第35話「大阪会議」
大久保利通は追い詰められていた。
維新政府から次々と要人が下野し、反政府の反乱が起きるなど、不満が国中に充満している。
征韓論で西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが下野。やむを得ず維新政府の残留組、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信伊藤博文・片岡健吉らが政府を再編する。
しかし6月政変の影響は大きく、下野し、即座に帰郷した西郷らが鹿児島に私学校結成。県政の壟断問題が起きる。
一方退助、象二郎らは1874年(明治7)1月12日愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を提出した。
同年1月14日、土佐の不平武士による岩倉具視暗殺未遂事件が起き、更に2月江藤新平の佐賀の乱が勃発した。
追い打ちをかけるように台湾出兵が議論されると、征韓論を否定しておきながら台湾への出兵は矛盾であるとして、4月18日、征韓論に反対していた長州閥トップ、木戸孝允までもが参議の職を辞し下野した。
台湾出兵とは
1871年(明治4)年貢を輸送していた琉球御用船が台風による暴風で遭難、台湾南部に漂着、遭難した乗組員は先住民の集落に拉致される。
しかし遭難者たちは現地先住民との意思疎通の不備から集落を逃走。同年12月17日先住民は逃走者54名を斬首した。
その事件を受け、台湾蕃地事務都督西郷従道が独断で出兵を強行、征討軍3,000を出動させ6月3日には事件発生地域を制圧、現地を占領した。
孤立を深める大久保は、事態の打開を模索しなければならない。
当時官界から実業者に転身していた井上馨がこの情勢を憂い、混迷した政局の解決には大久保には木戸・板垣との連携が必要であると盟友・伊藤博文と仲介役を買って出た。
大久保はわたりに船と仲介策に応じ大久保・木戸の会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。
ここにきて井上と同じく官界を去り実業界入りしていた五代友厚の申し出により、五代邸が大阪会議の準備会談の場として使われた。
この五代邸に大久保や伊藤らは下準備に一か月もの間何度も往復している。
これを受け井上馨は山口に帰った木戸を大阪に招聘、更に自由民権運動の小室信夫・古澤滋らに依頼し、東京にいた退助も招く。
1875年(明治8)1月22日、退助・木戸が会談、井上・小室・古沢の同席のもと民選議院設立が議題に上った。
つづく29日、大久保と木戸が会談、木戸の政府復帰が決定された。
ここまでの会談では大久保・退助に直接の接触はない。三者三様の思惑を抱いた会談であった。
大久保は退助が掲げる民撰議院には消極的であった。何故なら富国強兵殖産興業のため一貫した政策を安定して継続するには、薩長による藩閥政治が必要である事。
自由民権運動は不平武士のうっ憤のはけ口であり、現状に於いて本格的政党政治への移行は小党分立が想定され、国政が混乱、政策遂行の遅滞を招く。以上の理由から退助との会談には二の足を踏んでいた。
しかし、退助の民権運動が過激化、先鋭化するのを放置するより、政府に取り込んでおいた方が運動を分断、コントロールできると踏んだ大久保は、木戸とセットで復帰を望んだ。
木戸は退助とセットで復帰する事により大久保の専横に対抗できるとの思惑から退助の復帰を強く望んでいた。
会談の結果立憲政体樹立や三権分立、二院制議会など、政府改革の要求が認められる成果をみた。
これにより退助は、政府に協力する決断をする。
2月11日、木戸が井上と伊藤が同席の上大久保と板垣を北浜の料亭に招待した。この三者会談を大阪会議という。
ただし、この会議という名の会談は政治の話は一切していない。
退助が登場するこの手の会談がどのようなものだったかは、読者の皆様はもう想像できるだろう。
この時すでに彼らは明治の元勲であり、お互い相手の急所を直接攻撃する様な無粋で卑怯な真似はしない。話し合いがついて、仲直りしようと云うのだ。
かといって喧嘩別れした彼らが幼稚園や小学校の仲良しクラブ然とした会話で満足する?
まさかね。
ただ、ここで退助は圧倒的不利である。彼脇が甘く隙が多いから。頑張れ!退助!!
事前二者会談で合意していたとは言え、ここで退助と大久保が顔を合わせるのはあの日以来である。
会場である料亭の部屋には先に木戸と大久保が到着していた。
少し後からやってきた退助。
大久保と視線が合う。暫く見つめ合うふたり。
まず大久保が、
「よう退助どん、久しぶり。元気にしちょったか?そんなに見つめられたら、惚れてしまうがな。」
「大久保どんは関西人か?」とボケと突っ込みで会談がスタートした。
「いや、噂に違わず退助どんは元気よのう。随分勇ましい演説をぶっこいたそうじゃなかか?」
「いえいえ何をおっしゃる!大久保どんの熱弁には敵いませぬぞ!ワシャいつもタジタジじゃき。」
「そんなこつあらへんがなぁ~、おいどんはいつも退助どんに何か言われるとグサッ!とくるきに。」
「大久保どん!今宵おはんの話言葉はおかしいぞ!何故に鹿児島と土佐と関西が混じっちょる?」
「ソゲンコツなか。」
どうやらもう酒に酔っているみたいだ。
木戸が口を挟む。「ここ大坂でも、偉い人気のようじゃの。大阪日報にも退助はんの勇ましい図が載っておったぞ。ほら、こんな風に。」
と、前のめりになり、人差し指を突き上げて演説する姿勢を真似た。
「ワシャそんな恰好はしちょらせん!ワシが人前でしゃべるときは、東海林太郎のように直立不動じゃき。」
注:東海林太郎=昭和の歌手。
直立不動の姿勢で歌うのがトレードマーク。
時代考証が破茶滅茶ですまんこってすたい!
「そうかぁ?いつもの退助はんをみていると、そうは見えんぞ。おはんは議論に熱がはいると、オーバーアクションが凄いけん。」
「何をおっしゃる!木戸はんだって、凄い顔で迫るじゃなかか。」
「まあまあ、熱が入った時はお互い様。あん時(征韓論で対立した時をさす)を見ろ、互いに掴みかからんばかりじゃったろう。」
「まあ、とにかく、アクションと甘いマスクは退助どんが一番じゃな。聴衆の男どもならいざ知らず、女性ファンも多いそうじゃの。黄色い声援が飛び交ったそうじゃなか。」
「演説会に女はおらん!」と顔を赤くした退助が反論するが、しかし間髪入れず、木戸が
「そうそう、ファンレターが毎日山のように届くと聞いたぞ。羨ましいかぎりじゃ。ハハハハハ!」
それを受けて退助が「何をおっしゃるウサギさん、そんならあなたたちと人気比べ。」
木戸が
「向こうのお山の麓まで・・・・って、何を歌わせるんじゃ!まあ飲め!今宵はその辺の武勇伝をとことん尋問するぞ、覚悟しちょれ。」
大久保も負けずに、「暴露合戦じゃ!お互い恥ずかしい話で盛り上がろうぞ!まあ、もう一杯!」
状況と雲行きが怪しくなってきたので退助が話題を変える。
「木戸はんと大久保どんはワシに隠れて連日囲碁三昧だったそうじゃの。何でワシにも声を掛けん?」
(三者会談の前、木戸と大久保は何度も囲碁をいそしんでいた。)
「だって退助どんの囲碁は弱いじゃろ?そう聞いたぞ?」
「そげな事ないきに。結構強いぞ!」
「ほぉ、そげなら、いっちょ勝負するか?」
「おう、いくらでも受けてたつぞ!」
・・・・ボロ負けの退助であった。
「今宵は酒が入っていたからこんなもんじゃろ。 この辺で許してやる。」
「それが負けたもんの云う言葉か?負けん気の強いやっちゃ!」
「今後はまた閣議で勝負じゃ。そん時にゃ、コテンパンにしちゃるけん。」
「何をおっしゃるウサギさん」
堂々巡りの酒宴であった。
日本のその後の方向性を決めた重要な三者会談だったが、実はこんな具合の低次元な歓談に終始した。
(・・・って、作者の知能と会話能力が低次元だからじゃろ?)
つづく