第五話 君は君の居場所へ
不思議な気分だった。
一介の冒険者風情が、貴族のお嬢様とベッドを共にしている。
俺が普段使っているベッドは狭く、二人で並ぶと窮屈だった。
「狭いだろ」
「はい。でも平気です」
俺の胸のあたりで、リーリアはうずくまるようにしている。
お互い薄い夜着しか身に付けていない。それでも俺の体も心も反応しなかった。ま、予想通りだ。
「さっきの言葉、覚えているかい」
「さっき?」
「俺が不能だってこと」
「ええ、覚えています」
くすぐったい。
彼女のサラサラした髪が、俺の唇に触れた。
俺が黙っていると、リーリアが身を寄せてきた。
「グランさんに抱いてほしいとか、そういうのじゃないんです。ただ、側にいたいっていうだけですから」
「そうか。ありがとうな」
「いいえ。私のわがままですから、グランさんがお礼を言う必要ないんですよ」
抱きつかれた。
発達途上の胸が軽く当たる。体熱が布地を通して伝わった。
「貴族のお嬢様がこんなことしていいのかい」
「いいんです。私、わがままですから。帰る前に、ほんのちょっとだけ羽目はずしたくなりました」
「帰る、か。そうだな」
リーリアには帰る場所がある。
帰るべき場所がある。
彼女自身が歩むべき場所に戻り、そこから前を向く義務がある。
「俺みたいな掃き溜めとは違うからな。頑張れよ」と呟き、その金糸のような髪を撫でた。
また強く抱きつかれた。
「グランさんは掃き溜めなんかじゃ、ないです」
リーリアの声は穏やかで、でも悲しそうだった。
俺は黙って、視線を夜の部屋にさ迷わせる。
「他の誰が何と言っても、グランさんはいい人です。
私を拾って、現実を教えてくれました。自分の立場から逃げていた私に、それは駄目だと言ってくれました」
「大したことじゃないよ」
「それでも、私は嬉しかった。私の抱えているもやもやに、グランさんは真剣に向き合ってくれたんです」
「......そうか」
「自分がいかに甘えていたのか、思い知りました。ですから、私は帰ろうと決めました。諦めるのではなく、頑張るために」
「分かってくれて何よりだよ」
俺はリーリアの頭の下に腕を差し込んだ。
枕がないから、せめてもの代わりだ。自然と頭が横にくる。
「サンドリス子爵家の令嬢と一夜を過ごしたなんて知れたら、命がないかもしれないな」
「大丈夫ですよ。
だってグランさん、紳士的じゃないですか。私、男の人とこんな体勢になるの初めてですけど、怖くないですし」
「男としては少々情けないね」
「人間としてすごく素敵だと思います」
その言葉が胸に染みた。
「人間として見てくれてるんだな」
「当たり前ですよ。
自分でどんなに卑下しても、グランさんは努力してきた立派な大人で、優しい方です。だから」
リーリアの体が動いた。
俺の顔をかき抱くようにして、自分の胸に押し付ける。
とくん、と彼女の心臓の音が聞こえた。
「だから、だからもうそんなに、自分を責めるのはやめてください。
悲しくなります。私、こんなことしか出来ないし、グランさんは嬉しくないかもしれないですけど」
「分かった。その気持ちだけで十分だよ。あと、リーリア」
「何ですか?」
「君、結構胸あるな」
「え、え、そのまあ一応年頃ですからっ」
慌てたように、リーリアは体を離した。窓から月光が差し込み、彼女の顔を照らし出す。まったく、真っ赤じゃないかよ。
「ありがとな。でも、こういうのはほんとに好きな男にしてやれよ」
「――はい」
「――いい子だ」
一回り以上も年下の子に慰められたとか、普通に考えたら情けない。
けど、不思議と嫌じゃなかった。
体を動かすと、右手がリーリアの左手に触れた。
「眠ろう」
その華奢な小さな手を握る。
「はい。おやすみなさい」
月光の中に浮かんだ彼女の笑顔を、俺は瞼の裏に閉じ込めた。
誰かの暖かさを近くに感じたのは、いつ以来だろう? そんな疑問も意識の彼方に消えていく。
† † †
「リーリア! お前、このバカ娘がっ!」
「もう、本当に心配したのよ! どこに行っていたのっ!」
すいません、俺の家です。
喉に引っ掛かった言葉を、俺は押し止める。
貴族様から話しかけられない限り、勝手にこちらからは話せない。
「ごめんなさい、父様、母様。あの、こちらにいるグラン・ハースさんに助けていただきました。家出した私を拾ってくれたのです」
リーリアの紹介にあずかったので、俺は頭を下げる。
ほどなくその姿勢を解くことが出来たのは、サンドリス子爵の素早い対応のおかげだ。
「面を上げよ。そうか、あなたが私の娘を助けてくれたのか」
「はい、閣下。
僭越ながらご説明いたします。路地裏でうずくまるご息女をお見かけし、保護させていただきました。
下流区域では放置すると命の危険もあるかと思い、気持ちの整理がつくまでの間、私がお世話させていただきました」
「そうだったか。それはご迷惑をおかけしたね」
俺を眺めながら、サンドリス子爵は少し困った顔だ。
冒険者みたいな根無し草がという侮蔑の思いが、娘を助けてくれた恩人という事実とせめぎあっているのだろう。
俺はじっと子爵の反応を待った。
「よろしければ、礼がしたい。屋敷へ入りたまえ」
「いえ、閣下。それには及びません。私のようなしがない冒険者風情が、閣下のお屋敷に土足で踏み込むなど」
形式を守るというのは、時として大事なことさ。
サンドリス子爵も俺も、俺が断ることを前提として動いている。
「そうか、残念だな。
それでは追って冒険者ギルドに礼金を渡しておこう。心ばかりながら、それをもって感謝の意としたい」
「ありがとうございます。閣下のお心づかいに深く感謝いたします」
片膝をつき、礼を言う。
身分が違う者同士だ。こういう場合でも、落としどころが重要なんだよ。
視線だけを斜めに上げた。リーリアがぱっとサンドリス子爵の方を向いたのが見えた。
「父様、どうして!? グランさんは私の命の恩人なんですよ! 家にあがっていただいても、良いではありませんか!」
「リーリア」
子爵の声は大きくはない。
だが、そのなだめる調子には、地位ある者だけが持つ重みがあった。
その一言だけで、リーリアは沈黙を強いられた。そろそろ頃合いだな。
「それでは閣下、奥さま、そしてお嬢様。私はそろそろ失礼いたします。お目通りいただき、ありがとうございました」
「グランさん、待って! ねえ、行かないで! せめてお茶くらい飲んでいってください!」
リーリアが俺の前に回り込む。
その青い両目が潤んでいた。
馬鹿、君は何を学んだんだ。
俺と君は違う階層の人間なんだぞ。一緒にお茶なんか飲める立場じゃないんだ。
「リーリア様、ご容赦ください。
私がお教えしたことがお分かりでしたら、ご理解いただけるかと存じます」
伝われ、と心の底から念じた。
いとおしさと惜別の念をこめて、俺はリーリアと視線を合わせた。
「......すみません、そうですよね。グランさんを引き留めてお邪魔しては、いけないですよね」
やがて諦めたように、リーリアはその場から退いた。
俺の前がぽっかりと空く。向こうへと続く道が、やけに長く見えた。
「ありがとうございます。それでは皆様、失礼いたします」
形ばかりの礼儀をなぞってから、俺は足を前に踏み出した。
リーリアの視線を背中に感じたが、振り返りはしなかった。
振り返れば、立ち止まってしまうと思ったから。
立ち止まってしまうと、分かっていたから。
鍵を開ける。
誰の気配もない家に入ると、やけにガランとしていた。
気のせいだろう。あの女の子はほんのちょっとの間だけ、俺が拾っただけの存在だ。
同居人でもない。そんなごく軽く、この下流区域には似つかわしくない存在だ。
元の生活に戻った。
ただそれだけのはずだ。
それなのに、俺は思い出す。思い出してしまう。
クエストから帰ってきた俺を「おかえりなさい!」と笑顔で出迎えてくれたあの子のことを。
「元気でな、リーリア」
感傷を断ち切るために、俺は自分に呼びかける。
さよならだ、リーリア・サンドリス。