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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~【完全連載版】  作者: 米森充


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第26回「凱旋」

 

 退助の戊辰戦争は、その後に起きる箱館戦争を残し終わった。


 1868年11月17日 御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督ながいながすぎるてきとうによんで 板垣退助は新政府より1868年11月17日総督 板垣退助、朝廷より凱旋の令を拝す。これに伴い凱旋の全軍に諭戒した。



 「不肖、退助、()されて一軍の將となり、當初、剣をたづさへて諸君と共に故郷を出づるの時、生きて再び還る念慮はすこしも無かりし。

 (しかばね)を馬革につつみ、骨を原野にさらすはもとより覺悟の上の事なり。

 想はせり今日征討の功をへ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸せぞや。

 ひとつ悲みに堪へざるは、吾等、戰友同志は露にし、雨にまかするのあまりつひに一死大節に殉じ、永く英魂を此土ここに留むるに至る。

 のあたり賊徒平定の快を見て之を禁闕きんけつに復奏する事能あたはざるの一事なり。

 而して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊あてなき躊躇さまよひこころに堪へざるものあり。

 それを何事ぞや諸君らの中に刻を競ふて南に歸さんとこひねがふは。

 そもそも此の殉國諸士の墓標おくつきに対し心に恥づ處なき

 今時、凱旋奏功の時に臨み、敢て惰心を起して王師にしきのみはたを汚す者あらば、

たちまちにして軍法を以て處す。

然れば全軍謹んで之を戒めよ。」



  板垣退助

 


 退助が凱旋にあたり残した諭戒は、戦死し、現地に残す英霊たちへの労りと気遣い、そして生き残った兵士たちの自分本位の望郷のはやる気持ちを諫め、勝軍の狼藉を厳しく咎めるものだった。


 薩長土連合の官軍兵士の中には、会津藩がにわか仕立てに結成した会津女性隊を捕獲後に性的暴行したり、市中への放火、略奪を犯す者など鬼畜にも劣る不心得者が多発した。現在に至る会津人の怨讐もその時の官軍の行状に起因したものもあった。(ただし、放火、略奪は会津側もやっているが。)


 「年貢を半分にしてやる。」と噓を言い、農民を徴兵するなど、略奪、謀略の限りを尽くしたいくさ。あまりに人を愚弄した支配者たち。とうとう農民は怒りを爆発させる。官軍の勝利が見えた時、反抗の時は来た。 それが「ヤーヤー一揆」である。 一揆が始まったのが11月16日。


 その翌日、退助たちは朝廷から凱旋の令を拝する。

引き上げが決まった退助は、わが身の凱旋ではなく、何とか被害を受けた農民の窮状を救う手立てはないかと考えた。


 会津戦争は、退助率いる迅衝隊じんしょうたい・断金隊等の超人的活躍で予想より大幅な短期終結をみた。当然準備した兵糧も大量に余った。これを持ち帰るのは難儀であり無駄な負担となる。


 そこで迅衝隊じんしょうたい左半大隊司令 片岡健吉を呼び出す。


 片岡司令に対し「ワシらの戦は終わった。この地を引き払う前に、多大な迷惑をかけた会津領民に対し、残った兵糧を分け与えようと思う。これは相談ではない。ワシの独断による命令である。

 ゆえに、兵糧浪費の責任とそれに伴う罪は、総てワシが負う。ただし、与えた領民たちには領外への他言は無用、内密にするよう、含み置くように。」

何故なにゆえ内密に?人心掌握の良き宣伝となりましょうに。」

「人気取りの評判なんぞ要らん。今まで歩んできた他の戦で、ほどこしは行っておらん。ワシたちの責務は、今できる最善を尽くすのみ。

 だが今回だけの例外的援助措置は、他の国の被災した者たちにとって全くの不公平であろう?これを聞いた二本松や宇都宮の民は何と思うか?」

「は!分かり申した。廻りに触れ回る事の無きよう、よく申し伝えます。」

 合点がいった片岡司令は、退助の配慮に感心し、復命した。


 こうして凱旋に必要な最低限の兵糧を残し、会津領内の戦被害に遭った地区の民に対し、立場の上下に関わらず、家族の人数分が公平に行き渡るよう、直ちに庄屋(村長)を通じて配り終えた。


 退助の独断で行ったその行為は、会津平定の功とその後のいくさ始末の手際よさが評価され、新政府により不問に付された。


 ただ官軍日誌にも、政府の公式記録にも一切残されていない。当事者たちの記憶の中にだけ、埋もれた事実であった。

 全ての被災民に余剰兵糧が平等に行き渡った頃合いを見計らい、退助は検分のため、いくつかの民家を非公式に視察する。


 そこで退助が見たもの。


 ある農家の前を通過したとき、丁度その家では夕餉の支度と配膳を終えたところだった。

粗末な家の開け放たれた縁側の奥で、7~8歳くらいであろうか?幼き娘子が目を丸くして言う。

「わぁ~!!ぜぇ~んぶお米の飯だ!!これ、本当に喰ってええんか?」

「ああ、有難き官軍様からの授かりもの。心して喰え。おかわりもできるぞ。」

「えぇ?本当ヶ!!夢の様じゃ!夢の様じゃ!!夢の様じゃ!!!正月でもそんなに喰えたこと無いのに。」


「うめぇ~!!」


 稼業としてコメ作りをしているのに、小作人の子供たちはお腹いっぱいコメのご飯など食べた事は無い。


 いつもあわひえのみ。そんな粗末な食事でさえ、お腹いっぱい食べるなど夢のまた夢なのだ。

 一度だけでも、粟と稗だけの飯を食べてみると良い。不味くて食べられたものではないから。


 退助は思った。「日本全国に蔓延する貧困の闇と不平等。何としてもワシが変えねば。」と。

 その想いが後の退助に、自由民権の行動の原動力をもたらす。



 12月12日、一揆の行方を見届ける前に御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督またまたながいかたがきすきによんで 板垣退助が、東山道総督府先鋒参謀 伊地知正治と共に東京に凱旋した。


 退助は一連の功績、特に会津攻防戦での采配は「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ、恩賞として賞典碌一千石を賜る。 

 1869年(明治元)1月 土佐藩陸軍総督に任命され、家老格に出世、家禄600石に加増された。


 ただし退助本人は出世や俸禄の加増には興味を示さず、江戸の妻、鈴、土佐の妻 展子ひろこに思いを馳せ、凱旋再会後、妻たちに何と言葉を掛けようか?そればかり考えていた。

 凱旋の移動中は退助にとって(妻たちとの対峙前の)嵐の前の休息となる。特に展子ひろこの出迎えの反応がと思う退助であった。


 1868年9月3日江戸から東京に改称。その直後の凱旋だった。到着後退助は、新妻 鈴の元に会いに行く。

鈴は相変わらず、チャキチャキの江戸っ子だった。退助を前に空色の笑顔で迎え、ポンポンと思った事を言う。


 開口一番



「あれぇ?退助様少しお痩せになりましたぁ?でもその方が水も滴る良い男と云うもの。鈴は自慢の夫を持てて幸せ者でございます。でもその服装・・・、取って付けた借り物みたい。ちょっとダサいかも?」

「何?新調した最新式の洋装で決めて来たのに、何と失礼な女子おなごぞ!成敗してくれようか?」

 退助の目は笑い、おどけた口調で言った。

 そして「ご無事のお帰り、おめでとうございます、の言葉とかは無いのか?」

「ご無事のお帰り、おめでとうございます。」と、オウム返しにウインクしながら、お茶目な鈴が言う。

「これだから江戸の女子は・・・。はぁ(*´Д`)」

それを聞いた鈴は「これだから土佐の男は・・・。はぁ(*´Д`)」と返す。

更に「今は江戸とは申しません。【東京】と呼び名は変わっておりまする。」何とも憎々し気に口を尖らし、追い打ちをかける。 ムスッ!とする退助。


 数日後、千住に手ごろな空き家を見つけ新婚家庭の居を定めた。

 さて・・・、今度は難解の土佐の本妻「展子ひろこ」の元に行かねばならぬ。

 何の落ち度もない展子に対し、何と云おう。

 このとき程、幾千のいくさの敵より妻を怖く感じた事は無い。







         つづく


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