勇気を下さい。
蒲公英様主催「ささのは企画」参加作品。
しばり:紙縒りをよる描写を入れること。
休日をあけてカレンダーを見てため息をつく。
また月曜日だ。
長い一週間が始まる。
会社に行くのが憂鬱だ。
一週間の最初の平日であることをかみしめていると、勝手にため息が出る。
見たくない顔があった。会いたくない人がいた。
好きで好きでたまらないのに、今この瞬間にも気になって仕方ないのに、
毎日会社で顔を合わせる度にどきどきして、何気ない会話を交わす度に心が浮き足立った。
もっと話をしたい、もっと彼のことを知りたい、もっと仲良くなりたい。
仕事の時間での会話だなんて、たかがしれてる。仕事の会話の合間の、何気ないやりとりなんて、一分未満だ。でもその一分未満のほんとにつまらないやりとりがとても幸せで、一日数回交わすだけの言葉に一喜一憂していた。
私の好意はきっと伝わっている。でもその種類がどんな物か、相手に伝わっていたかどうかは分からない。
恋心を知られてしまうのが怖くて、仲の良い同僚や先輩と同じような対応しかしていなかったから。
彼からの対応も、決して悪い物ではなかった。こちらからの好意が分かりやすいためか、比較的かわいがられている方だと思う。彼を含む先輩達の会話で、ネタとしてちょっとした会話で引き合いに出され、「可愛い後輩」「かわいがっている子」という位置づけをされていたぐらいには。
それはとても嬉しい事でもあり、時折どうしようもなく切なくなる立ち位置だった。
何気ない会話で気遣われ、とても親しい誰かをからかう引き合いで「可愛い子」と言われる。裏を返せば、一本線を引いている、遠慮がある、ということでもあるということだ。
これまでは単純に、年が離れているせいかとも思っていた。でも、そうじゃなかった。
その事に気付いたのは、最近出入りしている業者の子が、彼と楽しげに話しているのを見たときだった。
私とあまり変わらない年齢で、快活な子だった。新しくこの会社の担当になったその子は、あっという間に同僚達と親しくなった。彼女が来れば気軽に声をかけ、プライベートな会話を交えながら楽しそうに話をしている。はきはきと受け答えする彼女に対して、遠慮のないやりとりが交わされてゆく。きつい物言い、からかいを交えたやりとりも多いが、彼女はそれに対して真摯に受けたり、楽しげに返したり、嫌みのない心地よい反応を返す。その様子を見れば、きつい物言いもからかいも、そんな彼女を信頼しての言葉を向けているのだと分かる。
私はそんな風になれない。きっとそんなてらいのない言葉を、あんな風にわらって流せない。だからそれを羨ましいと思った。
そして彼もまた、私には見せない顔で彼女に向けて笑う。からかいを交えて声をかけ、朗らかに声を上げて笑う。
私は、そんな笑顔を彼から向けられたことがない。
最近は彼女が出入りする機会が大幅に増え、彼と彼女が一緒にいる姿を頻繁に見るようになった。私と彼は今まで通り、何にも変わることなく、普通に一言二言、言葉を交わす程度。
二人は、どんどん親しくなっていっているのに。
一度、彼に何気なく彼女のことを話題に振ったことがある。
「彼女、朗らかで、ほんとに雰囲気が良いですよね。私とそんなに変わらないのに、仕事もしっかりしてるし……」
彼の反応が気になるのを隠すように、彼女への憧れを滲ませて会話を振れば、彼はとても優しい笑みを浮かべて頷いた。
「……だな」
優しいその声に、心臓が止まりそうなぐらい衝撃を受けた。
確かに、そこには彼女に対する好意が滲んでいる。
頭の中が真っ白になった。
「わ、私も、彼女みたいになりたいです。憧れます」
動揺を隠すためにそんな言葉でごまかせば、彼は難しい顔をした。
「んー。それはちょっと嫌かなぁ。彼女はあれはあれで可愛いし、突っ走っていくのも悪くないと思うんだけどね。でも俺としては、むしろ七瀬さんの相手の意向をくんでサポートしていくタイプの人っていうのも、貴重だと思うな。ほら、ここの部署は自己主張の強い奴らが多いだろ? 君みたいな潤滑油は、ほんといないと困るんだよ」
彼は最終的に穏やかに笑って、私をなだめるようにそんな言葉で当たり障りのないことばでしめた。その言葉の意図するところが、動揺している私にはつかめなかった。
「佐々木さんにそう思ってもらえたのなら嬉しいです」
私も当たり障りのない言葉を返して、私は笑顔でその場を乗り切った。
落ち着いてから考えた。褒めてもらえたのだろうか、と。彼女より、私が良いと言ってくれたのだろうか、と。
そう考えて、すぐに我に返る。そう取れるように返されるのは、当たり前だ、と。本人を目の前にして、私より彼女の方が良いとは言わないだろう。
そしていつものように私と距離があるからこその、気遣いの言葉だったんじゃないかと気付いて、惨めさが増した。
それ以来、彼と彼女が一緒にいるのを見る度に、辛くてたまらなくなった。
いつものように何事もなく過ぎていく時間。昼休みに同僚と喫茶店でランチを取る。その時になってはじめて、今日が七夕だったと気付いた。
「そっか、七月七日か……」
そういえば最近はそんな何気ない行事に対して興味が薄くなってしまって、日付を見てすら何の日か気付かないことも増えてきた。
「老化現象ね」
と、まじめな顔をして指摘してきた先輩に「やめて下さいよ……」と、わざとらしくうなだれて見せる。
いろんな事に気持ちを奪われすぎて、そこまで気が回らなかっただけだ、なんて意味深なことを言うより、そういうことにしておきたかった。
七夕の存在を完全に忘れていたのは今年が初めてだったけれど、七夕だからといって特になにもしなくなったのは、もう何年も前からだ。
けれど、七夕と言えば「懐かしいな」という思いが自然とこみ上げる。
願いを込めて短冊をつるせば叶うかもしれない、なんていう期待はとうの昔に捨ててしまったけれど、今はそんな願掛けにすらすがりつきたいような焦燥感もある。
「七夕、か」
つぶやいてみれば、願い事が叶うというその行事はとても魅力的に思え、今の私をほんの少し後押しした。
会社に戻ってまだ少しあるお昼休みの合間に、思い立ってティッシュペーパーを一枚取る。
それを二センチほどの幅のところで細長く手で裂いた。
そして端っこからくるくるくるっと回してゆく。薄っぺらなティッシュの切れ端は、私の人差し指と親指によって一本の紐へと変わってゆく。そして、最後の一センチを残してよるのを止めると、今度はシュレッダー行き予定の書類から無地の部分を切り取って、細長い大きさに切りそろえた。
できあがったのは、真っ白のこよりと、真っ白の短冊。
ちょっと寂しいかなと思って、引き出しの中にあった蛍光ペンで短冊に色をつける。
黄色の蛍光ペンで書いた手書きのお星様と水色の斜線で全体を色づけ、お粗末ながらも少しだけ華やかになった即席の短冊ができあがった。
それから短冊の上部に、カッターの先でバッテンの切り込みを入れる。そこへこよりをねじ込むと、それだけで、ずいぶんとそれっぽく見えた。
紙縒りの端っこを持って目の前にかざすと、短冊がゆらゆらと揺れる。
あとは願い事を書くだけだ。
けれどいざ書こうとおもうと、なにも言葉が出てこなかった。
今、願うとすれば彼のことぐらいしか思いつかない。
彼のことが好き。でもその人の存在はとても遠くて、そしてお似合いの人がそばにいる。
「彼とお話ができますように」「彼が彼女とこれ以上仲良くなりませんように」「二人で楽しそうな姿を見ずにすみますように」「彼が私の思いに気付いて……応えてくれますように……」
胸をよぎる想いはどれも本当で、けれどどれもがどこまでも身勝手で、それは誰かに願うような物ではないと思えた。
短冊を前に意気地なしの自分を突きつけられてしまい、どうしようもないてため息が漏れた。
「あ、七瀬ちゃん面白そうなことやってる。短冊? 可愛い。手作り?」
突然、先輩がのぞき込んできた。
「はい。急に思い立って……」
「いいね、それ。私もやろうっと。こういうの久しぶり」
先輩は私をまねて同じように短冊を作ってゆく。「手書きの模様も良いね」なんて言いながら大きな花柄をピンクの蛍光ペンででささっと描くと「家内安全」と、何とも主婦らしいのか男前なのかよく分からないけど、至極真っ当な願い事を書いた。
そして私のまだ文字の書かれていない短冊を見る。
「七瀬ちゃんは願い事、どうするの?」
「どうしましょうか。なんて書いたら良いのかな」
「こういうのってさ、堂々と書いちゃうとちょっと照れるから、四字熟語に万感の思いを込めると、すっきりするかもよ?」
何でもないように先輩は朗らかに笑いとばすと、短冊を持って自分の席へと戻ってゆく。
四字熟語……恋愛成就、とか?
それなら、図々しく、ないかな。想う人は彼でも、成就を願うぐらいなら許されるかな。
そうこうするうちに昼休みが終わる。
彼が休憩から戻ってきた。あの朗らかな彼女と一緒に。
二人で食事を取っていたのだろうか。最近の二人の仲の良さは、ただの仕事相手とは思えない。
付き合っているのだろうか。
考えただけで胸が苦しくなる。
これ以上は考えない。
感情を振り切り、私は結局書けないまま短冊を机の端っこに寄せた。
彼女を嫉むのは間違っている。だって、私はなにもしなかった。ずっと見ているだけだった。気付いて欲しい、見つけ出して欲しいって願うばかりで、何の努力もしなかった。
嫉む権利なんか、ない。
そう、自分に言い聞かせた。
帰りに立ち寄ったスーパーには、大きな笹が飾られていた。そのすぐ脇にテーブルと、ペンと短冊が設置されている。
鞄の中に入った、行き場所のない自作の短冊の存在を思い出す。願いさえもどう書けば良いのか分からない。
無地のまま飾り付けてしまおうか。
そう思ったところで、ふと気付く。
私はいつもこうやって無言の願いばかりをしてきたのではないだろうか。自分の中に溜めるだけ溜めて、形にすることすらせず、行動を起こしもせず、そうして叶わなかったと、ただ嘆いて自分を哀れむ。その結果が彼との縮まらない距離だ。
私はうつむいて、そんな自分を嘲笑った。
そんな人間の願いが、叶うはずなんかないんだよ。
思いがけず得られる幸運ばっかり求めて、それが手に入らないと恨んで儚んで。なんて、バカみたいに惨めな人間なんだろう。
目の前の笹の葉を眺める。
たどたどしい文字で『けーきやさんになれますように』とか、丸いかわいらしい文字で『両思いになれますように』とか、いかにも適当に書き殴った文字で『金持ちになれますように』とか『世界征服!』とか。なんて勝手で自由なんだろう。そんな短冊をいくつか目にして、クスッと笑みが浮かんだ。
いいなぁって思った。可愛い願いも、ばかばかしい願いも。何となくの願いも、切実な願いだって。
そうだ。
願うのは、自由だ。そして、願って何をするのも、しないのも、それもまた自由だ。願ってそれで終わりで、叶わなくて笑い飛ばすのも、叶わないと嘆くのも、それもまた自由だ。
私は、どうしたい? どうなりたい?
いろんな願いが込められた笹の葉を眺める。たくさんの短冊に込められた、かわいらしい願いから、切実な物まで、たくさんの願いをつるして、さらりさらりと揺れている。
私は……。
鞄から短冊を取り出した。そして机の上に置くと備え付けのペンを取った。
どうか、どうか。
私は願う。
『勇気を下さい』
ようやく書いた願い事を私は自分の届く、一番高いところへとくくりつけた。
笹にぶら下がって、私の願いがゆらゆらと揺れる。
「……よし」
思い立ったが吉日。
願いが叶うことを待っていたって、なにも始まらない。
まだ彼は会社にいるはずだ。
短冊に書いたのは願いだけれど、願いじゃない。これは、私の決意表明。
私はきびすを返すと、ちっぽけな勇気を奮い立たせ、彼がいる会社へと向かった。
佐々木さんが受け持っている仕事は期限がだいぶ近づいてきている。そのために彼は最近毎日のように遅くまで残業していた。それを知っているから、彼がまだ会社にいる事が分かっていたのだけれど。
会社に駆けつけて足を踏み入れ、真っ暗な社屋内の向こう、ぽっかりと明かりのついた一部屋を目にして、私は唐突に我に返る。
確かにこの時間なら、彼一人が残っているだろう。つまりそれは、それだけ彼の負担が大きいという事でもある。そんなところにのこのこ顔を出して告白をするというのは、ちょっと考えなしじゃないだろうか。大変なときに。仕事中に。
考えて、くじけそうになった。
ためらいが渦巻いてしまうのは彼を思ってというよりも、本当はただ怖いだけなのかもしれない。言い訳をして勇気を振り絞ることから逃げ出してしまいたいだけなのかもしれない。
つい「また今度」って思いそうな気持ちを必死で振り払う。
ダメだ、ちゃんと、がんばらないと。
でないと、いつもと同じになってしまう。
どくどくと耳の奥に響く鼓動の音を聞きながら、私はゆっくりと光が漏れる扉へと足を勧める。
「……それは」
「そうですが、でも……」
近づくにつれ、室内からもれ聞こえる声があることに気づく。
えっ、と思わず歩みを止めた。
一つは男性の声、おそらく彼だろう。もう一つは……女性の声だった。
ほかにも残っている人がいたんだ。
意気込みが行き場を失い、戸惑い落胆すると同時に、少しだけほっとする気持ちもあった。
誰だろうと、ちょっとした好奇心でとりあえず少しだけのぞいてみることにする。彼が一人になる様子がなければ帰るしかないのだろうと、この後のことを考えながら扉に近づいた。
「……集中力が切れているようだな」
少しだけ苦笑がにじむ彼の声が途切れ途切れに聞こえた。聞き取れない言葉も多いけれど、ちょっとした様子ぐらいならうかがえるぐらいだ。
「すみません」
「また、なんか悩んでるんだろう?」
話してみろ、と言っているように聞こえた。
「仕事中ですから」
「残業だ、ちょっとぐらい休憩したところでかまわないだろ。俺も君と話したいと思っていた」
その言葉の後、少しだけ明るくなった女性の声がした。
「私も、……会いたかった……」
小さな声は途切れて、はっきりとは聞き取れない。
「また、なんか……てんだろ、話してみろ」
優しい声だった。
もう、相手の声の主はわかっていた。彼と親しい、あの子。
ぐっと胸が押しつぶされるような苦しさがおそってきた。
告白する緊張で高鳴っていた鼓動は、今度はひどく低い音を立てて、頭をくらくらさせながらガンガンと頭に響き始めていた。
「いろいろ、自信、なくしちゃって……。かわいげのない自分の性格も悪いって、わかってるんだけど、でも、私は黙ってにこにこして相手をたてるとか、そういうこと、苦手だし……。でもやっぱり思ったことはちゃんといいたいし……。そうやってムキになって張り合うから、かわいいなんて思ってもらえないって、わかってるんですが……」
あんなに明るく何でも意欲的に取り組んでいるように見える彼女でも悩むことがあるんだ、とか、驚きとともに聞いていた気持ちは、彼の言葉であっという間にたたき落とされた。
「君のそういうところ、俺は、かわいいと思うよ。確かに話を好意的に聞いてくれるのはうれしい。でも、一生懸命前向いてがんばる君は、俺の目にはやっぱりかわいく見えるよ」
頭の芯から冷えるように、何も考えられなくなった。
いつも何気ない会話で、私をかわいいとほめてくれる彼に、少しだけ期待していた。
でもその言葉は誰にでも……彼女にも当たり前のように向けられている言葉でしかなかったんだ。
そう思うと悲しかった。何より自分に向けられたのは、さらりと流されるような言葉ばかりで、こんな風に思いを込めた言葉ではなかったから。
そう感じた瞬間、胸の中で必死に積み上げていた勇気は、いとも簡単に崩れてしまう。
「でも、七瀬さんに比べたら……」
私? と、彼女の口から比較にあげられて、びくりとふるえた。
「それを俺に言われてもなぁ……七瀬さんとは比べようがないよ」
困ったような声があがる。それは、比較対象にすらならないということだろうか。呆然としながら聞こえてくる会話に立ち尽くす。
やっぱり、二人、付き合ってるのかな……。
めまいがする。
「そうですよね、変なこと言いました、すみません」
作ったような明るい声が返されている。
「そうだよ、答えにくいこと言わないでくれよ。照れるだろ?」
「実はちょっとからかっちゃいました」
「からかうなよ。おっさんは、若い子にはついていけないんだから」
二人の楽しげな笑い声が響く。
たわいのない会話は、気安さがあり、そこに、自分は入ることができない何かを感じる。
いつまでも、盗み聞きなんて、しちゃいけないよね……。
ショックを受けたままそうっとその場を離れる。
ぼんやりしながら、慣れた道を道なりに歩きながらふと思う。
あきらめるしかないのかな。
涙がにじんだ。結局、私はあそこに何しに言ったんだろう。盗み聞きして、ショックを受けて、逃げ帰って……。
ぼろぼろと涙がこぼれた。
短冊に書いたことを思い出す。
勇気なんて、出す機会すらなかった。
もともとふられる覚悟をつけていた。ふられた後の気まずさも覚悟していた。
なのに、ふられることすらできなかった。
ぼんやりと考え続けながら黙々と足を歩ませ続けていた足を、ふと止める。
ふられることすら、できなかった?
自分の考えたことに疑問を覚えた。ふられる事なんて、いつでもできるのに、なんでできないなんて思ったんだろう。
そうだ。確実にふられるとわかっただけのことだ。それと、気持ちを伝える伝えないは、全然別のことだ。行動を起こさないから、いつまでもうじうじと悩んでしまう。
そうだ、やっぱりちゃんと気持ちは伝えよう。
と、もう一度決心するものの、一度折れてしまった気持ちを立て直すのは、とても難しい。躊躇いながら、いつするか、今か、今度かと、会社に戻りかけて、でも、と思い直して帰りかけたり、それでもやっぱりと元立ち止まったり。そうこうしていると知らないうちに時間が過ぎていたようだ。
割り切れない感情に、頭の中はいっぱいいっぱいで、涙が止まってはまたこみ上げ、こみ上げては涙をふいて……と、繰り返して立ち止まっていたときだった。
「七瀬さん? どうしたの?」
突然かけられた声に、びくぅ!!と体が固まった。
よく知っているその声に、大げさなほどの動きで振り返ると、そこにいたのは佐々木さんだった。
「お、おお、お疲れ様ですっ」
変なうわずった声が出た。とっさに涙をぬぐって顔を上げると、佐々木さんが心配そうに眉を寄せて首をかしげている。
「……なんかあったの?!」
「だい、じょうぶ、です、なんでもない、ですっ」
「大丈夫なら、そんなに泣いているわけないでしょ」
彼が困ったような表情を浮かべ、心配そうにのぞき込んできた。
私は軽く目を伏せる。目が赤くなってるの、ばれただろうか。泣いたしこすったから、絶対に赤くなってるはずだ。
「もしよかったら、俺に話してよ。できる限りで力になるから」
私はとっさに首を横に振る。彼に告白することを本人に相談できるわけがない。
「い、いえ、大丈夫なのでっ」
心の準備ができてなくて、とっさに逃げようとしてしまう。
「こんな七瀬さんを放っておける訳ないよ」
彼が、私の腕を、優しくとらえた。そして私は逃げ道を失った。
公園とも呼べないような小さな広場は、夜になると人気なんかほとんどない。促されるまま彼の斜め後ろを付いていきながら、パニック状態だった私はだんだんと落ちつきを取り戻していた。とっさに逃げようとしてしまったけれど、むしろこれは告白するいいタイミングじゃないかと気付いたのだ。
今、するべきなのかもしれない。
心臓は、どくどくと体中に響くほどに胸を打ち始めている。
「七瀬さん、なんか飲む?」
自販機の前で彼が軽く私の肩を叩く。
チャリンと小銭を入れていく姿を見ながら、「いえ、大丈夫です」と首を振る。緊張してそれどころじゃなかった。涙も止まっていた。
「泣いてる可愛い後輩に飲み物ぐらいおごらせてよ。俺もかっこぐらいつけたいから。って、自販機のジュースおごるぐらいじゃかっこつかないけどね」
軽く笑う彼は、きっと私のために気を遣ってこんな風に明るく接してくれているのだろう。
そう思うと、少しだけ緊張が解けるような気がした。
クスッと思わず笑うと、気付いた彼が優しく目を細めた。
結局おごって貰ったリンゴのジュースを飲みながら、缶コーヒーをもった彼と並んでベンチに座り、無言のままにちみりちみりと飲み進める。
「それで。なんかあったの?」
しばらく続いた沈黙の後、飲み終えたのか、彼がベンチの脇に缶をとんと軽い音を立てて置いた。
あなたと彼女が親しくしているのを聞いてしまいました、なんて言えるはずもなく。私はミニサイズのペットボトルを両手で握りしめたまま、あからさまにごまかしていると分かる仕草になりつつ、再びちまちまと飲むことで、答えを先延ばしにする。
覚悟は決めた。……つもり。告白をするならこの二人っきりの今しかない。
けれど、この雰囲気で、泣いていたことを指摘されて、心配されて、この流れで、どういったらいいのか。
空気読まずに言えばいいのか、でも取り繕ってしまいたい、何となくいい雰囲気を作りたいなんていう自分を良くみせたい欲なんかもあって。だって、怖い。どう思われるかが、やっぱり、怖い。
どくん、どくんと、体を揺らすような心臓の音を聞きながら、緊張で体がこわばる。
「こんな時間まで、この辺りにいたって事は。仕事終わってから帰らずここに?」
ゴクンと息をのんだ。
ちみりと、飲んだか飲まないかぐらいのジュースで口の中をぬらし、ちいさく息を吸い込む。
「一回、帰りかけたんですけど、戻ってきたんです」
「忘れ物でも?」
静かに先を促す彼に、私は首を横に振ることで返事をする。
「その、佐々木さんに、会いに、行こうと、思って……」
「え? 俺? ……なん、で?」
「お話、したいことがあって……」
たどたどしく絞り出す言葉に、当惑した様子で彼が言葉を返してくる。耳の奥で、どくどくと血の流れる音がしていた。緊張して、心臓が波打つ度、体が一緒にはねているような気がする。
「えっと。急ぎのようでもあったの? うん、聞こうか」
声で私が緊張しているのが分かるのだろう。ことさらゆっくりと、優しく促してくれるその声に、私は一度口をつぐみ、それから、息をゆっくりと吸い込むと、膝の上でぎゅっと手を握りしめ、覚悟を決める。
うつむいて、じっと自分の手を睨み付ける。
「私、佐々木さんが、好き、です」
ようやく私は勇気を振りしぼった。
「……えっ」
驚いたその声に、ちらりと視線を向けると、彼がひどく驚いた顔をして私を見ていた。いたたまれなくてすぐに視線を手元に戻す。握りしめた手は、力が入りすぎているのか、極度の緊張なのか、小刻みに震えていた。
たぶん、一分にも満たない沈黙だった。でもその沈黙は、長くて、とても長くて、彼がどう反応するのか、気が狂いそうなほど怖いと思えた。
「ありがとう……」
しばらくして呆然とつぶやかれた彼の言葉に、私は震えながら小さくうなずく。そして、私は拒絶する言葉を覚悟しながら、彼の次の言葉を待った。
なのに。
「……うれしいな。俺も、ずっと七瀬さんのこと、かわいいと思ってたから………」
少し照れくさそうにそんな言葉を返してくる。
私ははねるように顔を上げた。彼の顔を見る。嬉しそうにも見える顔で笑っている。
……どうして。
優しい優しいその言葉は、私の胸をえぐった。
「……そんなこと、言わないでください。……ひどいです……」
呆然として彼を見つめる。
ぎゅうっと胸が締め付けられるように苦しい。
「……え?」
怪訝そうな彼の声がした。
目を見開いた彼の様子にはっとして目をそらす。
なじるなんて間違ってる。彼は告白してきた子に、いつも通りの優しく無難な言葉を言っただけだ。
でも、それは優しい分、耳に障る。
「……いえ、ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」
涙がにじんだ。惨めで、適当にあしらう程度にしか相手にされてないのが辛かった。
立ち上がると顔を上げないまま、深すぎるお辞儀をぺこりとしてから背を向ける。
私は、逃げたのだ。あんなに優しい声をかけられた後、明確な返事を聞くのが怖かった。なけなしの勇気を振り絞って、体よくあしらわれて、これ以上その場にいられるほど、強くはなかった。
「え? 七瀬さん?」
困惑した声が上がる。
「ちょ、待って……っ」
立ち去ろうとしていた私の腕が掴まれた。
「……やっ」
思わずふりほどいて、我に返ってから慌てて謝る。
「あ、ごめんなさ……っ」
こみ上げてきた涙で言葉が詰まった。
「謝らなくて良いから、理由を聞かせてもらえないかな」
弱り切ったその声と共に、しっかりと両手がとらえられる。
逃げることを許されなくて、こぼれる涙をぬぐえないまま、何度も首を横に振った。
「好きって、もしかして、そういう意味じゃ、なかった……? だから、俺が可愛いとか言ったから、引いた……?」
悲しそうな声がして、その内容が思いもよらなくて、驚いて首を横に振る。
「じゃあ、どうして……」
彼が言葉に詰まった。
その問いに答えられるはずがない。聞きたくない、怖い、酷い、なじってしまいたい、口に出してすっきりしたい、でもなんて言えばいいのか、どう最初の一言を言えばいいのかも分からない。渦巻く感情と恐怖とで、私からは躊躇うための吐息さえ漏らすことができない。
何でもないという意味を込めて首を振る。漏れる嗚咽をかみしめて首を振る。何度も、何度も。
長い沈黙が続いた。何も聞きたくなくて何も言いたくなくて、だからその沈黙は、とても短くてとても長かった。
彼から小さなため息が漏れた。呆れられたのかと、とっさに体が震えた。
「……七瀬さん、七夕のお願いは、した?」
脈絡の掴めない問いかけに、混乱したせいで体の力が抜ける。
「……え?」
「見て」
そう言って彼が空を見上げた。つられて私も顔を上げる。
夜空に、星が見えた。
「短冊、作ったんだって? 仕事中、机の上にあるのを俺も見たんだ。……叶うといいな、七瀬さんの願い事」
優しい声だった。胸が詰まるような思いで息をのむ。
優しさが苦しかった。こんなに気を遣わせて、私は何をしているんだろう。あの願い事は、あの決意は、一体何だったのだろう。今、自分のしている行動は、全部を台無しにしている気がした。
勇気は振り絞ったと、告白をしたことを言い訳に優しいこの人に心配をかけさせて逃げようとした。そんな中途半端な勇気が、本当に私がした決意だったのだろうか。
躊躇いながら顔を上げてみれば、とても悲しそうな顔をして微笑みながら私を見下ろしている彼がいた。
「……私」
何か言わなければと思って言葉を振り絞る。でも、何を言ったらいいのか分からない。このやりきれなさを、どう伝えればいいのか分からない。
彼の気持ちはどこにあるのか、彼女がいるのに、どうしてそんなことを言うのか。いろんな気持ちが氾濫しすぎて、どの言葉もが、今この場で言うには不適切に思えて、選ぶべき言葉が見つからない。
「私……」
うん、と、彼が言葉を促すように頷く。でも、溢れる感情とは裏腹に、言葉は何一つ出てこなかった。
勇気が欲しいって、願ったのに。気持ちを伝える覚悟を決めたはずなのに。
「七瀬さんが、何か思ってることあるのなら、ごまかさずに言って欲しい。俺が悪かったのなら直すようにするし、嫌な思いをさせたのなら、謝りたいし」
困ったように微笑みながらも、彼の低い声は思い詰めたような真剣さがこもっていて、私は慌てて首を横に振ってそうではないと否定する。
「違うんです、私、……私、願い事を、して……」
願ったのにうまくいかないジレンマが、思わず口を突いて出た。言いかけて、何を言おうとしているのかと我に返る。彼からすれば私が逃げたこととは全く関係のないことだ。彼に言いたいことはそんなことじゃないし、彼が聞きたいのもきっとそんなことじゃないだろう。
我に返れば、やっぱり何をどういえばいいのか分からなくて言葉を失う。
「何を、願ったの……?」
「た、たいしたことじゃ、なくて……」
せっかく彼が促してくれても、それを言うのは恥ずかしくて、ごまかすしかなくって、結局会話を途切れさせることしか言えない。
「もし、できるなら、俺が、七瀬さんの願い事を叶えてやりたいな。……とほうもないこと? それは、俺が手伝えるようなことじゃない?」
彼の優しさに涙がにじむ。そんなに心配をかけさせたのだろうか。
そんな風に言われると甘えたくなる。彼女がいるのに、少しぐらい困らせてもいいのかなって、期待したくなる。告白をしても、酷いふられかたをされずにすむかなって。もしかしたら彼女より私を……って。
「……ゆうきを……、勇気を下さいって……」
願いました。
かすれる声は、最後の方は音にならなかった。
彼が首をかしげた。
「何の、勇気?」
「……告白、したくて」
彼が目を見開いた。
「こく、はく……? え? 誰に?」
私の手をつかむ彼の手に、力がこもった。
さっき私がした告白は、そういう意味ではなかったと、彼の中で処理されてしまったのだろう。
彼を見つめれば、その表情にさっきまでの困ったような笑みはなくって、代わりに酷く動揺した様子が見て取れる。
「……好きです」
「……え?」
「佐々木さんが、好きです」
二度目の告白に、彼はとても混乱しているようだった。
「…ほん、と、に……? でも、さっきは……」
戸惑った声に、私は頷く。
「じゃあ、どうして逃げたの? 俺、七瀬さんのこと可愛いって言ったよね」
彼の声が、戸惑いを滲ませた物から、だんだんとこわばった物へと変わってゆく。
「ずっと気になってたって……俺も、七瀬さんのこと好きだってつもりだったんだけど、そこまで言う前に、逃げられちゃったけど、わからなかった? なんで可愛いって言ったのが、酷いの?」
その問いかけは、私を責めているようにも感じられて、体が震えた。
彼の低い声が怖い。目元が怒っているかのように鋭くなっている。
胸が軋むように痛い。
思い出すのは、さっき会社で聞いてしまった、彼の会話だ。
彼に会いたかったと、彼女は言っていた。そんな彼女に、彼はとても優しい声で「可愛い」と言っていて………
「……嘘です! なんで、そんな嘘つくんですかっ」
「……嘘って……」
彼が眉をひそめた。
「なんでそう思うの?」
怒ったような声だったと、それに気付くよりも胸の苦しさが私の感情をしめていた。
「さっき、会社で彼女に可愛いって言ってたくせに! 誰にでも言うくせに……! 佐々木さんの言う好きは、私にだけ向いてるわけじゃないのに、誰にでも向けるただの好意を、特別みたいに言うなんて、酷いです…!! 私の好きとは違うくせに、まるで同じみたいに言うなんて、嘘と一緒じゃないですか!」
苦しさに乗じて、一気に吐き出す。だから突然の私の癇癪に驚いた彼に気付かなかった。
「……え? ちょ、ちょっと、待って……」
「はなしてくださいっ」
「七瀬さん、待って、それ、ちょっと話を聞かせて」
「話すことなんてありませんっ」
必死に私をなだめようとしていた彼が、こらえきれない様子で怒鳴った。
「俺はあるから! 俺が好きなの七瀬さんだから!!」
その言葉を聞いた瞬間、こみ上げてきた感情に、涙が溢れた。嬉しいはずの言葉は胸に響くことなく、そのままこぼれ落ちてゆく。ただ、悲しかった。その言葉に信じられる物がなかったから。彼の様子が必死であるからこそ、まるでそれが真実のように聞こえるのに、信じられない現実が、悲しかった。
悲しくて、でもそれを嘘つきと否定するだけの力なんて残っていなくて、もうどうすればいいのかも分からなくて、溢れる感情を必死で押さえた。こぼれる涙を止められずに嗚咽がもれてゆく。
「……七瀬さんが好きだ」
立ち尽くして、泣き止むことさえできなくなっている私に、彼が静かにもう一度そう言ってくれた。
私はその言葉を否定するように首を横に振りながら、更に悲しくなって軋む胸を抱えて嗚咽をかみ殺した。
「ねえ、七瀬さんの言った彼女って、誰のこと?」
静かな問いかけに、びくりと体が震える。
「さっきって言ってたけど、もしかして……」
彼は、彼女の名前を挙げた。私は、頷くことも否定することもできずに口をつぐんだ。本当のことを言った方が良いのか違うとごまかした方が良いのか、今は自分の感情にいっぱいいっぱいで、そんなことすら判断が付かなかった。だから、自分の胸の内をさらけ出すことが怖かった。今、反応を間違えて、よくない方向に自体が転がってしまうかもしれないと思えて。
「あのな、その……」
言葉を選ぶように、戸惑った様子の声が聞こえてきた。
「あんまり深い意味はなかったけど、確かに彼女のことを可愛いと言った気がする。でも、それは七瀬さんに言った意味とは全然違うよ。その、慰めの意味しかなかったって言うか……。彼女だって、俺のことを相談相手としか思ってないし……」
言い訳じみた言葉が、ぼつぼつと私の頭の上から落ちてくる。
でも、仲がいいのは事実だ。聞きたいけれど、聞きたくない。私はただ、逃げたくて首を横にふり続けた。
「それに、彼女には他に好きな男がいる。だから彼女とは……」
相談相手なんて、男女が仲良くなるのにいい口実じゃない。なんて、どうでもいいことに対しては変に頭が働く。
「じゃあ、もし、彼女に、好きな人がいなかったら……」
ちいさくこぼれた私の呟きは、彼に向けた物ではなかったけれど、彼の耳にしっかりと届いていたようだった。
「そんなに、俺の言葉は、信用ないかな……」
切ない呟きが聞こえてきた。
「俺、結構わかりやすかったと思うんだけど」
困ったような声はため息交じりで、きっと彼は私に呆れたのだと思った。さっきまで拒絶していたくせに、拒絶されていると意識するととたんに怖くなる。彼に嫌われるかもしれないと思っただけで泣きたくなる。さんざん酷い態度を取っていたくせに、やっていることも、感じていることもめちゃくちゃだ。
「すみま、せ、ん」
足下をじっと見て、唇をかみしめる。
私をとらえている彼の大きな手が見えた。
「あ、いや……。その、俺、結構露骨にアピールしてたつもりだったんだけど、分からなかった……?」
アピール?
私は首を横に振る。
「その、結構面と向かって、可愛いって言ってたし、プライベートなネタだと絶対に七瀬さん一押し態度だったと思うんだけど……」
躊躇いがちな言葉は、途中くぐもって聞こえにくくなった。顔を再び上げてみれば、耳まで真っ赤にした彼が、口元を押さえて、心底恥ずかしそうに目をそらしている。
「七瀬さん、ほんとに、気付いてなかった……?」
「え、だって、あれは、私に気を遣ってくれてただけじゃ……。だって、佐々木さんも、皆さんも、みんな私には一歩引いてるし……」
彼は空いた手で大げさなほど手を振ってみせる。
「いやいやいやいや!! あれは一歩引いてるんじゃなくって、みんな七瀬さんの気を引きたくて必死で……!! 七瀬さん、普段からちゃんとしてるから下手な事言ってみんな嫌われたくなかっただけだと思うよ? って、ああ、もう、じゃあほんとに全然伝わってなかったって事?!」
やけくそになったように彼が悲鳴を上げた。
「そんなわけないです…!! だって、ほんとに、私には変に気遣われてて、お客さんみたいな扱いで……」
言いつのると、彼は、ああああっとうめきながら、やり場をなくした様子で頭をがしがしと掻いた。
「ごめん、それは半分ぐらい俺のせいだと思う! その、俺が本気で七瀬さん狙ってるの知ってた奴らは、俺に遠慮して引いてたはずだから……その、ごめん……」
いたたまれないとばかりに困り切った様子になった彼をぼんやりと見る。
「……佐々木さんは、皆さんとは気軽に話すのに、私には他人行儀なんだと……」
「違うから。好きな子にはいいとこだけ見せたいって思ってただけだから」
力なくそうつぶやいて、彼はおおげさなため息をついた。
「あー……もう、気になったこと、何でも聞いて。今なら俺、恥じらい全部捨てて何でも答えるから。もう、かっこつけるのやめる、七瀬さんに伝わってなくて泣けるから……」
彼がそっぽ向いて片手で顔を隠してぼそぼそとつぶやく。
「俺が恥ずかしさに堪えきれなくなる前に、聞きたいことがあるなら全部聞いてね」
「え? ……え?」
何を言われているのか、分からない。分かるけど、分からない。この状況が、なんだか嘘のようで、頭が働かない。
「私のことが、好きなんですか……?」
呆然としてつぶやく。つぶやいてからその内容のおこがましさに動揺して、その言葉を取り消さないと、とパニックになりかけたところで彼が頷いた。
「うん。俺は七瀬さんが好きだよ。毎日口説いてるのに全く手応えがなくて、あんまりにも華麗にスルーしていくから、言い出す勇気が持てなかったけど。結構前から、君を見ていた」
「え、でも、彼女と、私と、比べるまでもないって……」
「……? ごめん、何の話か、全く分からない」
彼が眉をひそめる。
確か、そんな話を二人はしていたはずだ。確か。そう思った記憶がある。混乱していて詳しくは思い出せなくて、どう伝えたらいいか分からずに躊躇っていると、彼が首をかしげながらも、何とか答えようとしてくれた。
「全然覚えがないけど、もし、彼女と七瀬さんを比べたとしたら、そりゃ、比べるまでもないのだけは、確かだけど……。俺がもしそんな会話してたとしたら、比べるまでもなく、七瀬さんの方が良いっていう答えしかしてないと思うんだよね」
片手で顔を覆った状態のまま、恥ずかしそうにチラッと彼が視線を向けてくる。
「……え」
比べるまでもなく、彼女の方が良いに決まっている、と思い込んだのは、私だ。
逆、だった……?
どうしよう。
かぁぁぁっと血が上っていくのを感じる。頭のてっぺんまで熱い。
その瞬間、私の中で「佐々木さんは彼女のことが好きなのに、私を適当にあしらおうとしているに違いない」って言う思い込みが突然にほどけた。頭の中をよぎるのは、何かあれば私を持ち上げてくれる、いつも優しく接してくれてた彼とのやりとりばかりだ。
恥ずかしい。なんてことをしちゃったんだろう。
彼の誠実な対応を思えば、自分の態度の悪さがあまりにも酷くて申し訳なくて、どうしたらいいか分からなくなる。
「ご、ごめんなさい……」
謝るぐらいしか言葉が見つからなくて、情けない声で、ようやくその言葉を絞り出した。
彼のため息に、ぎゅっと胸が縮む思いがした。
怒られても仕方がない、そう思う私に、かたい彼の声がゆっくりと響く。
「ねぇ、七瀬さん、そのごめんは、どういう意味かな。さっき好きって言ってくれたけど、ちょっと今、俺、自信ないんだよね。それは、誤解が解けたっていう意味かな。それとも俺と付き合うのはお断りって意味のごめんだったり、する……?」
眉間に皺の寄った彼の表情は、少し苦しそうで、どこまでも真剣だ。
私は慌てて首を横に振った。ちゃんと言葉にしないって事は、こんなに簡単に誤解を呼んでしまうんだ。態度だけじゃ伝わらなくて、気持ちだけでは空回りして、言葉も中途半端なら正確な気持ちには及ばなくて。
でも、本当なら、たった一言で通じていたはずの言葉だった。そして何より、それが伝わらないようにややこしくしてしまったのは、私自身だった。
「ご、誤解は、解けました! す、すきです。佐々木さんが、許してくれるなら、おつきあいしたいです……!! ごめんなさいは、私が勝手に勘違いしたせいで、それで、その……っっ」
必死で言葉を探していると、とんとんと、優しく背中を叩かれる。
「そんなに焦らなくてもいいから」
困ったように笑いかけてくれる彼の声は、どこまでも優しくて。さっきまでの緊張した様子で私の言葉を待ってくれてたのに、今はもう私のことを気遣ってくれている。私は、そんな彼の様子に、自分の愚かさを知る。こんなにも優しかったのに、穿った見方をして、彼を嘘つき呼ばわりしまった。彼の誠実さを疑りなじった。
「私、ひどい事言ったのに、腹は立たないんですか……?」
彼は首をかしげてから、苦笑する。
「うーん、そうだね。信じてもらえなかったのは、ちょっと辛かったかな。でも、話を総合すると、七瀬さんは嫉妬してくれてたって事だよね。そう思うとどの言葉も可愛いって思えるから、別にいいかなぁ」
少し考え込んでからゆっくりとそう結論を出した彼は、にこっといつもの優しい笑顔を浮かべる。
私はといえば、これ以上ないぐらい顔が熱くなって、でも、笑ってくれる彼から顔をそらすこともできなくて固まってしまう。
「えっ、え……っ、その、じゃあ、許して、もらえますか?」
「七瀬さんが、俺と付き合ってくれるのなら、ね?」
「それじゃあ、私のご褒美になってしまいます……!!」
抗議したとたん、彼がブッと吹き出した。
「ご褒美って……!! 七瀬さん、ほんとにかわいいなぁ」
何かおかしかっただろうか。彼は楽しそうに笑っている。おかげでもう、私の顔はさっきからずっと熱いままだ。たぶん自分で思ってるよりずっとテンパってる。きっと変なことを言っているに違いないんだ。
「いいよ、ご褒美で良いと思うよ。だって、願い事は勇気を下さい、で、勇気出してくれたんだから。がんばってくれて、俺と付き合うのがご褒美になるのなら、ご褒美にしといてよ」
「でも、私怖くて、逃げちゃって……」
「俺は七瀬さんが勇気を出してくれたおかげで、勇気を貰ったよ。俺が七瀬さんの願い事を残り半分貰っちゃったのかもな。そうだ。じゃあさ、二人で一つの願い事が叶ったってことにしようか?」
そんなの、聞いたことない。
ぽかんとして彼を見てると、彼は照れくさそうに笑った。
「俺も欲しかったよ。七瀬さんに告白する、勇気。二人でひとつの願い事が叶ったって事で、もう、いいんじゃないかな?」
「そ、う、です、か?」
もう、何が何だか分からない。だから、返す言葉も適当な相づちになってしまう。
「うん、そうだよ。ああ、もう、ほんとに、俺、こんな楽しい七夕、初めてだなぁ」
彼が楽しくてたまらないというように、クスクスと笑う。
何か違うって思いながら、でも彼が本当に楽しそうで、そして嬉しそうで、なんだかどうでもよくなってきて、私もつられて笑ってしまう。
「七瀬さんは可愛いし、つきあえることになったし、最高だろう? 七夕に願い事をするのも、悪くないね」
にこにこと笑いながらいう言葉が、全部私に向けられたことで、恥ずかしくて頷くこともできない。さっきから顔に血が上りっぱなしだ。
彼が私の両手を取って、まっすぐに目を合わせてくる。そしてゆっくりと、未来に思いを馳せるように語りかけてきた。
「ねえ、七瀬さん。来年は、二人で七夕をしよう。一緒に短冊を作って、それで二人でひとつの願い事を書いてつるそう。ね?」
彼に紡がれてゆく一年先の約束が、鮮やかに脳裏でイメージされる。
その頃はお互いいろんな事を言い合えるようになっていて、笑いながら短冊を作っているかもしれない。
まっすぐに見つめてくる彼を、私もまた見つめた。
でも、やっぱり一年後も彼はこんな風に微笑んでいるんじゃないかって思う。
だとしたら、なんて幸せだろう。
「……はいっ」
私はこみ上げる幸せをかみしめながら、しっかりと頷いた。
私は彼がしてくれた約束に思いを馳せる。
これは、決意表明。願いをかなえるために、そうなるように努力するために、私は願う。
どうか。その頃には彼のそばで自然にいられる関係になってますように。
主人公二人の名前に困っていたところ、五十鈴スミレさんが命名してくれました。
七瀬一葉
佐々木貴彦
名字・名前共に七夕にちなんだ素敵な名前、ありがとうございました!でも、二人とも名字しか出てこなくてすみませんでした……。
oh……。