第一話 君にはここは似合わない
徹夜明けのクエストを終え、その日の俺は疲れていた。
冒険者ギルドを出て朝の町を歩き、常宿へふらふらと歩く。寝不足のせいか、頭がぼーっとしていた。
緊張感が欠けていたこともあったのだろう、普段は通らない路地裏を選んでいた。
"朝だし危険もないだろ。こっちの方が近道だしさ"
そんな言い訳が脳裏を掠めた。
頭の中は、暖かいベッドで寝ることだけだ。あとは目覚めた後に、スープでもあれば言うことなし。
それしか考えていなかった。
そのはずなんだけど。
"あ、れ?"
路地裏の薄暗がりに、何やらうずくまっている。
小柄な人影だと分かった。浮浪者だろうか。
だが、どうも様子がおかしい。膝を丸めてうずくまっているけれど、小刻みに震えている。
スルーが正解。
厄介ごとに巻き込まれないようにするのは、冒険者に大切なリスクヘッジさ。
そう思いながら、横をすり抜けようとした時だ。
「......す、すいません、見ず知らずの方。何か食べるものを恵んでいただけないでしょう、か」
鈴を鳴らすような声に釣られて、俺はふと足を止めた。
フードの陰から、声の主の顔が覗いている。
若い女、というかまだ子供と呼ぶに相応しい年齢に見えた。
やれやれ、見捨てていくにはちょっとばかし心が痛むよな?
† † †
多分寝不足で頭が回っていなかったのだろう。
でなければ、俺がこんな気まぐれな人助けなどするはずがない。
ましてや、路地裏には似つかわしくない美少女なんて、厄介な匂いしかしないのだから。
「美味そうに食うねえ」
俺が声をかけると、相手は顔を上げた。
麦粥の椀の向こうから覗くのは、ふわふわした白金色の髪。その下から透き通った青い瞳が見える。
若いねえ、まだ十五歳くらいかな。
「はっ、す、すいません。いきなりの不躾なお願いにも関わらず! とても美味しいですね、これ!」
「ただの麦粥だよ。味付けは塩だけだ。多分、君がいつも食べてるもんの足元にも及ばないと思うぞ」
「私が何者なのか、ご存じなのですか?」
少女はぱちぱちと目を瞬かせた。俺の倍はありそうな長いまつげが、ひらひら揺れる。
「名前は知らないけど、上流階級の人間だってことは分かる。
高そうな服、丁寧な言葉使いから明らかだ。まあ、貴族のお嬢様が家を飛び出してきたってとこかな?」
「うっ、そ、その通りです......私の名前は」
「言わなくていいよ。何があったか分からないけど、厄介ごとに巻き込まれたくはないね。それ食ったらさっさと帰りな。お礼はいいからさ」
「えっ、でも、そんな!?」
声を張り上げた少女を無視して、俺は立ち上がった。
二階の自分が宿泊している部屋へ向かいながら、あくびを噛み殺す。
「俺さ、眠いんだよね。徹夜明けなの。あんたみたいなお嬢様には、想像もつかない仕事してるんだよ」
それだけ言い放ち、俺は少女を置き去りにした。さて、さっさと寝るとしようか。
時おり見る夢がある。
いや、夢というよりは昔の記憶だ。それはいつも同じだ。
十六歳の俺が生まれ育った村を飛び出すところから、その夢は始まる。
「こんな田舎の片隅で人生終わりたくないんだよ!」
「クソガキが生意気言ってんじゃねえぞ! てめえの飯代もろくに稼いだこともないくせに!」
「おお、だったら自分一人で何とかしてやらぁ! 誰がこんな家にいつまでもいるかよ!」
「やめておくれよ、グラン! あんたも父親なら、煽ってどうすんだよ! 仲直りしておくれよ!」
「ふん、こんな生意気な口だけの坊主が俺の息子だと? 知らないな、勝手にしやがれ! 二度とうちの敷居跨ぐんじゃないぞ!」
「頼んだって跨ぐかよ! じゃあな、今まで育ててくれたことにだけは礼を言っておくぜ!」
「グラン! 待っておくれ、家を出てあんたどこへ行くつもりだい! 無茶は止めて、大人しく――」
そこから先の展開は覚えていない。
俺は若さに任せて、ひたすら家から離れたからだ。
覚えているのは、自分の息切れと胸の内からこみ上げる爽快感だった。
夢という名の過去の中で、若くて馬鹿な俺がただひたすらに前を向いていた。
いつもの夢はいつもの目覚めで終わる。
昼か、と陽射しで気がついて、俺はのろのろと体を起こす。
たっぷり寝たはずなのに、気持ちはどこかうすのろなんだよな。
けど、いつもの目覚めと違う出来事が俺を襲ってきた。
「おはようございます、グランさん」
「おはよう......って、まだいたのかよ。帰れって言ったろ」
はあ、と重いため息を一つ、俺は上体だけを起こす。
三歩の距離をへだてて、あの女の子がいた。
陽射しから推測すると、八時間は寝ている。その間、ずっと待っていたのだろうか。
「その、あの、お礼もろくに言ってなかったし。ご挨拶もしないまま帰るのは、ちょっと気が引けて」
「そうかい。義理堅いのは結構だけどさ、ここは君みたいなお嬢様がいるところじゃないぜ。分かってるんだろ?」
「......いえ。う、その正確に言えば分かりたくないというか」
女の子は言葉を濁し、視線を床にさ迷わせた。
改めて見てみれば、良い服を着ているな。深紅に染めた絹のドレスを無理なく着こなし、抱えた外套もしっかりしたものだ。
どう考えても、この界隈の人間じゃない。
ここらは、犯罪者二歩手前の連中がうろついてる下町だ。はっきり言って、この女の子なんかいいカモだよ。
「何か理由があって、ここに迷いこんだんだろうけどよ。君みたいな子猫じゃ、ここではいい獲物にしかならないぜ。下流の人間しか、ここにはいない」
「でも」
「でもじゃない。ちょっと冒険気分が味わいたいだけなら、とっとと帰るんだな。命あってのものだねだ」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、女の子は動かない。一分はそのまま固まっていただろうか。
ちょっとイライラしてきたので、思わず「おい」と声をかけてしまった。
ビクン、と女の子は肩を震わせる。
その目が狼狽えたように、俺の方をさ迷った。心の中に微かに後悔が沸く。
「悪い。びびらせるつもりはなかった。でもな、人にはその身分にあった場所が」
「無いんです、私には」
「ある――って、え?」
「私には居場所が無いんです。あの家にも、どこにも。だから飛び出してきて」
一言ごとに、女の子の声の調子が変わる。年に似合わない重く、暗い声になる。
「居場所?」
「はい。何をやっても楽しくなくて、家族の中からも浮いていて。辛くて、苦しくて。
確かに私はこの区域では生きていけないかもしれません。でも、あの家に戻っても一緒です」
その暗い表情は、俺の心の片隅を刺激した。
そりゃそうか。家出しようと決めた時の俺も、この女の子と似たようなことを考えていたもんな。
全てが面白くなくて、やたらとひがみっぽくなったりしてさ。
それで現状打破の為に、馬鹿な行動を取ったりするんだ。
髪をかき回しながら、俺は考えてみる。
放り出すのは簡単だ。面倒くさいなと思う心も嘘じゃない。
だけどさ、ちょっとくらい話を聞いてもいいんじゃないかな。
この子は律儀に八時間も俺が起きるまで待っていたんだ。その忍耐力に免じて、それくらいはしてあげてもいいだろうよ。
「ったく、分かったよ。とりあえず事情だけは聞いてやるから、その暗い顔はやめなよ」
俺の声に、女の子はパッと顔を輝かせた。「ありがとうございます!」と勢いよく頭を下げるので、逆にこっちが慌てる。
「話聞くだけだからな、勘違いするなよ。あれ、待て。今さらだけど、君、何で俺の名前を知っているんだ?」
「宿屋のおかみさんが親切に教えてくれましたよ。グラン・ハースさん、三十二歳。ベテラン冒険者として、ここらじゃちょっとした有名人なんですよね」
ちっ、あのおかみめ。俺が寝ている間に、べらべら喋りやがったらしい。
「その様子だと、それ以外にも色々聞いてるんだろうな」
「え、まあ細々とは聞きました。あ、自己紹介がまだでしたよね。リーリア・サンドリスと申します。お見知りおきを」
「これはご丁寧にどうも、というか一応確認するけどさ。君、帰る気ないよね?」
リーリアと名乗った彼女に、俺は問う。もはや半ば諦めているし、自分でも覚悟はしていたけどさ。
返ってきたのは、力強い「はい!」という返答だった。
「分かった......とりあえず事情を教えてくれよ。全てはそれからだ」
「ありがとうございます! ふつつかものですが、ご厄介になります!」
「一足跳びに話を飛ばさないでくれるかな!?」
やだねえ、若いってのは元気がよくて、調子がよくて、わがままで。
でも暗い顔よりは、笑顔の女の子の方が可愛いのは間違いないな。