう気にくわない目つきをしていたのですか?目つきが気にくわない人は総て殴るのですか?」
答えに窮するまで追い込むお菊。
「お前をいやらしい目で見ていたからだよ!」
とうとう白状した。
(してやったり!)お菊はその答えに満足したが、無情にも更に追い込む。
「いやらしい目をしている者は皆殴るのですか?」
「お前をいやらしい目で見ていたからだよ!」
目を瞑って観念した退助はヤケクソになり白状する。
「どうして?」
「・・・・。」
いたたまれない退助はその場から逃げ去った。
「ふぅ、追い込み過ぎたかしら?」
ひとり残されたお菊も母同様、鬼だったのかもしれない。
退助の武勇伝が稽古場の寺の住職であり、師匠でもある先生の耳に入ると、退助を呼び、
「こりゃ、退助!お前はどうしてそんなに乱暴者なのだ?」と困り果てた顔で叱責した。
これで何度目だろう?退助は毎度毎度の「こりゃ!」にすっかり慣れてしまっている。
全く反省の色を見せない退助にやがて天罰(?)が下った。
退助にとって一番大切でかけがえのない存在のお菊との別れの時が来たのだった。
退助の父と母はお菊に対し、ある将来の展望を持っていた。
それはお菊の成長を待ってしかるべきところに修行に出し、その後お城の奥女中として派遣する心積もりなのだ。
退助との間柄にも若い男女二人に間違いが起きてはならない。
未然に回避するためにもお菊には次のステージが必要と思われた。
母はある日お菊を呼び、ひと月の後、母の実家の縁続きの家に養子縁組の後お城に入るための修行をしてもらう旨申し伝えた。
既にお菊の両親の承諾を得ていることも。
みるみる顔面蒼白になるお菊。
「どうしたのですか?この有難いお話に不満でもおありかえ?」
お菊の心情を念頭に、母は機先を制するようにお菊の存念を制するように言葉で封じた。
「いいえ、何もございません。」
何も言えないお菊の目に危うく涙が流れそうになった。
翌日お菊の様子に異変を感じた退助は
「お菊、どうしたのだ?」と気遣うように問う。
「退助様、・・・・私は間もなくこの家を去る次第となりました。」
「えっ!・・・???」
あまりに唐突な思わぬ事態を聞かされ、退助は氷のように立ち尽くす。
「何故だ!何故だ!!」
「私もここを出るのは嫌です。
でも私はいつまでもこのお家にご奉公させてはもらえないのです。
ひと月後、私は大奥様の縁者の家に貰われて行きます。
そして修行の末、お殿様のお住まいになるお城の奥女中にさせていただく事になるそうです。」
「行くな!行くな!!いつまでもボクのそばに居ろ!」
「私もそうしたいと思います。
でもそれは叶いませぬ。
ご辛抱くだされ、私の大切な退助様。」
「そうはいかぬ!ボクは納得しない!母に直談判する。」
「それはいけませぬ。私がこの家にいては退助様のためにならぬのです。お察しくだされ。」
「いや、納得せぬ!お菊はボクの妻になるのだ!!」
とうとう言ってしまった。
退助はこんなタイミングで求婚するとは夢にも思わなかった。しかしお菊は頭を振り、
「いいえ、それはできません。
退助様のお気持ちはとても嬉しく思います。
でも私と退助様は身分が違います。
だから私とあなた様が添う事が許されぬのはお分かりでしょう?ご無理はおっしゃらないでくだされ。」
お菊は退助の前で初めて涙を流した。
寒い冬の水仕事であかぎれになった手を、大事そうに両手で包んでくれた真心を、庭になっている柿の実を、ワザワザよじ登って取ってお菊に差し出した好意の思い出を、総て捨てねばならぬのか?
無念の思いはお菊も同様なのだ。
お菊はきっぱり
「私の事はおわすれくだされ。
そしてどうか前を向いてお進みくだされ。」
最後は嗚咽に変わっている。
「ボクは終生お菊の事を忘れぬ!そしてお菊の事を諦めぬ!今の拙いボクに阻止する手立てはないが、いつか必ずお菊を迎えに行く。約束する。生涯かけて誓う。だからお菊も忘れてくれるな。」
涙に暮れるふたりだった。
その日を境に退助は大人の雰囲気を帯びたひとりの男になっていた。
お菊との別れの日を迎えても、温かい目で最後の言葉を贈るだけの退助だった。
「さらばだ、でも決して忘れるな、良いな。」
「はい、忘れぬよう、心に刻みます。」
お菊は去っていった。
退助はその時何を思ったのか?
彼は身分制度の理不尽を強く憎んだ。
ボクは絶対この世の中を変えてやる。
そしてお菊を嫁にするため大手を振って迎えに行くのだ。
彼が自由の概念とその実現に目覚めたキッカケだった。
そしてその信念は終生変わらず彼の行動を支えた。
つづく