悪役令嬢は婚約破棄される
「ーーアリス・メサイア。本日をもって貴様との婚約は解消させてもらう」
突然だった。
月一度開かれる貴族の社交場で、いきなり婚約者にそう告げられた。
頭が正常に機能しない。
目の前の男ーー我が祖国アイルレイトの第三王子『ビルス・アイルレイト』が何を言っているのか理解できない。
いや、理解したくない。
「それは何故でしょうか」
私は彼を見上げる。と、階段の踊り場から彼は大衆にアピールするかのように、
「ふん、何故か、だと? 白々しいな」
そう吐き捨てた。
そんなこと言われても分からないものは分からない。
私は彼の怒りを買うようなことは何もやっていない。
そのはずだ。
「申し訳ございません。本当に心覚えがないので」
「……そうか。なら教えてやる」
パチンと彼は指を弾き、
「来てくれ、レイミーー」
一人の少女を呼んだ。
「はい、王子様」
黒髪に赤目の、至って平凡な少女。だけど、どこか愛嬌のある不思議な魅力の少女である。
彼女は王子の隣まで歩むと、立ち止まる。
「この子の顔に見覚えはあるな?」
まるで知っていることが大前提にあるかのような問だが、私は彼女のことを知らない。
「いいえ、見覚えございません」
「……嘘をつくな」
本当のことだ。
本当に私は彼女のことを知らない。
私は記憶力にはそれなりに自信はあり、一度会ったことのある人の顔ならほぼ全員覚えている。が、彼女のことは分からない。
「本当に分かりません」
だからこう答えるしかなかった。
「成程、あくまで白を切るということか」
だけど、その私の答えが言い逃れしているかのように見えたのだろう。彼はちらりと少女の方を見て、発言する許可を与えた。
「私、今までそこの方に酷い嫌がらせを受けていました」
……は?
いきなり何を言い出したのでしょうか、この子は。
「えっと、意味が、分かりませんが」
突然の濡れ衣による私の困惑を、勝手に動揺と勘違いしたのか、王子は勝ち誇ったように笑う。
「どうした顔色が悪いぞ」
それはそうだ。
誰だって謂れのない罪を着せられそうになったらこうなる。
「……成程。それでは一つ伺います。私が彼女に嫌がらせをしたという証拠の提示をお願いします」
「ふん、証拠など必要か?」
「当然でしょう」
彼は歪に笑う。
「いいや、不要だな」
バサッと私の眼前に一束の書類を放る。
「それを見れば全てを理解することだろう」
私は書類を拾い、パラっと捲り、中身を確かめる。
「……成程。そういうことですか」
そこに記されていたことは、私の両親による彼への婚約解消の認可。これが意味するところは、彼の言う通り直ぐに理解した。
ただ婚約破棄された、そんな単純なことではない。
王子との婚約は、いわば貴族にとって王族を身内にすることのできる唯一の機会だ。なので婚約破棄の求めに普通は応じない。
応じなければ幾ら王子自身が何を喚こうが、どちらかに落ち度がない限りは婚約破棄になることはないからだ。
だから今回、彼が得意気に婚約破棄を突き付けてきていたが、私は両親が認可することはないと考えていたため何も心配はしていなかった。
だが、それなのに両親は彼の求めに応じた。
これが意味することは一つ。
(……私は生贄として切り捨てられたのですね)
裏切りだ。それも実の両親からの。
本来どちらかに落ち度がない限りは認められない婚約解消が行われた。それも今のこの状況下で。
(まんまと私はハメられた、というわけですか)
きっと見ている人達は、皆こう思っていることだろう。
私があの少女に嫌がらせをするような王族に迎えられるには人格的に破綻している女だから婚約破棄されたのだと。
そう思うことだろう。
彼が証拠不要だと言った意味はそういうことだ。
勿論、今ここで私が彼に証拠を追求することもできる。
が、恐らく無意味だ。
適当なでっち上げの証拠を持ってくることだろう。
他に協力者がいればそのでっち上げを見破ることも容易いが、今ここに完成した誰もが私に疑惑を抱いているというアウェイな状況。
しかも、両親にも犠牲として切り捨てられた為、家の力を使うことも難しい。
まず自分の身の潔白を証明することはできないだろう。
完全に詰みだ。
弁護人のいない法廷に立っているような気分になる。
「……分かりました。婚約解消は受け入れましょう」
もはやそう言うしかない。
「ふん、弱きを虐げる屑め」
そう吐き捨てると彼は踵を返して、階段の踊り場から階上に上がっていく。
私は元婚約者のその背を見送り、心の中に抱いた深い悲しみを飲み込み、そして
(……ばーか)
と思う。
言葉に出さず、表情にも出さなかったのは、私のせめてもの強がりだった。
◆
私は脇が甘かった。
だから付け込まれた。
社交場の会場を逃げるようにして出てきた私は、噴水のある大広場に備え付けられている椅子に腰を下ろしていた。
普段は絶対に座ることの無い椅子だが、行く宛を失った私は仕方なくここで休憩していた。
(これからどうしようかしら)
広場で遊ぶ親子の姿を目で追いながら私は考える。
もう家には戻れない。
いや、恐らく戻れば私は二度と自由には生きることができない。
自ら私を『汚点』としたくせに、その汚点を隠すために躍起になるだろう。
最悪、問題を起こした私をどこか日の目の当たらぬ場所に幽閉する可能性もある。
(逃げるのが最適。だけど一体どこに逃げるべきか)
私は今まで箸より重いものを持ったことがない。
それは揶揄ではなく、紛れもない事実。
それほどまでに私という存在は、春の息吹に晒される雪兎のように儚く小さい。
なので逃げたとしても果たして生きていけるか。それが心配になる。と、そこへ
「アリスお嬢様。このような下賎な場所にいらしたのですね」
良く知った声がかかる。
「……リサ。私を連れ戻しに来たのかしら」
今まで私に付き従い、尽くしてくれた侍女。
だが、恐らく今は敵だ。
私の侍女ではない。
私は警戒し、逃げる為に身構える。
運動の苦手な私では武道を修めた彼女に、勝てる道理がないからだ。
「落ち着いてください、お嬢様。そのようなつもりはありません」
そう言うが直前に両親の裏切りを受けたばかりの私は、その言葉をそのまま鵜呑みにするようなことはしない。
「それを、信じられるわけないでしょう!」
その言葉と共に私は立ち上がり、一気に走り出した。が……、直ぐに捕まった。
「あ、ぐぐ、離しなさい! この脳筋侍女!」
「いいえ離しません。それに誰が脳筋ですか。いいから落ち着いてください、お嬢様」
「うる、さい」
私は手足をバタバタと暴れさせるが、一向にリミの拘束は解けない。
「私はこれから一人で生きるわ。生きてみせる。だから離しなさい」
「お嬢様が一人で? それは笑い話ですか? 笑い話にしては諧謔不足だと思いますよ」
「真面目な話よ!」
「ええ……、箸より重いものを持ったことのないお嬢様が? なんですか? もしかして婚約破棄されたショックで、頭をやられてしまったのですか? ああ、お可哀想に」
ハンカチを片手にリサは泣き真似をする。
「くっ、……はぁ、もういいわ。もう私を好きにすればいいじゃない」
これ以上は抵抗しても無意味だろう。
疲れるだけ。
私の力では絶対に彼女の拘束から逃れることはできない。
「ではお言葉に甘えて、そうさせていただきます」
タンと地を蹴り、私を抱えたままリサは建物の屋根に跳び乗った。
「……え」
高所恐怖症の私は思わず失神してしまいそうになったが、何とか辛うじて意識を繋ぎ止める。
「お嬢様、私は今日限りでメサイア家を辞めます。このまま一緒に行きましょう」
そう言いながら彼女は、屋根から屋根へと飛び移り、忍者のように空を駆ける。