第19話「板垣 退助 参上」
1868年(慶応4)1月27日(旧暦1月3日)鳥羽伏見の戦いが始まり、3日後の30日新政府軍側に錦の御旗が掲げられると、あくまでこの戦は徳川と薩摩の私闘であるとの認識で朝廷や諸外国に説明していた徳川慶喜の考えるスタンスが崩れた。
ここにきて総大将の慶喜は戦意を失い、多数の兵を残しながら大阪城から逃亡、江戸にもどってしまう。
やがて江戸を目指し進軍してくるであろう新政府軍を、どこかで食い止めなければならない。
朝廷に恭順したい慶喜の意を汲み、勝海舟が急進的徹底抗戦派の新選組組長近藤勇に対し、出撃命令を下す。
近藤が江戸にいては、何かと邪魔と考えた勝は、近藤に幕府直轄領である甲府を新政府に先んじて掌握し、甲府城を拠点に迎え撃てとの沙汰を出す。
近藤を遠ざける目的と、時間稼ぎのためでもあった。
自分もやっと城持ち大名になれると喜び勇んだ近藤。
新選組70と浅草弾左衛門率いる被差別民200にて混成部隊を結成、途中日野にて春日隊40を加え、甲陽鎮撫隊と名を改めた。
大砲6門、ミニエー銃など洋式装備で身を固め3月24日江戸を出陣、甲州街道を進軍する。
一方退助率いる迅衝隊は京都で先の鳥羽伏見の戦いに参加した土佐藩士と合流、部隊を再編成した。
江戸留学時代まで軍事知識を学んだ退助は、軍事の第一人者として大隊司令兼総督となり、更に朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられる。
そして3月9日(旧暦2月14日)東山道を進軍する。
この日は乾退助の12代前の先祖板垣 信方の320回忌にあたる。
板垣信方は武田信玄家臣・二十四将のひとりであり、四天王のひとりでもある、甲斐の国でひと際人気の高い武将であった。
退助は命日を進軍中の美濃で武運長久を祈念する。
その際、岩倉具視から「甲斐源氏武田氏の家臣板垣氏の末裔である事をアピールし、甲斐民衆の支持を得よ。」との助言から、板垣氏に姓を復した事を高らかに宣言した。
乾退助改め、『板垣 退助』の誕生である。
近藤勇の甲陽鎮撫隊が出陣した3月24日同日、板垣の東山道先鋒総督府軍は、下諏訪で二手に分かれる。
本隊を伊地知正治が率い中山道を進み、板垣の迅衝隊は別動隊として、鳥取藩兵と共に高島藩一個小隊を案内役に甲州街道を進撃、幕府天領の甲府を目指した。
この時点で近藤率いる旧幕府軍と退助率いる迅衝隊は大きく明暗を分けた。
退助は自軍の隊規を厳しくし、飲酒は厳禁、隠れ飲む者は斬首された。
酒豪の多い土佐藩兵。元々郷士・下士とは言え武士階級出身者が多数を占める部隊であり、酒豪と云ってもそこは武士としての躾が身に沁みている集団。
規律を忠実に守り、悪天候の中、足を取られながら駆け足で必死の行軍を貫徹した。
彼らは来るべき戦闘に備え、軍事教練を重ねた精鋭部隊だった。
近藤の一方甲陽鎮撫隊。
代々被差別民として虐げられてきた者たちを「武士にしてやる」と甘い言葉で募り、俄か仕立てで結成した集団である。
近代兵器に不慣れで士気も高くない。元々 志など無く、社会に対する不満の塊りだった。
鬼の戒律を誇った新選組組長近藤でも、ご機嫌取りをしなければついてこぬほどの体たらくぶりである。
幕府から支給された軍資金5000両で大名行列さながらに、夜ごと豪遊宴会を開き不満を宥めるしかない。
でもちょっと待って欲しい。被差別民とは何か?
徳川幕府により形成された身分差別、士農工商の『士』以下の身分の農工商以下。要するに『平民』より更に下に置かれた身分である。
能力や人格、性格や性別、嗜好、思想に関わらず、生まれながらに全ての階層から謂われのない差別を受けるよう定められているのだ。
職業選択の自由も、婚姻の自由も、転出の自由も無い。
どんな夢を持っていようと、
どれだけ実力を持っていようと、
どれだけ強い意志を持っていようと、
どれだけ強い愛を持っていようと、
どれだけ涙を流そうと、
どれだけ大地に向かって叫ぼうと、
総て砕かれ、抹殺される階層なのだ。
もしあなたが被差別民だったなら・・・。想像してみて欲しい。
もし、あなたの好きな人が平民だったら結婚できない。
もし、あなたが医者や弁護士や人気声優やアイドルになりたくても、その入り口は初めから閉ざされているのだ。
もしあなたが北海道や沖縄やシアトルに住みたいと思っても、生まれた被差別部落から逃れられない。
いつも侮蔑され、貧しく、惨めで悲しく、悲惨な生活を強いられるのだ。
あなたならそれでも朗らかに、明るく、楽しく幸せに生きられますか?
近藤勇はそういう人たちをスカウトしたのです。
彼らは果たして江戸幕府を命がけで守ろうとするかしら?自分を差別地獄に落とした元凶の徳川幕府。それなのに何故近藤勇の誘いに乗ったのか?
その答えは、誘ったのが近藤勇だったから。
有無を言わさず、人を引き付け、ついて行かざるを得ないと思わせる『新選組局長 近藤勇』だったから。
彼は一対一の剣術には秀でていたが、悲しい事に、生まれは武士の身分に非ず。
それに近代的様式戦術の知識に暗かった。それが彼のこの戦に於ける悲劇である。
多分、剣術の実力は、退助より上であったろう。
しかし退助は土佐藩に於ける近代兵法の第一人者で、全ての士分を束ねる身分的立場にいた。
それに対し、近藤勇は、武士の生まれではないため、数多くの辛酸を舐めている。
今回も士分出身者は誰も加勢しようとしなかった。
武士は非士分出身の近藤に協力しようとは思わない。
今まさに自分の身分を保証する江戸幕府が倒されようとしているのにだ!
近藤は新選組に於いて、鉄壁の規律で隊員を縛ることができた。だから破竹の活躍が可能だった。
でも、今回はスカウトした相手が悪い。そんな事は百も承知の近藤でも、他についてくる者を募ることができなかったのだ。
その時点で勝敗は決まっていたはずだが、近藤は諦めていない。不撓不屈の人である。
「俺は必ず勝てる。」と信じていた。
退助も近藤も「甲府城を先に制した方が勝敗を決するから急げ!」と言われていた。
退助は移動距離で圧倒的不利である。しかも目的地が近づくにつれ、悪天候に悩まされる。
兵力差退助の迅衝隊400に対し、近藤の鎮撫隊310。
鎮撫隊の方が兵力差で不利に思えるが、鎮撫隊は甲府城兵力360と、土方歳三が援軍要請に向かった神奈川の旗本部隊『菜葉隊』の500を加えれば、圧倒的に迅衝隊を上回ることができるとの算段があった。
結果、不眠不休で駆け抜けた迅衝隊が一日早く到着。甲府城を掌握した。
それに対し鎮撫隊は悪天候の中、やむなく大砲6門のうち、4門を進軍途上打ち捨て、何とか駒を進めるが、それででも迅衝隊の後塵を拝してしまった。
しかも一日遅れたことで、目論んでいた甲府城兵の加入も、勿論初めから旗本の部隊である菜葉隊の援軍など得られる筈はない。
甲陽鎮撫隊は止む無く甲州街道と青梅街道の分岐点に布陣。
その時点で310名の兵が次々脱走、逃亡し121名まで兵力が減少した。
官軍(迅衝隊)の行進の笛の音を聴き、眩いばかりにさっそうとした凱旋を目の当たりにした領民たちは、武田の遺臣、板垣の姓を拝した退助を歓呼を以って歓迎した。
対して幕府天領の重税に喘ぎ、恨み深い旧幕府軍たる甲陽鎮撫隊。
一目で寄せ集めと分かる統率の無い集団。ここでも大きな差ができていた。
そして1868年(慶応4)3月29日山梨郡一町田中村・歌田にて戦闘が開始される。
寄せ集めの鎮撫隊は大砲を全く扱えず、砲弾を逆さに込めて砲撃。飛距離が伸びず、狙う正確な方角へ砲弾が飛ばなかった。
対して迅衝隊は十分な訓練の成果を如何なく発揮、戦況を圧倒、正確な砲撃で敵の大砲も破壊、壊滅させた。
更に退助の敷いた布陣。一糸乱れぬ命令に忠実な戦闘。
戦の天才、板垣退助の実力を面白い程見せつける戦となった。
味方の犠牲を最小限に、敵の犠牲を最大限に。
天才板垣退助の名を轟かす最初の戦いとなった。
無念の思いを抱え近藤は勝沼へ後退、抗戦を続けるが、兵の逃亡は続く。
とうとう鎮撫隊は八王子に退却後解散、江戸に敗走した。
町人の家に生まれ、誰よりも武士の身分に憧れ、誰よりも努力した男。もう少しで願いに手が届いたのに、掴み損ねた男、近藤勇。
上級武士の家に生まれながら、誰よりも自由と平等の実現を願い、自ら不平等を嫌い、理不尽を嫌い、その元凶、武士階級を無くするために戦う男、板垣 退助。
その勝敗は将の能力というより、時代が決めた。
時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者。
時の流れの中に変わらない夢を求める者。
明日は目指す権力の権化、もはや死体の江戸幕府が目前にある。
江戸城無血開城か、決戦か?
つづく