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 第14話「女将お菊」


 退助にとって、お菊を待つ時間は永遠に思えた。

 別れてから気が遠くなるような時間を耐えたのだ。途中、お里と暮らした時間も存在してはいたが、どんな時も頭の隅にはお菊がいた。


 自分の手の届かないところに行ったお菊を忘れられるはずはない。

 離別したお里には悪いが、退助の心にはお里の部屋とお菊の部屋が存在する。

 男は記憶の上書きはできない。


 では女は?


 よく耳にするのは、

「女は恋をする度、上書きする」との言葉。


 では本当に、それまで経験した本気の恋まで新たな恋に上書きされてしまうのか?

 完全に過去の記憶を消し去ってしまうのか?


 そんなことはあり得ない。


 男脳と女脳の違いはあるだろう。

 でも大切な人の記憶を完全に消すなど、男にも女にも絶対に無いと信じる。


 今こうして同じ建物の、すぐそばにお菊が存在する。

 もうすぐ自分に逢いに来る。

 夢にまで見た再会の喜びと緊張が退助の座る座布団に伝わり、見えない力となって引き寄せられるお菊であった。


「失礼します。」お菊の声と共にふすまが静かに開く。

「お久ししゅうございます。」

 引き裂かれたような別れから20年?すっかり大人の女性となったお菊を見て、咄嗟に言葉が出ない。幼い頃の姉のような憧れの存在だった女性ひとが、ずっと忘れる事ができなかった人が今、目の前にいる。 

 あでやかな蝶のような姿に成長した彼女に見惚みとれる退助。

 鼻の下を伸ばし、暫くは声が出なかったが気を取り直し咳払いの後、

「おお、お菊も息災でなにより。」と威厳を取り戻すように威勢を張った声で応える。

「退助坊ちゃまは大そうご出世なさり、ご立派な殿方におなり遊ばされました。菊は嬉しゅうございます。」声と笑顔は昔馴染んだ記憶を鮮明に思い出させてくれた。

「まだ坊ちゃまと呼ぶか。ワシももう三十ぞ(満29歳)。

 それに今は失脚中で果てない江戸修行の身。何度出世してもいつも振り出しに戻るへぼ双六のような人生じゃ。どうじゃ、情けなかろう?」退助は努めて明るく笑いながら言う。


「退助様の噂は逐一菊の耳に入っております。だから御身の浮き沈みの様もよく存じております。」

菊の言葉に、退助は積もりに積もったお菊の情報を欲しがった。

「ソチのその後を知りたい。順を追って申してみよ。」


 菊は居住まいを正し、

「あれからお屋敷を出た私は、御親戚であらせられる北川郷の前野様宅にて高知のお城に上がるための修行のため半年ばかり御厄介になり、その後、お城へ2年ご奉公させていただきました。

 宿下がりのおり、身元保証をしてくださった前野様より、良きご縁談を紹介していただきました。

 それが今の亭主の定七でございます。

 定七はカツオ漁網元の次男で、獲れた海産物の販路拡大を当主である親に訴え、江戸にある海産物問屋とここ日本橋の小料理屋を買収し、江戸進出を果たしました。

 それが今から10年前の事でございます。

 それから私は女将として小料理屋の采配を任され、土佐のカツオで御店たなを大きくし、今ではこの料亭に姿を変えております。

 だから国許からの退助様に関わる情報は他の情報と合わせ、船で行き来する家人から得ていたのでございます。」

「そうであったか。ワシはそなたのその後の消息を殆ど知らなかった。

 唯一そなたが何処ぞの者と祝言を上げるらしいと云う噂を最後に一切聞いておらぬ。」

「私は手に取るように退助様の事は全部承知しておりました。退助様が道場の娘様と祝言をあげた事も。」

「あれはソチがワシを待てず知らぬ者との祝言の話を聞いたからじゃ。

 それに今は離縁してひとりぞ。」

「そうでございましたか?それは存じませんでした。どうして再婚なさいませぬ?」

「それは・・・、暫くは考えとうないからじゃ。婚姻は疲れる。

和主わぬしと引き離され、妻だった里と引き離されワシは疲れた。分かってくれるじゃろ?

離縁後いくつも縁談はあったが、ワシが総て断っておる。」


「それでは私がいつまでも独り身を通していたら、お迎えに来てくださったと云うのですか?」

「勿論じゃ!別れの時、そう言うたじゃろ?」

「そんな事、無理に決まっています!私と退助様では身分が違います。

そんな事、そんな事!!・・・・。」

お菊は涙声になった。


 退助はそっと抱きしめたい衝動に駆られた。

「お菊、よく聞け。

 ワシが今必死で働いているのは、ワシとお菊のような身分違いでも祝言を上げられるような世の中にしたいからじゃ。

 今はまた失脚してしまったが、近日中に必ず復活する。

 地位や名誉や金のためではない。お菊に約束した想いを果たすためじゃ。


 お菊と添う事は出来なくなったが、あの時の約束は必ず守る。

 身分違いから、悲しい思いをさせた菊へのせめてもの誠意と思ってくれ。

 そして明日のワシの出陣を見守ってくれ。」


 お菊はこのまま退助について行きたいと心の中で強く思った。

 でもそこはお菊の生まれ持った性格が邪魔をする。

 再会しても添う事の出来ない現実がお菊の心を悪魔にする。

「退助様を見守るのは大そう骨が折れます。だっていつも浮いたり沈んだり。

 見ている方も疲れますのよ。まるで小さい頃から喧嘩で勝ったり負けたり、負けたり、負けたり。

 あの時と全く変わっていませんもの。」

「何じゃ、その勝ったり、負けたり、負けたり負けたりとは?やけに負けが多いではないか!

 ワシはそんなに負けておらんぞ!」

「あら、私が知る限りでも蛇に加勢してもらい、ようやく勝てた事がございましたが?」


 退助は思い出した。11歳の時、福岡 孝弟たかちかとの喧嘩で負けた時の事を。

 退助は顔を真っ赤にして

「あれ一回だけではないか。その後は一度も負けておらんぞ!」

「あら、お殿様には何度も打ち据えられていると、ご城内ではもっぱらの評判でしたのよ。」

「おまんらはご奉公中に、なんちゅうくだらん噂話に花を咲かせておるんじゃ?情けんなかぁ~!」


 しかしお菊の情け容赦ない追及は続く。

「それに退助様は妙な変態めいた剣でお殿様に立ち向かったと。

 ご城内の女子の間では、退助様はご変態であらせれれると。」

「あんなぁ、おまん・・・。もうそのことは忘れよ!!良いな、今すぐ忘れろ!」

「ハイハイ、忘れるよう努力いたします。退助坊ちゃま。」

「坊ちゃまと呼ぶな!」

いつの間にやら昔に戻っているふたりであった。


 その日を契機に、江戸滞在中はもとより、東京と地名が変わっても日本橋にほど近いこのお菊の料亭に足繁く通う退助であった。


 お菊との再会は、戊辰戦争前夜の退助にとって歴史的に驚異の働きを見せる原動力となった。

 退助の決意が象二郎と慎太郎、竜馬の動きを加速させる。






      つづく






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