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第15話 お菊の想いと倒幕への道

 

 退助はお菊の強い勧めにより、再婚する意思を固めた。

 次に縁談の話が出た時には前向きに検討すると、国許の年老いた母に書にて告げる。


 母は歓喜し、すぐに次の縁談を用意すると伝えてきた。

 母は強引に離縁させたことを死ぬほど悔いていたのだった。

 いくらふたりの間にいつまでも子ができぬからと言って、お里が乾家の家風に合わないからと言って、離縁後退助が再婚を頑なに拒むとは考えていなかった。


 再会後退助は、お菊の料亭『土佐の里』に通う。


 多忙な女将の菊は、退助と逢えるのを一番の喜びと考え、大切にしていた。

 退助が菊に告げる。

「先日母からの返事が届いた。すぐにでも再婚相手を探すので、早く国許に戻ってこいとな。

 藩庁からの帰還命令が来次第多分見合いをすることになろう。

菊、本当にそれで良いのか?」

 菊が頷く。

「私も退助様の世継ぎを早く見とうございます。もし会う機会があればの話ですが。

 もしこのまま独身の退助様と頻回に会っていたら、誤解を招きます。夫の定七の前では退助様との関係を勘ぐられることなく堂々としていたいので、是非身を固めていて欲しく存じます。」

「そうか、では話を進めよう。本当に良いのだな?・・・な?・・な?」

「退助様、未練がましいですよ!いつまでも私は退助坊ちゃまの恋人や姉上の替わりではなく、お世話係でもいられませんのですからね。」

「別に未練から云うておるのではない。ワシは菊の気持ちを慮ってだなぁ・・・」

「ああ、そうですか!私のことはどうぞご心配なく。それより、見合い相手に軽蔑されたり、馬鹿にされないようにお気をつけなさいませ。」

「何故ワシが馬鹿にされる?」

「あなた様は、どうもここぞという場面で、信じられないような奇行に走る傾向があるからです。

私は幾度もそういう場面に遭遇しておりますので。」

「ワシが馬鹿や間抜けと申すか?」

「いいえ、そうではありません。そう云う状況に陥りやすい性格をしていると申し上げたいのです。」

「全然フォローになっておらぬな。馬鹿と呼ばれるのと大して変わらぬと思うぞ。」

「何をおっしゃる!!これから大成しようという立派な土佐男と思えぬ、何と云う細かさ!!そう云うのどうかと思いますよ。」


「・・・・。」


いつも菊に丸め込まれてしまう退助であった。




      倒幕




 ここからは退助にとって、怒涛の活躍が始まる。

その間、再婚という大きな出来事もあるが、この回は倒幕の動きに絞って時系列を追って紹介したい。

 再婚話の詳細は次回に持ち越す。



 1866年(慶応2)3月7日坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により薩長同盟が成立した。


 その年を境に倒幕・佐幕の面々の活動が活発化し日本史上稀に見る激動の流れが押し迫る。

 その目まぐるしい動きは実にややこしいが、どうかお付き合い願いたい。





 薩長同盟成立の頃、後藤象二郎は藩命により薩摩・長州に出張、その後上海を視察し海外貿易を研究し坂本龍馬と交わっていた。

 当然薩長同盟の仲介時期と重なり、佐幕派でありながら時節柄倒幕勢力結集の様を目の当たりにしている。


 7月18日,第2次長州征伐が始まる。

 しかし7月20日将軍家茂急死により幕府側は腰砕けになり、掃討は中止となった。

 その事が幕府の威信低下に拍車をかけ一気に倒幕の機運が増した。

 一方薩長同盟締結仲介の功により、中岡慎太郎、坂本龍馬の両名の脱藩の罪を免ぜられる。

 藩籍復帰した両名は、薩摩藩と土佐藩の武力討幕の密約を藩外の土佐勤王党残党に知らせた。


 その頃退助は11月5日騎兵修行の命を解かれる。

 12月に入り薩摩藩士吉月友実と会見、薩摩藩の動向を確認、1月には水戸藩急進派浪士を独断で江戸の土佐藩邸に匿った。


 井伊大老暗殺以降、水戸藩内での藩士の跳ね上がった行動を厳しく取り締まる風潮から行き場を失った志士を守るためのやむを得ぬ行動だった。

 退助にとってそれは死を賭けた博打である。


 もう後戻りはできない。


 実質的藩主である豊信とよしげ公に知れたら切腹ものの越権行為であり、藩そのものの存続を脅かす危険行動だったから。

 当の豊信とよしげ公は5月、薩摩主導の四候会議に出席、薩土密約を締結する。

 退助は6月20日、脱藩を許された中岡慎太郎の手紙を受け取り急ぎ上洛し、中岡と会見した。

 その場で倒幕を議し、西郷と会見。

 退助は「戦となれば藩論の如何いかんにかかわらず、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と約束。

 更に同行した慎太郎は、自らその人質となり薩藩邸に籠ると決意を述べた。しかし西郷は「それには及ばず(信頼する)」との言葉を得て、薩土討幕の密約を結んだ。


 実は西郷自身、この時点ではまだ倒幕と列藩会議による主導との間で揺れ動いていたのだが、土佐との盟約も絶対必要な条件だった。

 それ故「それに及ばず。」との答えになったとは、退助・慎太郎は知る由もない。


 6月23日慎太郎の仲介にて豊信とよしげ公を西郷隆盛に会わせるための書簡を発し、6月24日退助、豊信とよしげ公に拝謁、1月の水戸藩浪士の独断での藩邸匿いの行為を正直に詫びを入れた。

 更に薩摩藩との倒幕の密約締結を報告し了承を求める。



 豊信とよしげ公は眉間にしわを寄せ、

「困った奴よのう。どうしてお前はそういつも過激に先走るのじゃ?少しは余を立てて自重したらどうじゃ?」

「殿、世は風雲急を要しております。

時節はもう倒幕に急加速で走り出しました。私は殿と我が藩をその時流に乗り遅らせる訳にはまいらぬと考えます。

 何としても殿が先頭を切って藩内を結束させ、我が藩がこの国の行方を先導すべき時と思います。

 新しい世を作り出さねばならぬのです。殿の了承を得ぬまま勝手な行動をしでかしたことをお詫びいたします。殿から死を賜りますれば、見事腹を掻っ捌く所存でございます。

 しかし私が死を賭してでも成すべき事を殿に承知していただき、我が屍を乗り越えてゆく志士たちの先頭には常に殿がいて欲しく思います。

殿、ご決断を!!」


 豊信とよしげ公は深く考え込むのだった。

 そして「ふむ。」と頷き、退助を許した。豊信とよしげ公は自分の考えと異なるが、さりとて退助という人材をを失うつもりもない。今こそ退助が働くときであるとも確信している。

 とうとうその時が来たと感じていた。




 密約に基づき退助は谷千城、中岡慎太郎に当時の最新鋭アルミニー銃300挺購入を命じ、その後も揺れ動き、煮え切らないままの豊信とよしげ公は退助と共に土佐帰国。


 そして事態は更に動く。

 7月23日、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、土佐の日野春章、後藤象二郎、福岡 孝弟たかちか、中岡慎太郎、坂本龍馬との間で、大政奉還の策を進めるため、薩土盟約が締結された。

 薩摩・土佐間の倒幕の密約、同じ藩同士の別の勢力による大政奉還の密約と盟約。

 実に複雑で分かりにくいが、同じ年に同じ藩の別勢力によるベクトルの異なる約束が交わされたのだ。

 倒幕派と佐幕派のせめぎ合いが、土佐藩内でも活発化する。


 その結果、9月17日土佐藩論は大政奉還に決す。(11月9日大政奉還成る)


 そんな流れの中、遅ればせながら退助の水戸藩浪士を匿う越権行為の情報を掴んだ国家老などの守旧派は、倒幕論者退助の完全追い落としを図る。

 即ち7月3日、国許に帰国したばかりの豊信とよしげ公に退助の越権行為を告げ口し、処罰を求めたのだった。

 その時豊信とよしげ公は

「その件はすでに承知しておる。しかし退助は暴激のきょ多けれど、すこしも邪心なく私事の爲に動かず、群下みな假令たとへこれを争ふも余(豊重)は彼(退助)を殺すに忍びず。」と擁護した。


 退助は命拾いし豊信とよしげ公の命により公に復権した。


 7月14日大監察(大目付)となる。

 7/17、町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告。

(武士以外への徴兵の道を開く第一歩。長州の奇兵隊と同様、明治維新後の国民皆兵へとつながる。)

 8/16銃隊設置の令を発す。

 8/21、古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。

 8/23、参政(仕置役)へ昇進し軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。

 銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織し兵制改革・近代式練兵を行った(迅衝隊じんしょうたいの前身)。

 9/3 退助、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。

 別府彦九郎、小笠原茂連らが江戸より上洛する。

 8月20日(太陽暦9月17日)、退助は土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。

  9月18日乾退助が、土佐藩軍備用兼帯致道館掛を解任される。

 10/3、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。

 これにより、土佐七郡(全土)に集結した勤王党の幹部らが議し、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。

 武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。

 ここに退助による土佐藩の軍事力結集が成った。


 ついに鳥羽伏見に続く武力討幕の道筋が整う。








     つづく


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