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第一話 クソガキ退助

板垣退助=乾退助は幼名 猪之助いのすけ

いみな正躬まさみであるが、この物語では通称の『退助』の名で統一。

姓は後にいぬいから板垣に改姓する。



 退助は口をすぼめて菊の顔に近づく。

ふいに菊は目覚め、閉じていた瞼を開いた。


 退助は一瞬固まり、目はたじろぎの泳ぎを見せる。

 無言で見つめる菊の僅か10cmの間の状況で、退助は言い訳を必死で考えていた。

 「何?何でしょう?」

菊の問いに納得のいく言い訳が見つからない。

 まさか9歳の自分が2歳年上の菊に寝ている隙に「口吸い」をしようとしたなんて口が裂けても言えない。


 菊は起き上がり、再び退助を見据えた。

 退助の脳みそは、フル回転で言い訳を探す。


「俺は、俺は何もしていない!」

「何もしていないじゃなくて、何をしようとしていたの?」

「俺は何もしていないんだ!!」

「だから、私に何をしようとしていたの?」

「・・・・・。」

「ん?・・・・ん?」

そう迫られて退助は観念した。

 蚊が消え入るような小さな声で・・・・「口吸い。」

「口吸い?何それ?」

「だから、口吸いだよ!口吸い!!悪いか!!」

やけくそ気味に白状した。


「いやらしい・・・。」

 菊は恥じらうように伏し目がちになり、「どうして私に?私は年上なのよ。」

 退助は返答に困ったが、菊が自分に対し、即座に拒絶反応を示さない事に心の底で安堵した。

 退助にとって菊は、雇人の娘であり、姉のようであり、一番の幼馴染であり、淡い憧れの異性であった。




 退助は土佐藩の上士であり、馬廻り格300石取り乾正成の嫡男として、高知城下中島町に天保8年(1837年)5月21日に生を受ける。




 天保8年とは天保の大飢饉により、世の中全体が極めて疲弊した年である。

 有名な大塩平八郎の乱(大阪)、生田万の乱(越後柏崎)などの飢餓に対する民衆の不満が多発した。

 またアメリカのモリソン号が漂流民を伴い浦賀に現れ、異国船無二念打払令により打ち払われたのもこの年の出来事である。

 現在でも『てんぽな』と云えば、地方により大変なとか、とんでもないとか、途方もないとかという形容詞として使われるそうな。

 それほど『てんぽな』(大変な)年だったのだ。

 動揺した幕政のほころびが見え始め、後の討幕の機運が生まれたのもこの頃である。

 そんな年に生まれた退助はまさに討幕の使命を背負う運命の子であった。


 しかし少年に成長した当の退助は、腕白で学問嫌いで、正義感が強く、卑怯な振る舞いを嫌う母に頭が上がらない子である。

 だから菊に「退助様のお母上に言いつける」と言われたら、この世の終わりに等しい大事おおごとだったのだ。


 菊はと言うと、元々は武士の出であったが、お家改易のため浪々の身の折り、父の代に退助の祖父の窮地を救った功績により召し抱えられた。

 その時すでに武士の身分を捨てている。

 生活のため他国行脚の末、土佐に流れ着き、カツオ漁や農家の刈り入れの日雇い人足として生計を立てていたのだった。

 故に土佐の下士にも該当せず、町人の身分として中間ちゅうげんやっことして雇われ、妻は奥向きの台所を任されている。

 当時の雇人としては破格の待遇で迎えられ、家族は単なる雇人以上の振る舞いが許される特別な存在とされた。


 菊の家の出目を知る主人の乾正成は、菊の父太右衛門が娘に施す教育を黙認。

 様々な支援をし続けた。


 元々300石の高禄でありながら、身分の上下の隔たりに甘く、分け隔てない行いを旨とした人であった。

 そうした環境から、退助は自宅屋敷内を第二の住処すみかのようにふるまう菊という娘が自分にとって最も身近な他人の異性であるのは仕方ない。



 現実に戻る。


 菊はじっと退助を見つめ続け、どうしたものか思案した。


 退助はいたたまれない。

 この場を逃げ去りたい思いで一杯だった。

「退助様は私に口吸いして、その後どうするつもりだったの?」

「知らないや、そんなの。」

 あっちの方角に視線を落とし、菊の問いにボソッと応えた。

「退助様は菊の事が好きなの?」

 完全に菊の優位な状況が成立している。

 顔を真っ赤にした退助は、「知るか!知るか!!知るか!!!」そう言って握る手が震え出した。

 あまり退助様を虐めてはかわいそう。

 年下だし、反応がかわいらしいと思う。

 この辺にしておこうか。

「いいわ。このことは誰にも内緒にしてあげる。退助様も誰にも言ってはダメよ。」

「分かった。」

 ホッとした退助は恐ろしい程素直に受合う。


 その日を境に退助と菊の立場が定まった。




 

        

      つづく


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