第29話「四民平等」
退助はお菊の店があったに日本橋に急ぐ。
店の名は土佐を連想させる「料亭むろと」と改名されていたが、その佇まいは以前のままだった。
暖簾をくぐると、以前に増して活気を感じる。
「いらっしゃいませ~!」奥から女中の甲高い声が退助を迎える。
「女将は居るか?退助が来たと伝えよ。」
「退助様?ああ、板垣様でございますね。女将から聞き及んでございます。どうぞこちらへ。」
政府高官となった退助は、護衛の供を5人引き連れ奥の座敷へ案内された。
間もなく女将の菊が入室すると供は隣の別室にて待機。
「お久しゅうございます。上野戦争のおり、留守居の平助に退助坊ちゃまと思われる方がお越しになったと報告を受けております。お元気そうで安心いたしました。
また無事の御帰還・御戦勝、おめでとうございます。とても嬉しく思います。」
「ふむ。ソチも元気そうで何よりじゃ。この店も繁盛しておるようじゃの。」
「東京に改名されお上の御尽力により治安も回復しましたので、この通り帰り再び商いを始めることができました。有難い事でございます。」
「そうか、それはめでたい。しかし、これからワシは何かと断行しなければならない改革が目白押し故、そう度々来られないかもしれぬ。だが都合の許す限り通うつもりでおる。そう心得てくれ。」
「ありがとうございます。退助坊ちゃまは大そうご出世されましたので、私などには到底手の届かぬお方。そう申して頂けるだけで、私は嬉しゅう思います。」
「出世したとはいえ、まだまだ道半ば。そもそもワシにとって出世は目的に非ず。ワシの志は知っておろう。 志即ち、ソチとの約束じゃ。ソチは手の届かぬと云うたが、初めから身分の差は会ったではないか。
ワシは必ずソチと添い遂げて見せると申したはず。身分の差を無くし、添いたいもの同士、自由に添える世の中にしてみせると。
その一心でワシは戦ってきた。そして今、ようやくこの国の改革の第一線に立てた。
これからのワシを信じよ。必ず誓いを達成させて見せるから。」
「退助様のそのお言葉と、実直な行いはこの菊にも痛い程分かります。心より感謝いたします。
でも、私には夫が居ります。退助坊ちゃまにはお二人も奥様が居られます。お気持ちは嬉しいのですが、それは無理と申すもの。そのお気持ちだけ受け取らせていただきます。」
「やはり象二郎から二人目の妻の事を聞き及んでおるか。あ奴は本当に油断も隙も、抜け目も無い奴じゃ。」
「大切なご親友をそう悪しざまに申してはいけませぬ。
後藤様は退助坊ちゃまをまるで我が事のようにお話になります。それはご存知ではありませぬか。」
「分かっておる。ワシと象二郎の仲じゃ、捨て置け。
それから今更ながらじゃが、坊ちゃまは止めろ。ワシは幼い頃よりソチの事を真剣に想うておった。
ワシにとってお菊は最初の女子ぞ。坊ちゃまとしてではなく、一人前の男として見て欲しい。
その気持ちは今も変わらぬ。」
「そうは申されても、奥様達は如何なさいます?そちらは捨て置くわけにはいきませぬ。」
「それよ、ワシの頭痛の種は妻を二人も持ってしまった事。如何したらよい?」
「知りませぬ。ご自分でお考えあそばせ。何という身勝手なお言葉!奥様達に知れたら、大変でございましょう?少しは身をお慎みなさいませ。」
退助は暫く考えた。そして「最初にソチと添うて居ったらそんな考えには及ばぬ。
それが不可能だったから今のワシが居るのじゃ。今でもワシはソチの幸せを心から願うておる。勿論ソチの不幸など考えたくはない。
しかし、もしソチの旦那にもしもの事があったら、ワシはソチを全力で守る。そのためにも平等な世の中は必要なんじゃ。」
菊の目がウルっときた。
「退助坊ちゃま、菊は幸せ者でございます。でも私は退助坊ちゃまの3番目の妻にも4番目の妻にも成りとうございません。
私は今の夫の一番の妻でございます。確か最初の奥様がお里様、2番目の奥様が展子様、そして3番目の奥様がお鈴様でございましたね。全くお盛んな事。退助坊ちゃまの馬鹿。」
そう云うと退助の耳元に近づき小声でささやくように、「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿バカバカバカバカパカパカパカパカ・・・」と可愛らしく云った。
退助はゲンコツでこつんと叩く仕草をし、「パカで悪かったな。それからワシの事、坊ちゃまと呼ぶな。」
お菊のそばにいると、いつも昔に帰り、心が安らぐ。
しかし、そんな退助は、民衆の貧困や不条理の痛みは分かるのに、自分の妻たちの悲しみや痛みには鈍い。パカな男である。退助は生涯、妻たちの地雷に怯える夫であった。
武人退助
1869年(明治2)6月旧幕府のフランス人将校であったアントン、旧伝習隊 沼間守一らを土佐に招く。
それは御親兵(後の近衛師団)創設への布石である。
1870年(明治3)12月16日高知藩大参事となる。国民皆兵断行のため、1月7日上京。「人民平均の理」布告のため太政官に具申、2月13日土佐に帰り、山内豊範の名を以って布告。四民平等にて国防の任に帰する宣言を発した。
『夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにして、特に霊妙の天性を具備し、智識技能を兼有し、所謂萬物の霊と稱するは、固より士農工商の隔もなく、貴賤上下の階級に由るにあらざる也。然るに文武の業は自ら士の常職となりて、平生は廟堂に坐して政權を持し、一旦緩急あれば兵を執り亂を撥する等、獨士族の責のみに委し、国家の興亡安危に至りては平民 曾て與かり知らず、坐視傍觀の勢となり行きしは、全く中古封建制度の弊にして、貴重靈物の責を私し、賤民をして愈賤劣ならしむる所以也。
(中略)
封建の舊を變し、郡縣の政體を正さんとする際に當りて、當藩(土佐藩)今や大改革の令を發するは、固より朝旨を遵奉し、王政(朝廷=新政府)の一端を掲起せんと欲すれば也。
唯今日宇内の形勢を審にし、朝廷大變革、開明日新の事情に通し、人間貴重の責をして士族に私し、平民をして賤陋に歸せしむるの大弊を一洗し、人民自己の貴重なるを自知し、各互に協心戮力、富強の道を助けしむるの大改革にして、畢竟民の富強は卽ち政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱、所謂民ありて然る後ち政府立ち、政府立ちて然る後ち民其生を遂ぐるを要するのみ。』
明治三年庚午十一月—『人民平均の理』
(訳)
戊辰戦争の反省にて領民(庶民)の協力を得られず武士のみの戦いにあっては、列強の脅威を撥ね退けられず、 封建制度の弊害は国家と庶民の貧困を生み、侵略の脅威から脱せられない。
四民が等しく力を合わせ、国を富ませ、民を富ませ、外国の干渉と不平等条約を跳ね返す国家を造るためここに「人民平均の理」を布告する。
退助の意を色濃く反映させた宣言であった。
これを皮切りに、退助の怒涛の改革が始まった。
つづく