第34話「立志社」
退助の演説は強い反響を得た。しかし聴衆の心を揺さぶっても、その大半は貧しい生活のどん底にいた。
どんなに希望を以って戦えと云われても、明日の生活に事欠く身では動きが取れない。民権運動に参加し、活動する余裕などない。有難い話が聴けたと満足するのが関の山なのだ。
それでも全く成果が無かった訳でもない。農村の民の参加は得られなかったが、賛同の機運の手ごたえはあった。それに、農民たちの代わりに士族たちの支持を得ることができた。
維新以降、武士は士族へと変わり、既得権が消滅してゆくにつれ、不平を持つ者たちが数多でる。
彼ら不平士族たちは、やり場のない不満と怒りの矛先を、自由民権運動へと傾注するのだった。
そうした彼らを結集し、1874年(明治6)、片岡健吉(元 迅衝隊左半大隊司令、後に衆議院議長を務める)を社長として、立志社を立ち上げた。
(社長と云っても、株式会社ではありません。政治結社の社長です。念のため。)
そのメンバーは退助と片岡健吉の他、山田平左衛門、林有造、植木枝盛と云った早々たる面々である。
そのいずれの者もその後の国の発展に寄与した重要な人物であり、退助の人望に引き寄せられた者達だ。
立志社の理念
天賦人権をもとに、民衆の知識向上、気風養成、福祉上進、自由浸透を目指す。人民主権・一院制議会・人権保障など民主主義の理念に基づいた立志社憲法見込案の発表。
この理念に基づき、国会期成同盟の中心的役割を果たし、また機関紙を多数発行、立志学舎を立ち上げ、近代的教育の中、民権思想の普及に尽力した。
この退助の動きと平行し、先に提出した民撰議院設立建白書が新聞に掲載され、国会開設請願が広く世間に広まる。民選議院設立の可否について、多くの新聞紙上に於いて論戦が交わされた。
退助の撒いた種が大きなうねりとなり、国中に認知される。
初めて退助の演説を聞いた展子は改めて夫・退助の偉大さ、気高さに気づかされた。
あの日以来、板垣邸に続々と訪れる有志の者たち。彼らは目を輝かせ、夫を師と仰ぎ、行動を共にしようと馳せ参じる。
展子にとって夫・退助は、ガサツで危なっかしく、浮気者で、脇の甘いダメ男に過ぎない。
でも、こんなにたくさんの者たちに慕われ、あんな熱弁を揮える人だったとは・・・。
改めて退助の横顔をよぉく見てみる。
「あら、いい男・・・。」
・・・・じゃなくって!!
そんな大人物だったの?私はそんな夫を尻に敷いていた訳?
(展子本人は、夫を尻に敷いた自覚は無い。しかし象二郎がやたら囃し立てるので、そうだったかもしれない、と思い始めていた。)
その日を境に、自分の夫がどんどん遠くに行ってしまう気がする。
只でさえ東京の別宅の鈴に待望の嫡男が生まれ、自分が隅に追いやられた気がした展子。寂しさが募り、退助に甘える傾向が強くなる。
あの日の演説会以降、立志社のメンバーが板垣邸に入り浸った。
次の展開をどうするか?民権運動の理論構築担当の植木枝盛が、「先生(退助の事)は農民の感情に訴え過ぎです。彼らには、運動に参加したくともできない経済的な制約があります。
そんな事は先生自身が一番よくご存じな筈。何故、呼びかけの相手が彼らなのですか? 今は士族に的を絞って訴えかけるべきです。」
「それはいけん。日本の根幹は庶民に有り。特に水吞み百姓(小作農民)が自立の意思を持たねばこの国は諸外国に太刀打ちできん。生れながらに独立精神を叩きこまれた士族どもは、黙っていてもついてくる。
しかし抑圧されるのが当たり前の平民は違う。彼らを目覚めさせなければ、この運動の意味はない。
急がば廻れ!我らの使命を忘れるな!それからワシを先生と呼ぶな。そう呼ばれると、どうもケツの穴がムズムズいけん。」
象二郎が口を挟む。「退助先生様はな、自由と平等にうるさい。特に女子との交際に関してはな。」
「象二郎!煩いぞ!!またある事ない事広めよって!」
「女子?」林有造が喰いつく。
「知らんのか?退助先生様は特に女子には煩い。先だっても・・・」
すかさずヘッドロックをかまし、口封じを図る退助。
「象二郎!この便所 興梠野郎!口を慎まないとお前の恥ずかしい秘密も暴露するぞ!」
と、そこにお茶を運んできた展子が、「あら、先だっても?象二郎様、女子に弱いうちの旦那様はどうされたのですか?」
目が怖い。
「何もしちょらせん!」
「あなたに聞いておりません。象二郎様、如何?」
「これは展子殿。退助先生は人を身分で判断せません。 分け隔てなく気軽に声をかけるのが退ちゃんの良い所。そう云う事です。」
「そうですか。分け隔てなく、きれいな娘にはお優しいのですね。」
「そうは申しておりません。綺麗とは言えない娘にも優しくしております。」
「象二郎!フォローになっておらぬぞ!人の女房の前でワシを追い込んでどうする?」
平左衛門も有造も枝盛も笑いを押し殺し、小刻みに肩を震わせていた。
「私も旦那様のお子が欲しい。」突然、人目も憚らず展子の口からそんな言葉が飛び出す。
実は退助も展子のそんな心境の変化を感じつつはあった。でも実際に素直な展子を初めて見、自分を拒絶していた態度を軟化させる程、展子を追い詰めていたのかと、心の中で「済まない。」と思った。そっと優しく展子の肩を抱き寄せ、抱きしめたいとの衝動に駆られた。
「展子」
「何です?その厭らしい顔は!」
「何です?って、ソチが子が欲しいと・・・」
「何でそんな節操のない顔ができるのです?」
「節操のない顔で悪かったな。寂しい思いをさせて悪かったと思おておるから慰めてやろうとしたのに。」
「旦那様はデリカシーが無さ過ぎます。女にはムードが必要でございますよ。こんなたくさんの殿方の見ている前で何ですか!女心の分からぬお人!」
「何じゃ、そのデリカシーとか、ムードとかは?」
「大体旦那様は、ワンパターンなのでございます。いつもポポポポと口を窄めて迫って来るのは、如何なものかと思います。」
「ではどうしろと?手を変え、品を変え、趣向を凝らして迫れと申すか?」
「それもどうかと思いますが・・・。兎に角、何か厭らしいのです。私がそう思うくらいなのですから、東京のお鈴様もそう思っていらっしゃるのではないですか?」
(ギク!)と狼狽えながら、
「バカな!何ちゅうことを!」覚えのある退助の目は宙を彷徨う。
「先日の堂々とした演説をした人物と同一とは思えませぬ。もしかして、先日のお人は影武者でございますか?」
「何を申す!そんな訳あるまい!あの時の良い男も、今ここに居る良い男もどっちもこのワシじゃ!ワシの事を惚れ直したのなら、黙ってついてこい。」(どさくさに紛れて自分から『良い男?』って云う?)
見つめ合うふたり。と、ふいにヒョットコに似せたひょうきん顔で「ポポポポ」と顔を近づける退助。
ピシャ!と頬を叩く音が響く。
唖然とするギャラリーたち。
板垣家の闇を垣間見てしまった事を心から後悔するのだった。
気まずい顔の退助。フッ!退ちゃん可哀そうに。また地雷を踏んだな。付き合いの長い象二郎はそう思った。
つづく




