第11話「犯罪者」
朝、別れの時は来た。
生まれたばかりの日の光を浴び、お里の顔が輝いて見える。
昨晩の涙は尾を引かず、今まで見た事の無い笑顔。退助は今まで見た中で一番美しいと思った。
「どうかご無事で。」
「里も達者で暮らせ。・・・母を頼む。」
年老いた母が気がかりだが江戸と藩と日本の将来に通じる明日のため、歩むしかない。
家を守るお里を残し、退助は再び江戸を目指し旅立った。
船旅と徒歩で10日の旅。江戸の土佐藩邸に辿り着く。
退助の役職は江戸留守居役兼軍備御用。
彼の役目を具体的に言うと、失脚、蟄居し、隠居中の豊信公に代わって江戸の動静探査と、軍事増強のための渡りをつけるため人脈強化にあった。
この時退助は幕府側重鎮、咸臨丸の渡米から帰国したばかりの勝麟太郎や小栗上野介と会見、軍艦の操練技術の習得方法や土佐藩の発言力強化の下地作りに着手している。
また彼らが主張する公儀政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)に触れ、自ら傾倒する尊王攘夷論との議論を交わした。
一方土佐に残った後藤象二郎は、万延元年(1860年9月)大阪にて土佐藩邸建築のため普請奉行に任命され、翌文久元年(1861年8月)御近習目付となっていた。
退助より出世は早く、退助の祝言の頃は藩政の中枢にいたことになる。
実はその頃の退助と象二郎、ふたりの運命の歯車を狂わす大事件と対峙していた。
それは土佐藩内に蠢く尊王攘夷派の存在であった。
以前の回で前述したとおり、土佐藩は上士と下士(郷士)の身分差別などにより、武士階級の間に深い溝が存在した。
上士と郷士の中間の身分である白札郷士(上司の末席身分)、武市半平太(瑞山)が土佐勤皇党を結成。
その数200名とも500名とも云われる多くの郷士を取りまとめた。
彼は1861年まで江戸に滞在。
それまでの間、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流。この交流を通じ、彼自身、尊王攘夷を遂行するのだった。
そして武市が江戸滞在中、彼の命により土佐藩領内に於いて土佐勤皇党が結成されたのであった。
退助はその武市半平太の動向を探るのも任務のひとつであったが、どうやら一足先に土佐に帰国した半平太とは行き違いになったようである。
藩内の不満分子と勤皇の志をもった志士の集まりである勤皇党は、盟主武市半平太の帰国に伴い、ついに本格的活動を始めた。
後藤象二郎も彼らの動向からは目を離さずにいたが、勤皇党一派は土佐、京都などで天誅と称し反対勢力を次々と粛清、ついに文久2年4月8日(5月6日)吉田東洋が彼らによって暗殺された。
もう勢いは止まらない。東洋の暗殺を契機に、一気に藩政を掌握するに至った。
後ろ盾を失った象二郎は失脚。
その分退助が豊信公を補佐する重責が増した。
退助は同じ尊王攘夷派としての立場から国許で動揺する役人たちを叱り、鼓舞する内容の書簡を送っている。
曰く、
「国体(天下)を改めるとき変事が生じることぐらい覚悟すべきである。賊徒の首を切って人々へ示す事により、かえって国が安定する事もある。」
藩の役人たちに「オタオタするな!」と言っているのだ。
そして文久2年6月(1862年7月、小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤王に盡忠することを誓う。
その時交わした江戸の誓いはその後の退助の行動指針となった。
このころ退助はすでに土佐勤皇党の重鎮である間埼哲馬と好誼を結んでいた。
間埼とは土佐藩・田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士である。
彼と交わした書簡で勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られた。
日増しに重要な立場に押し流される退助。
とうとう彼は藩主の父であり実質的家督の実権を握る豊信公に1862年9月側用人として呼び戻される。
家を離れ9カ月以上経過。
お里は長期出張から帰還した退助を人目も憚らず、満面の笑みと歓迎の涙で迎えた。
その晩は不在だった退助のその後の家の出来事を、弾丸トークでまくし立てる。
退助の母が、老いから同じ事を呪文のように繰り返す様子や、最近、鯵や鯖が不漁で手に入りにくくなってきた事。
お里の実家の弟が病に伏せた事など、お里の世界の一大事をまるでこの世の終わりのように聞かせる妻。
退助は自分が今背負う国の重責を思い、自分の妻が心より愛おしく、家に帰った実感が沸々と湧いた。
妻曰く、
「旦那様、またお痩せになりました?」
「いや、特にそんな事はない。」
「江戸では『江戸患いという病がはびこっていると聞きました。
旦那様は私がいないと切れた凧の様にフラフラと悪行三枚に溺れて、身体に悪い物ばかり食していたのではないかと里は毎日心配しておりましたのよ。」
少しムッとした退助は冗談で返す。
「・・・悪行?私がそんな男に見えるか?江戸でした事と云えば、褌も絞めず、夜道で行き交う人の中、着物の両裾を開き「な?」って言った事が三回あっただけだぞ。な?大したことはないだろう?」(もちろん妻であるお里にだけ通じる冗談であり、ウソである。)
「旦那様、それは立派な犯罪でございます。」
お里は軽蔑の眼差しでキッパリ言った。(例え退助お得意の冗談とは言え、あの婚姻前当時、川辺での褌ハプニングの恥ずかしい記憶を、この場で持ち出されてもこんなところで許容するつもりの無いお里の決意の表れであった。)
妻に犯罪者の烙印を押され、翌日登城した退助は豊信公の側用人として抜擢された。
そして翌年の1863年江戸藩邸総裁に任命され、豊重公に従い上京する事となる。
またも家を離れる退助。
お里もついて行くと駄々をこねるが、当然退助に一喝される。
「江戸中で私が所かまわず、夜な夜な『な?」』と言っているところを見たいか?」
全力で頭を振るお里であった。
つづく