ゆかゆゆバレンタイン
2月14日。それは世の男女がにわかに浮き足立つ日である。
好意を抱く人にチョコレートを送るというだけの行事だが、その持つ意味は大きい。チョコを送るという行為がすなわち、告白に等しい効果を持つのだ。
それを渡すということは好きだと伝えることになるし、それを受け取るということは少なくとも相手を悪しからず思っていることの証明になる。恋愛面においてこのイベントの持つ意義は大きい。
そのバレンタインに、ここ冥界もにわかに沸き立っていた。
「あの幽々子さま、今日がなんの日かご存じですか?」
「たしか、バレンタインデー……だったかしら?ここ最近できた行事よねえ」
「はい。なので、そのー……私も作ってみたんですけど……う、受け取って……くれますか?」
「あらあら、じゃあ私からも……はい、これ」
「!!??ゆゆっゆゆゆ、幽々子さまから、ちちちチョコレートが!!?」
「あら、いらなかったかしら?」
「とととっとととんでもない!!いっ、一生だいじにします!!!」
「溶けないうちに食べるのよ〜!」
幽々子とチョコを交換し、顔を真っ赤にしながら走り去っていく妖夢。しかし彼女は知らなかった。バレンタインに存在する「好きな人に送る」というのとは別の、もうひとつの風習を。
「……残酷なものですね。真実を知らないというのは」
「あら、藍ちゃんじゃない〜。どうかしたの?」
「ええ、主人からの贈り物を届けに参りまして……こちらです」
そういって藍が見せてきたのは、布に包まれた人形のような物体だった。
首を傾げる幽々子の前で、秘密のヴェールが取り払われる。そこには、紫の形をした等身大サイズのチョコレートがあった。
「あら、食べごたえがありそうね〜」
「紫様から、『私を食べて♡』という伝言を預かっております。では、ごゆっくり」
うんざりしたような表情でチョコを押し付ける藍だが、それには理由があった。
このチョコレートに隠された秘密が、彼女の正気度を奪ったのだ。
(ふふ、ふふふふふ……計画どおり……!このまま、このままいけば幽々子に全身をぺろぺろしてもらえるわ!!)
そう、このチョコレートは紫の形に作られたものではなく、紫そのものをチョコでコーティングしているのだ。
その製造法は壮絶なもので、煮えたぎるチョコの中にその身を投じ、全身にまぶしたチョコを固めるため全裸で北極に行くという無茶を行うことで完成した代物だ。紫が妖怪でなければ死んでいるほどの無茶苦茶な製法である。
(さあ幽々子!私の身体をぺろぺろ!!ぺろぺろオオォ!!!)
「じゃあ、いただきま〜す!」
がぶっ
「……あ」
「んん……なんだか鉄の味がするわね」
「ぐあああああああああああ!!指がっ!?指がアァァアア!!」
紫の目論見は外れた。幽々子の食への姿勢を思えば当たり前のことだが、舐めるのではなく齧られてしまったのだ。
その一噛みで紫の指がもぎ取れてしまい、悲鳴を上げたことで中身もバレてしまう。
幽々子に全身を舐めてもらうという目論見は外れ、食べるのが大好きな幽々子に対し、まともに食べられない変態的な代物を差し出したことで、好感度までをも大幅に引き下げてしまった。この失敗は大きい。
「ちくしょう……!ちくしょぉぉ……!」
「……まあ、当然の結果ですね」
「私は諦めないわ!幽々子のLOVEを勝ち取るまでは!!」
「お気の済むまでどうぞ。結果が実るかは知りませんが」
「次はアレよ、ゲーム形式でいくわ。私が勝ったら幽々子とイチャイチャラブラブチュパチュパよ!」
次にどうするか定めるなり、すぐに行動を開始した。
紫が準備を始めてからおよそ3時間後……
「さっきはありがとうね妖夢。おいしかったわ〜」
「は、はい!精一杯気持ちを込めて作りましたから……//」
「ふふ……」
「私を差し置いてイチャついてんじゃないわよ!幽々子、私と勝負よ!」
こたつで団欒する2人の前に、準備を整えた紫が現れる。紫が突きつける勝負の内容とは、非常にしようもないものだった。
「ここに山ほどのチョコを用意したわ。その量およそ100キロ!これを食べきれたら諦めるけど、食べきれなかったら……」
「食べきれなかったら?」
「……私とチューしなさい!」
「うわぁ……」
あまりにも無様な姿を晒す紫に、一緒にいる藍ですら引いていた。
その一方で幽々子は、静かに闘志を滾らせていた。
その時の様子を見ていた魂魄妖夢(1??歳)は後に文々。新聞の取材でこう語っている。
「え?食べきれないと思ったか……って?幽々子さまがですか?」
「ん〜〜〜〜〜……」
「やっぱりあなた達はワカってない。西行寺幽々子という人物を」
「そりゃアナタ、あれだけの量を出されたら普通は勝負アリですよ。でもこれは幽々子さまの話でしょ」
「……うせやろ……?」
「ふぅ、ごちそうさま……」
およそ1時間もする頃には、山ほどあったチョコレートは全て食い尽くされていた。
親友である紫でさえその全貌を把握しきれていないほどの食欲。あるいは今なお増大し続けているのかもしれないそれは紫の度肝を抜いていた。
そしてこの事実は紫の敗北を、バレンタインデーそのものの失敗を意味していた。
「フフ……フフ、フハハハ……ハーッハッハッハ!!」
「何か楽しいことでもあったのかしら?」
「ヤケになっているのかと」
「あ、そうだわ藍ちゃん。はいこれ」
「これは……チョコ、ですか。それも2つ」
「なっ…………!?」
「ええそうよ〜。貴女の分と、猫ちゃんの分ね」
「猫、ではなく橙という名前があるのですが……」
「ちぇんちゃん、って言いづらいじゃない?だから猫ちゃんなのよ〜」
「むぅ……わかりました。ありがとうございます幽々子様」
「ね、ねえ幽々子!私のは!?私のは!!?まさか無いなんてこと……」
「う〜ん、そうねぇ……今は内緒よ」
その一言は、紫の心を猛烈に抉っていった。
幽々子がチョコを渡してくれないこと、紫からの猛烈なアタックに応じてくれなかったこと、これらの点から完全に振られたと思っていたのだ。
「今までありがと藍……私死ぬわ」
その結果、紫は自暴自棄になっていた。
自他共に認める幽々子狂いである紫にとって、幽々子からチョコを貰えないということは死ぬより辛いことだったのだ。
「そういうことを言う者ほど死なないものですよ紫様」
「せめて慰めるとかしなさいよ!」
「その必要を感じなかったものですから」
「くそう……藍が私をいじめる……!」
「そうだ紫様、幽々子様にお返しのチョコを渡さなくてはならないので、少し行ってきてもらえますか?」
「えー……私が?」
「スキマが使えるうえ、家事に一切貢献しないという点で最適かと」
「わかったわよ……まったくうちの式は手厳しいわね」
スキマに入り白玉楼へ向かった紫を見届けると、藍は先程と打って変わって寂しげな表情を見せる。
「行ったか……まったく、我が主ながら鈍いにも程があるな……幽々子様のお気持ちに気づかず、ここまでお膳立てしなくてはならないのだから」
藍が手元に視線を落とすと、そこには華やかな装飾が施されたチョコレートがあった。
(本当に、鈍いお方だ……幽々子様しか見ていないくせにあの有様で、そして私の気持ちなどは……)
「まったく、今夜は呑まずにいられないな……」
藍の気持ちを知ることもなく、紫は幽々子の元へ向かっていた。
部屋に着くと、幽々子がとっくりを手に酒盛りをしていた。
「あら珍しい……幽々子が部屋でお酒を飲むなんて」
「ひゃ……っ!!」
紫が話しかけると、幽々子は肩を大きく跳ね上げさせた。スキマを使っているにしろ、幽々子にしては驚き過ぎている。
「ど、どうしたの?なんかすごいびっくりしてるけど」
「だって、いきなり後ろから声かけてくるんだもの……」
「いつものことだと思うけど……とりあえずコレ、渡しとくわね。うちの式からお返しのチョコよ」
「あら、ありがとう。せっかくだしちょっと飲んでいかない?」
幽々子に誘われ、紫も酒盛りに参加する。見るとすでにかなりの量を飲んでいるようで、空のとっくりが4つほど置かれていた。
「結構飲んでるのね……顔赤いわよ」
「そうねえ、ちょっと……後押ししてほしくてね」
「後押し?」
「ううん、こっちの話……」
今日の幽々子はいつもと雰囲気が違い、どことなくよそよそしくぎこちない。まるで初対面の人と話しているかのような、あるいはそれ以上に緊張した面持ちで場に重い沈黙が流れる。
「……昼間はごめんなさいね。紫にだけ渡さないで、まるで省いているみたいになっちゃって……」
「え?ああ……いいのよ。今にして思えば私も悪ふざけが過ぎたわ」
「紫に渡さなかったのはね、紫には少し、特別な渡し方をしたくて……それで後にしたの」
「特別な……?」
特別な渡し方。バレンタインでの特別ということはやはりそういうことなのかと、思わず胸が高鳴ってしまう。
柄にもなく緊張している紫に対して幽々子も、何かを決意するように深く息を吸う。そして
「目を……つぶってくれる?」
この状況で目をつぶるよう言われると、紫の胸が期待と緊張に跳ね上がる。
幽々子がどんな渡し方をしてくるのか、どんな形で気持ちを伝えてくれるのか、喜びと不安で胸がいっぱいになる。
全身にぶわりと汗が浮かんで、身体中の筋肉が硬直する。幽々子が何をするのかと気が気でない。
そんな紫の顔がふいにそっと掴まれ、そして……
「〜〜〜っっ!!??」
次の瞬間、紫の唇を柔らかくて温かいものが包み込んだ。
仄かに酒の香りが伝わってくると同時に、何か塊のようなものが口の中に押し込まれる。それはとても甘く、少しほろ苦い。
「……ちゃんと、受け取ってくれた?」
「これ、チョコレート……?」
「こんな渡し方、みんながいる前じゃできないからこんなに遅くなっちゃったけど……ちゃんとできてよかったわ」
「でもまさか、口移しなんて……」
「え、ええ……改めて考えると、すごいこと……しちゃったのね……」
「顔、真っ赤よ」
「お、お酒のせいよ……!」
少し冷静になり、みるみるうちに顔を赤く染めていく幽々子を紫がからかう。いつもとは違う、幽々子の一面を垣間見ていた。
「でもこれで、私たちも晴れて恋人同士ってことになるのかしらね」
「そう……ね……」
「とはいえ、今までもずっと一緒にいたものだからなんだか実感わかないわね……幽々子?おーい……」
「すぅ……すぅ……」
口移しをするために飲んだ酒と、ありったけの勇気を振り絞ったことによる疲れが出たのか、幽々子はそのまま静かに眠ってしまった。
穏やかな寝息を立てる幽々子の寝顔を、紫はじっと見つめていた。
(安心したのかしらね……柄にもなく決心してたし無理もないわ。それに引き換え私は……)
そっと幽々子に布団を掛け、紫は部屋を去っていった。
(自分から伝えるのが恐くてあんな風にふざけて、変態行為に逃げていた……今のままじゃダメよね)
(待っていてね幽々子。いつか、私からきちんと言葉にして伝えるから)
決意を固める紫と、前に踏み出した幽々子。バレンタインが深めた絆がこれからどうなっていくのか。
そして真実を知らない妖夢と、失恋の悲しみに暮れる藍。この4人がどのような結末を迎えるのか。
それはまだ、誰にもわからない。