第2話「お菊お姉ねえ」
退助は5人兄弟の長男であり、嫡男として大切に育てられた。
しかし退助にはかなわぬ希望があった。
それは姉が欲しいと云う事。
理想の姉。
優しくて、きれいで、自分を可愛がってくれる人。
母に5人目の妊娠が分かった時、退助は
「今度生まれてくる赤ちゃんは女子がいい。母上、是非女の子を生んでくだされ。」
とせがむのだった。
母はどうして退助が女の赤ちゃんを望むのか分からない。
でも、きっと「女子の赤ちゃんは可愛いから」と云うのが理由だろうと単純に思った。
何故なら退助にはすでに弟も妹もいるから。
きっと次の子も可愛い女の子だと良いな~とでも考えているのだろう。
だが退助は全く別なことを思っていた。
ただし自分の望みの事なのに、ちゃんとものの道理を理解していない。
彼が欲しいのは妹ではなく、あくまでも『綺麗で優しい姉』なのだ。
妹たちはビービー泣くし、泣くと不細工だし我儘だし何より自分が甘えられない。
そんな妹などもう真っ平御免である。
しかし退助はどこまでも抜けていた。
自分より後に生まれてくる姉など存在する訳がない。
そんな簡単な理屈に気がついたのは、末の妹が生まれた後の事だった。
「ア~!ア~!!馬鹿だ、馬鹿だ、何てボクは馬鹿なんだ!!!」
誰も居ない部屋で地団駄を踏む退助を見かけ、お菊はいぶかしい物でも見るように退助の様子を伺った。
そしてお菊は好奇心に負け退助に地団駄を踏みながら、ウ~と唸り、体をくねくねする訳を尋ねた。
菊の存在に気づき、退助は固まる。
自分が恥ずかしい真似をしたときに限って必ずお菊に見られる。
(畜生、畜生、畜生!!)退助の気持ちが顔と態度に現れ、お菊はその様を見て「プッ!」と吹き出す。
その反応に退助は益々顔を赤くする。
お菊は容赦ない。
「ねえ、何が不満なの?どうして地団駄を踏んで悔しがっているの?」
「教えない!!」
「ねぇ、ねぇ、どうして?」
「教えない!!」
「ねぇ、ねぇ、ねぇ・・・」
潤んだ目で退助を見つめ、甘えた声で答えをせがんだ。
「絶対~ぃに、教えない!!」
少々憎たらしい顔でお菊を睨みながら拒絶する。
それでも怯むことなく見つめるお菊。
1分も経っただろうか・・・。
お菊にジッと見つめられ続け、ついに根負けした退助がポツリと呟く。
「お姉ちゃんが欲しかった。」
「え?」
「お姉ちゃんが欲しかったんだよ!!」
やけくそになって答えた。
「妹なんかじゃなく、お姉ちゃんが欲しかった!!」
お菊はようやく理解した。そしてケタケタと大笑いした。
腹を抱えて笑うのを見て
「笑うな!」どうしたら良いか分からぬ風で、力なく言った。
「あら、ごめんなさい、私の大切な退助坊ちゃま。坊ちゃまを傷つけるつもりはなかったのよ。」
「坊ちゃまと言うな!!」
「ごめんなさい、退助坊ちゃま」
「止めろ、止めろ、止めろ!!」
恥ずかしさのあまりふいにお菊に抱き着き、顔を胸に埋める退助。
お菊は驚いたが、その時総てを理解した。退助坊ちゃまは私の事を姉だと思いたいのだ。 私に姉の代わりになって欲しいと云いたいのだろう。急に退助の事を愛おしく思い、しがみつく退助の背中を優しくポンポンと叩くお菊であった。
その翌日からお菊は退助を気に留め、実の弟のように何かと甲斐甲斐しく世話を焼くようになった。
退助は吹っ切れたのか、生まれたての赤ちゃんを大そう可愛がるようになる。
母はその辺の事情がよくつかめなかったが、どうやらお菊が退助に良い影響を与えているのだろうと察した。
母の心配は、退助が勉強嫌いだと云う事。
「腕白でも良い、逞しく育って欲しい」なんて昔のCMのようなフレーズは乾家300石の家柄には通用しない。
太平の世が永く続き、武勇だけでは家の存続は不可能なのだ。
いくら退助に手習いを勧めても気持ちが入らない。困り果てた母は父に相談の上、お菊と一緒の手習いを提案した。
父は身分の隔たりを超えた男女一緒の手習いに理解を示し、お菊の父太右衛門も仰天しながらもこの破天荒な提案を喜んでくれた。
かくして主家の嫡男と元武士とは言え、町人の身分の雇人であり乍らその家の娘が机を同じくする状況が誕生した。
明らかに退助はお菊を慕っている。
あれだけ勉強嫌いだった退助が、みるみる読み書きそろばんに興味を持ち始めた。
つづく




