第20話「五箇条の御誓文」
1868年(慶応4)3月29日甲州勝沼の戦いにて近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に勝利した退助は、多くの領民に歓呼を以って迎えられた。
それまで天領として重い年貢の取り立てや代官の圧政に苦しめられ、当然幕府軍(甲陽鎮撫隊)を良く思う筈は無い。
戦いが始まって僅か一刻(2時間)で勝敗が決した。
圧倒的で鮮やかな戦いを指揮したのが、板垣信方の子孫であると知り「さすが武田二十四将板垣駿河守の名に恥じない鮮やかな戦いぶり!武田家遺臣が帰ってきた!!」と沸き上がった。
更に領内の旧武田遺臣の子孫で様々な階層に散っていた浪人や百姓たちが板垣の官軍への協力を自ら進んで志願した。
これらの志願者を結集させ、その後の戦いで活躍する『断金隊』や『護国隊』を結成させる。
このように退助の板垣復姓は効果絶大で、甲州勝沼の戦いの後、江戸に進軍する過程にて、八王子を通過する際も同様の歓迎を受けた。
八王子という地は武田の遺臣たちが存在し、『八王子千人同心』を結成、板垣退助率いる迅衝隊に協力する事となる。
八王子はいわば、第二の旧武田家ホームグラウンドだったのだ。
脱走兵が相次ぎ、どこからも加勢を得られないまま敗北を招いた近藤の甲陽鎮撫隊とは対照的に、心理戦でも大勝利を収めた退助だった。
江城攻撃中止始末
退助の大勝利と凱旋の知らせを聞き西郷隆盛はわざわざ手紙を送ってきている。
「先の戦、大手柄でありました由を受け賜りまして、嬉しく思い、官軍の勇気も余程増しまして、大慶に存じます。 恐惶謹言。慶応4年3月12日 西郷吉之助(隆盛)乾 退助様」
との内容で、今で云う祝電をくれた。
しかしその後日の1868年(慶応4)4月4日、江戸総攻撃最終通告の下準備として、山岡鉄舟、西郷隆盛の交渉が成功、翌5日新政府側代表西郷隆盛と旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟が会談し、5月3日の江戸城無血開城を決定、江戸総攻撃が回避された。
知らせを聞いた退助は、総攻撃予定だった日の前日である5月2日、西郷の元に訪れる。
強硬論者である退助は西郷に、「何を以て明日の攻撃を止めた乎!」
と、抗議した。
実は江戸城無血開城にあたり、西郷達官軍側は旧幕府側に対し、7ヵ条の条件を突き付けている。即ち、
一、徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける事。
二、江戸城を明け渡す事。
三、軍艦を総て引き渡す事。
四、武器を総て引き渡す事。
五、城内の家臣は向島に移って謹慎する事。
六、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰する事。
七、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する事
しかしその約束は殆ど反故にされた。
旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟の回答は
一、徳川慶喜は水戸藩(元々の出身藩)にて謹慎。
二、慶喜を補佐した諸侯は寛容にして、命に関わる処分者を出さない。
三、武器・軍艦についてはとりまとめ、寛典の処分が下された後に差し渡す。
四、城内居住の家臣は、城外に移り謹慎。
五、江戸城を明け渡しの手続き終了後、即刻田安家へ返却を願う。
六、士民暴発鎮定は可能な限り努力する。
事実上の骨抜き回答である。
それでも譲歩し総攻撃を中止したのは、イギリス公使、パークスの意向が強く働いたとの説がある。
幕府に泣きつかれたパークスは「恭順する者を極刑に処すは、国際法上許されぬ。速やかに総攻撃の命令を取り下げよ。」
と執り成してきたのだ。
江戸を火の海にすると諸外国の干渉が強まり、独立が危ぶまれる恐れが懸念される。そう考えた西郷はやむを得ず自身の強硬路線を変更する事にした。
そのような事情から、西郷は退助を説得する。察した退助は
「どうも之れに対しては仕方がない。なる程仕方がない、それなら異存をいうこともない、それでは明日の攻撃は止めましょう。」
と言ってあっさり帰った。
五箇条の御誓文
退助にとっても重要な思惑があった。そのきっかけは、1868年(明治元)4月6日明治天皇が天地神明に誓約する形式にのっとり、公卿、諸侯に新政府の基本方針を天下に発した。
これは同年1月福井藩出身参与 由利公正が「議事之体大意 五箇条」を起案、土佐藩の制度取調参与福岡孝弟が修正、長州藩出身参与木戸孝允が加筆、議定兼副総裁岩倉具視に提出されたものであった。
読者の皆さんはまだ記憶しておられるだろうか?福岡 孝弟。
彼こそは退助がまだ子供の砌、喧嘩をした宿敵であった事を。(第3話参照)
彼はその直後から勉学に励み、吉田東洋の私塾、小林塾に後藤象二郎、岩崎弥太郎らと共に学んだ。
退助との交わりは薄く、退助が要職に着くころから次第に接触する機会が増えた間柄だった。
その福岡が作った御誓文。その後内容は変更につぐ変更となり変遷を重ねたが、基本理念は変わらない。
退助は昔、喧嘩仲間だったとはいえ、同郷の知り合いが造った条文に偉く感動を覚えた。
あの孝弟が造ったのだ。あの喧嘩の遺恨など、とっくに無い。ただただ嬉しく思う退助だった。
五箇条の御誓文の発布を受けて、同年6月11日には新政府の政治体制を定めた『政体書』を公布する。
冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす。」とし、その後に御誓文の五箇条全文を引用した。
政体書はアメリカの法律体系の影響を受け、三権分立、官職の互選、藩代表議会の設置や、地方諸藩に対し、「御誓文を体すべし」とし、「御誓文の趣旨に沿って古い因習にとらわれず、人材登用などの改革を推進すべし。」とした。
その五箇条の御誓文の全文。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
一、官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
その意味は
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。(府藩県にわたり人々の意見を広く集め、何処でも会議を興すべし。)
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
(身分に関わらず心をひとつにして経済を振興すべし。)
一、官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって庶民の社会生活を充足させよ。)
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
(打破すべき封建性・閉鎖性を破り普遍的な宇宙の摂理である人の道に基づくべし。)
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
(智識を世界万国に取り、国を治める基礎を集めて大成すべし。)
退助はその条文を初めて読んだ時、見る見るうちに希望が湧き、思わず天を仰いだ。
「私の目指した道は間違っていなかった。」
世間の誰しもが、自分の意見を言える。
世間の誰しもが、自分の出目に関わらず、努力次第で夢を叶える事を約束される。
世間の誰しもが、暗く閉鎖的で理不尽だった因習を積極的に破り、新しい制度改革に全力で取り組める。
世間の誰しもが、新しい国造りに励むことができる。
自分たちは蚊帳の外ではない、主役となって活躍できる存在なのだ。
五箇条の御誓文という国の方針は国民に対し、「励め!」と言っている。
もちろんこのご誓文の文面を読み取ると、民主憲法下の現在の内容と比べ、まだまだ不完全と云わざるを得ない。
しかし徳川260年の間に培ってきた厳しい身分制度と因習から、全く新しい発想での民主的成文法作成には限界がある。
しかも明治維新とは先のフランス市民革命や後のロシア革命と決定的とは違う性質のものである。
維新とは革命というより、下層武士階級主体の政権を担っていた幕府に対するクーデターとしての性格を帯びている。
単なる一般的なクーデターと違うのは、その後の政策が大規模な革命的政治刷新にあったから。
明治維新の限界は、武力維新を決行した主体が下層階級とは云え、武士という支配階層を形成した
一員であった事。
そこに市民階級や平民層は参加していないのだ。
だから彼ら多くの民間層の意思を反映した政権とは言えず、その意思決定の過程と実行には自ずと限界が生じる。
それ故、退助の自由と平等と人権に対する戦いは、戊辰戦争が終結した後、維新が実現しても、まだ途上にあると云えた。
それでもしかし、目指すゴールが見えた。今まで漠然としていた目標が確信へと変わった。
「あくまで江戸総攻撃を!!」との主張をあっさり取り下げたのは、無益な破壊を避け、一刻も早く、見えてきた理想の国造りに取りかかりたいとの強い思いが湧いてきたからであった。
「お菊・・・。ソチとの約束を果たせる日は近い。
ソチが他人の嫁となった今となってはもう遅いが、身分の差に泣かされない、好いたもの同士が自由に結ばれる世をもうすぐ造れる。
そんな新しい社会制度をワシは必ず造って見せる。お菊、見ておれ!」
お菊の住む江戸はもう目前に迫っている。
つづく




