終わりの時
・・・
・・・・
・・・・・
「おはよう、アン
元気? 身体の具合は何ともない?」
「・・・な、んとも・・・あ、りません・・・」
「———ごめんなさい、あんな事
死ぬほど痛いでしょうに」
「・・・い、たみ・・・どう、で、もいい・・・」
「・・・
さ、アン・・・ご飯にしましょう」
・・・最近、おかしな研究員が私に話しかける。
話しかけて、色々な事を教えてくれる。
ほんのり、甘い匂いのするお姉さんは
金色の髪に青い目をしていて———まるで第2の子みたい
だから、私はお姉さんの言う事をよく聞くようにした。
「ふふっ
今日はね・・・じゃーん!
アップルパイです!
他の皆には内緒よ?」
「あっぷる、ぱい・・・?」
「アップルはリンゴの事、
パイはパイ生地で色んなものを包み込んで作るお菓子よ
とーっても美味しいから! 味は保証するわ」
「・・・」
「・・・思ったのだけど
最近、黙って私を見上げる事が多くない?」
「・・・う、ん」
「自覚はあるんだ」
「う、ん・・・」
「・・・ふふっ、なんか可愛いな」
「・・・?」
お姉さんはいつも食べ物を持ってきてくれる。
別に私は何も食べなくても死なない
少しだけ苦しくなるだけで、ご飯なんて要らないの。
なのに、お姉さんは定期的に食べ物を持ってきてくれる。
何度も要らない、無くても困らないって伝えたけど・・・
“無くても困らないけど、有れば幸せになるのよ!”
そういって持ってくるのを止めない。
とてもとても、おかしな研究員。
今日はアップルパイ
パイ生地にリンゴなんて、もちろん知るわけない。
だけど“飴玉のおねえさん”が言うのなら
きっとこれはとても美味しい。
これも私のお気に入りになるんだと思う。
手のひらと変わらないくらいの丸いアップルパイ。
私は特に躊躇もせず、無造作にかぶりついた。
頬張って、ゆっくりと噛みしめると
口の中は甘い甘い風味と、甘酸っぱい味でいっぱいになる。
・・・やっぱり。
これも私のお気に入りだ。
最近、私はお姉さんの言葉の意味を理解してきたのだと感じる。
無くても困らない。
だけど有れば“幸せ”になる。
私はずっと“幸せ”を知らないで生きてきたんだと
心の底で痛感するの。
多分、第2の子は幸せを知らなくても
幸せの存在をどこかで分かっていて———だから虚しさを感じているのだと思う。
「どう? アン
これ、好き?」
「・・・す、き
だい、すき・・・」
「ああー! もうー!
可愛いなぁ・・・!
この頃の私の癒しはアン一人だけだよーっ!」
「・・・どう、いたしまして?」
「謙虚ねぇ・・・
本当に良い子
じゃ、そんな良い子にはこれどーぞ!」
そう言ってお姉さんは白衣のポケットをまさぐって
ようやく出したのは三つの飴玉。
ベリー味、チョコ味、マンゴー味
どれも“本物”の味は知らないけど
大好きな飴玉の味。
そもそもの始まりは飴玉だった。
だから、私は“飴玉のおねえさん”と呼ぶ。
私は何をされても死なない。
それを証明するために
だから、私は何度もお腹を切り開かれ
頭を潰され、心臓を生きたまま焼かれ、引きずり出され
腐らされ、凍らされ、毒され、痺れ、眠、狂、殺・・・。
それでも死なない。
そう、私は“生きている”のに“死なない”
だけど、痛みはあるの。
苦しみはあるの。
私の不死を証明する実験の一環で
毎日もらっていた唯一の食べ物であるお薬を
何週間も与えられないで過ごした事があった。
私はそれでも死ななかった。
・・・元より私はお薬さえも、研究員の前では飲んでも
あとから吐き出していたから
お薬を差し止められたぐらいはどうでも良かった。
でも、それからか
実験でもないのにお薬を貰えない日が続いた。
研究員に“いつものお薬は?”と聞いても
“ごめん、私が間違って飲んじゃった”と言うばかりで・・・
でも私には分かるの。
この人はお薬なんて飲んでいない。
私が飲むはずだったお薬は部屋の隅にあるゴミ箱の中にある、と。
だけど、構わないの
私は苦しくても痛くてもそれだけで済む“死なない”何か。
一応は“生きている”らしい何か。
私は別に、なんでも良かった。
そんな何も貰えず、ずっと苦しい状態が続いていたある日
“飴玉のおねえさん”がやってきた。
おねえさんは慌てた様子で
私の居る部屋の扉を開けて入ってきた。
私に向ける目が他の研究員と明らかに違っていた。
なんだか、きらきらしている目だった。
青い目は第2の子と同じだけど・・・おねえさんの方が綺麗な
いや、よく似合う目をしていた。
『大丈夫!?
もうずっと、栄養薬を摂ってないんでしょ!?』
なんだ、そんな事か。
別にどうでも良いような事のために
このおかしな研究員は飛んできたんだ。
おねえさんは薬と、水の入ったパックをくれた。
どうでも良い事だけど
目の前で嫌がったり、吐き出したりすると
“この前”は凄く怒られて殴られたから私は薬を飲んだ。
どうせあとで吐くから、別に良いの。
なのに
『ねえ、あとで吐くんでしょう?』
おねえさんはそれを許してはくれなかった。
怒りはしなかったけど
おねえさんは淡々と言った。
拒食症とか、あなたのためにならないとか、
私にはよくわからない事を何度も何度も言った。
よくわからなかったけれど
おねえさんはどこか必死で、きらきらしていたから
私は何も言わないでよく聞いた。
そうしてしばらくお姉さんのお説教を聞いていると
お姉さんは言った
『あのね、貴女が拒食症なのはやっぱり
満たされていないからだと思うの
そりゃ・・・こんな食事じゃ当然よね
私だったら一日だって耐えられないわ
それを貴女は生まれた瞬間からずっと続けて・・・
だからね、手っ取り早く満たされれば
きっと拒食症も治ると思うの
手っ取り早く満たせる物と言えば
食の満足よね?
それに知っている?
甘い物はね、食べると幸せになるの
甘い物を摂取すると結果的に脳は幸せの元になる成分を分泌するの
それに貴女、痩せすぎだよ
カロリーをもっと摂取しなきゃ
じゃなきゃ、いつの日か、へし折れちゃいそう』
そう言ってお姉さんは私に飴玉を差し出した。
初めて見るものに私は困惑した。
これを、私に食べろと言っているの?
そんな私の困惑が、見て取れたのか
お姉さんは慌てて説明を始めた。
『包み紙を剥いて、食べるんだよ?
あー、人工物感満載の見た目だけど
ちゃんと食べれるよ?
美味しいから・・・とにかく食べてみて!』
お姉さんは包み紙を取って
飴玉を私の手に渡してきた。
赤い、だけど透き通った丸い玉。
薬で慣れているとはいえ
これだけ大きいの、喉を通るかな。
まあ、私は“死なない”から大丈夫。
私は薬を飲むように
飴玉を勢いよく口の中に放り込んだ。
『え、そのまま飲み込もうとしている!?
ああああああああ!!
だめだめだめ! そうやって食べるものじゃないよーーー!?』
そうしたら、慌てたお姉さんが私の背中を慌てて叩き出す。
もうすでに喉の最初のところにあるけど
吐くのは毎回の事だから私は自分の手の上に吐き出した。
・・・よく慌てる人だな。
私はそう思ってお姉さんを見上げた。
すると、お姉さんの目からは大粒の涙が零れていた。
涙、これは人間の生理現象。
眼球を保護したり、刺激を受けて反射的に流れたり。
それは学習プログラムで習った事だったが
実際に零れる涙を見たのはきっと初めて。
『———ごめんね、ごめんね
分からないよね、そうだよね・・・
薬しか食べた事ないんだから、味わって食べたり
噛んで食べたりなんて・・・分からないよね・・・
ごめん・・・ごめんね、貴女をこんなにしたのは私たちだもんね・・・』
お姉さんは私を抱きしめて
何度も何度も謝った。
お姉さんの気持ちなんて、もっと分からない事だから
私は何も言わないで抱きしめられたまま
お姉さんを見上げ続けた。
・・・そういえば、これだけ直接見続けて大丈夫だった人は
お姉さんが初めてだ。
きらきらしているのが、涙だった事に気付いたのは
それから間もなかった。
お姉さんは初めから泣いていたんだ。
こんな事はもちろん、初めてで困惑していたけれど
原因は私が飴玉をちゃんと食べれなかったから。
だから、私はお姉さんの腕を押しのけた。
押しのけた時、お姉さんはこの上なく悲痛な顔をしたけど
それは一瞬で崩れた。
私はまだ手のひらに残っていた飴玉を口の中に含んだ。
少し前、学習プログラムで習った事を覚えていた。
“舌は食べ物を飲み込む際、言葉を喋る際に使われる器官
また、味覚を感じる感覚器でもある”
さっきお姉さんは“味わって食べたり”と言った。
味わうという事は味覚を感じる事。
だから、お姉さんとしてはいきなり飲み込むんじゃなくて
舌の上に乗せて“味わって”欲しいんだ。
それさえ分かればあとはやるだけだ。
舌の上で飴玉をしばらく転がす。
最初は単なる異物感だけで、
なぜお姉さんが“味わう”事にこだわるのか分からなかった。
だけど、次第に
今までに感じた事のない感覚が口いっぱいに広がっていった。
酸味の強い、だけどほのかに甘い味だった。
人生で初めての“味”に
私は衝撃を受けた。
お姉さんが私にこれを教えた意味と
その大きな価値に気付かされて、
私はやがて不思議な気持ちに苛まれた。
『・・・!!
ど、どう・・・?
美味しい?』
『お、いしい・・・!』
『ふふっ・・・!
良かった、良かった、本当・・・っ
良かったわ・・・!
それね、ベリー味よ
私の大好物、お気に入りなの
私ね、思うんだ
甘い物があれば世界中を幸せにできるって・・・
きっと貴女も幸せになれるから・・・』
お姉さんの涙は止められなかったけれど
お姉さんは笑った。
笑いながら、だけど泣いていた。
私は初めて———人が大好きだと、思えた。
・・・この日から、お姉さんは
こっそりお菓子を持ってきてくれるようになった。
お姉さんは私の事を“アン”と呼ぶ。
フランス語で、1という意味。
最初の作品である私をフランス語で言い換えただけの呼び名。
だけどお姉さんは大事に大事に、私の呼び名を口にする。
三つの飴玉を受け取り
私はお姉さんをもう一度見上げた。
おかしな研究員。
甘い物ばかりポケットに詰め込んでいるお菓子好きな人。
私のことを、物じゃなくて人扱いしてくれる唯一の人。
———大好きな人。
あの日から、私は飴玉が大好きだった。
お姉さんも大好きだった。
「ふふっ・・・
そんな風に見上げても何も出ないよー?」
「知って、る・・・」
「すごい
そういえば、アンは周りに何があるのか
見てなくても分かるんだよね」
「う、ん・・・」
「じゃ、私が何を企んでるか
分かる?」
「・・・?」
「さすがにそれは分からないか
博士はアンにはテレパシー能力があるって思ってるみたい
だけど、違うね」
「飴玉のお姉さん、な、にを・・・たく、ら、んでる・・・?」
「・・・今、私のこと
詰まらないで言えた・・・!?」
「・・・飴玉のお姉さん」
「ええええ!!? すごいじゃない!
言語障害を自分で克服し始めているじゃない!
すごいわ、すごい・・・!」
「・・・は、ぐらか、さない、で?」
「・・・ねえ、アン」
「な、あに・・・?」
「本物のベリー
いつの日か、食べてみたいと思わない?」
「・・・本、物・・・?」
「そう、世界中のベリーを食べ尽くしてみようよ?
ストロベリーに、ラズベリー
ブルーベリー、それからクランベリー
ブラックベリー、マルベリー、ボイセンベリー
グースベリー、クロスグリ、アカスグリ・・・
きっと楽しい、きっと美味しい、きっと幸せだ・・・」
「いい、の・・・?」
「良いんだよ!
悪いなんて、誰にも言わせないわ!
だから、一緒にベリーを食べよう?
アンのためになるわ・・・!
それとも、食べたくない・・・?」
「・・・!
ううん・・・飴玉のお姉さん、と、食べたい・・・」
・・・
・・・・
・・・・・
だから、どうしてなんだろう。
どうして
お姉さんはもう笑わないんだろう。
ちょっとした事でもすぐ泣いたり
笑ったり・・・していたのに。
真っ白な壁に背中を預け
足を伸ばして座っているお姉さんは
顔を深く深く俯かせたまま、まるで笑う気配がない
まるで泣く気配がない。
お姉さん。
飴玉のお姉さん。
どうして・・・。
それは4日前の事。
いつものように実験で部屋を移動した時。
珍しく博士が実験室にいた。
博士と一緒に飴玉のお姉さんは震えながら立っていた。
いつもとは明らかに様子が違っていた。
お姉さんが実験に立ち会う事はそう珍しくない。
研究員なんだから、当然だ。
でも研究員として
私を勝手にアンと呼んだり
こっそりお菓子を差し入れたり
外の世界の事や、人間がどういうものか、
そして大事にしなきゃならない感情や命の事を教えていると
バレるとダメだから、実験中のお姉さんは私とは目を合わせてくれない。
だから、私とお姉さんは嘘をついた。
無関係なふりをした。
そうしなきゃならないのに・・・。
その時のお姉さんは真っ直ぐ私の方を見つめて
怖い顔をしていた。
博士だって、いつもは実験なんて立ち会わないのに。
『最初の作品』
『は、い・・・』
『イギリスにはこんなことわざがある
“好奇心は猫をも殺す”』
『し、って、いま、す・・・』
『・・・驚いたな
まだ学習プログラムでは教えていないはずなのだが』
『っ・・・!』
博士はいつも怖い。
訳が分からなくて、だから怖いの。
その日は、それが最高潮に達したように見えた。
『やはり、クロエ
お前がどうしようもない無能である事は明らかだな』
『・・・っ
貴方は間違っています』
『ほう、なぜだ?
しっかりと私の間違いを証明してみせろ』
『あの子に最終兵器なんて無理です!
アメリカに売り渡しても、兵器として機能するはずなんてない!
なのに貴方はあの子に兵器である事を強要している!
あの子はまだ13の子供なんですよ!?
それどころか、貴方の非人道的な教育のせいで
精神年齢は実年齢のずっと下です・・・!!』
飴玉のお姉さんは、私には初めて見せる表情で
初めて怒ってみせた。
すごい勢いに博士に詰め寄り、なじるように論を展開する。
『・・・残念だ
お前はそもそもの根本を見誤っている』
『どういう意味ですか・・・』
『そもそも私は最初の作品を兵器として作っていない』
『っ・・・!?
では、あの子に何になれと言うのですか・・・!!?』
『悪魔になれと言っている』
『なっ・・・!? なんて—————』
博士は言う事を言うと
無造作にポケットをまさぐる。
飴玉のお姉さんは嬉々としてポケットから飴玉を取り出してくれるのとは
まったく違う雰囲気に、私は大きな胸騒ぎを感じた。
『だ、め・・・それ、は・・・』
博士のポケットの中にあるもの。
それが何なのか私には分からなかった。
入れ物のような何か。
だけど、少しだけのカラクリがある様子は
それも良い意図があるようには見えない作りに
私は咄嗟に言ったけれど。
全ては一瞬だった。
飴玉のお姉さんが、何かを言いかける瞬間。
破裂音が、その声を覆った。
破裂音と、小さな閃光
そのあとに広がったのは鉄みたいな生臭い匂い。
何もかもがゆっくりに思えた。
お姉さんがほのかに見開いた。
表情は変わらなかったけれど、明らかに脱力しているのが分かった。
完全に脱力したお姉さんは後ろに倒れ掛かる。
だから、私は、“止めて”から
お姉さんを抱きとめた。
そして、解いた。
明らかにおかしかった。
お姉さんは
私が抱きとめているのに、何も反応しない。
お姉さんのお腹から真っ赤な血が溢れて止まらない
10秒に3回は瞬きするのに
今は1回だって瞬かない。
胸の浮き沈みがなく
お姉さんは完全に呼吸をしていなかった。
心臓も、あれだけ忙しなく鼓動していたのに
もう・・・。
『は、くし・・・
飴玉のお姉さん、に・・・なに、を・・・』
『撃った
どうやら貫通したようだな
別に狙ったわけでもないが、急所に当たったようだ』
『・・・は、くし
おね、がい・・・おねえさん、を・・・
たすけ、て・・・おねえさん、い、ま・・・痛、い・・・
痛、いの・・・なお、して、あげて・・・!』
『駄目だ
お前の能力でクロエを蘇生してみせろ』
『そ、せい・・・?
わたし、の・・・ちか、らで・・・な、おせる・・・?』
『ああ、生き返らせてみせろ
手段は問わない
どんな状態でもクロエが息を吹き返したら
素直に認めてやろう』
博士は怖い。
けれど博士が言うのなら、無理な事ではないはず。
私は飴玉のお姉さんに向き直り
原因だと思う、お腹の傷に手を当てた。
切れた皮膚組織に筋肉、破れた血管
患部は把握した
奥から順番にすぐにつなぎ合わせて、
これ以上の出血を止める。
そうすれば、痛いのは治るはず。
目を閉ざし
お姉さんの傷を治すために集中する
ひとつずつ、ひとつずつ順番に手作業でつなぎ合わせるように
傷を治癒していく。
大丈夫、大丈夫。
きっとお姉さんは救える。
私は大丈夫だった。
だから、お姉さんもきっと大丈夫・・・。
『・・・もういい』
『い、や・・・どう、し、て・・・!』
『もう再生し尽している
死体の傷の治癒は出来ているが
まるで生き返る気配はない』
『ど、うして・・・っ!
だ、って、傷は、なお、った・・・!!』
『・・・!!
はあ、私とした事が前提ミスだ』
『なに、が・・・』
『そもそもお前は命の意味を分かっていない
だから、蘇生すら叶わないのだろう
せめて、吸血鬼かゾンビ化はするかと思ったが
全くとんだ想定外だ』
『い、のち・・・?
そせ、い・・・?
なに、なんな、の・・・!?
ど、うして・・・わたし、は・・・だい、じょうぶ、なのに・・・』
『最初の作品
よく聞け、命というのは戯れに生み出され
そして潰え行くものだ
吸血鬼であろうと、何だろうとそれは絶対なんだ
一人で生まれ、一人で生き、一人で老い、そして一人で死んでいく
それが命だ、それが人間というものだ
だから傷を治した程度では蘇生しない
失われた命は帰ってこない』
『っ・・・!!』
お姉さんは、“死んだ”
死んで、もう帰ってこない。
—————どういう意味——————?
『はく、し・・・』
『なんだ』
『でて』
『・・・何?』
『出て、いって・・・!!!』
私は振り返らず
あとは“何もかもを巻き上げる”だけだった。
実験室の床に敷かれたタイルを天井めがけ引っ張り上げる。
強力な上への引力に引き寄せられ
床から剥がれた正方形の白タイルが、鋭利な刃物のように鋭く飛ぶ。
博士はあまりもの事態に凶器タイルが舞い上げられる前に
実験室から脱出していた。
何もかもを上へ、引っ張り上げる。
壁に貼られた白い壁紙が、めりめりと上へと剝がれていく
だけど私と飴玉のお姉さんの周囲だけは引力を無視していた。
引き寄せられるものがなくなると
今度は部屋全体が軋み、歪みだす。
それは部屋だけではない
研究所全体がそのような現象に見舞われていた。
そう、こんな場所なんて。
何もかも消えてしまえば良い。
忌々しい。
ついに引力に負けた壁がぼろぼろと壊れ
中に埋め込まれた鉄筋が剥きだしに晒される。
天井も吹き飛び
脆い壁も、何もかもが上空高く舞い上げられ
あとは建物を支えていた鉄筋の数々が
かろうじて建物の形を物語る。
もう室内ではなく
外だと言っても良い有様だった。
その気になれば逃げる事も出来る———。
もし逃げれば、博士に最高の意趣返しが出来るだろう。
でも・・・飴玉のお姉さんの企みを理解した今———
もう———外なんて、どうでもいい。
今なら分かる。
“世界中のベリーを一緒に食べよう”
その意味は・・・一緒に研究所から逃げようという・・・。
でも、お姉さんがこんな事になったあとでは
もう外なんて・・・。
今は、ただお姉さんだけが大事だった。
少し前
お姉さんは星空の美しさを教えてくれた。
といっても言葉だけで
実際に見たわけではない。
ずっとずっと、頭上には色んな惑星が巡っている事を感じてきた。
その岩肌の大地を、その激しい環境すら
私には分かるから星なんて、何が良いのか分からなかった。
でもお姉さんは言った。
分かることと、人の肉眼で見る事は違うと。
お姉さんが言うのならば、星空は美しく見えるのだろう。
でも、それはお姉さんが言うから。
今、私が空を見上げれば星空を見る事が出来るだろう。
でも、もう見ても楽しくない。
もう・・・幸せなんかじゃない。
お姉さんは事あるごとに
幸せを説いた。
私はその意味をずっと理解できなかった。
幸せなんて、分からない。
だから何も言えなかった。
だけど、今なら断言できる。
私はもう、幸せなんかじゃない。
飴玉のお姉さんがこんな状態のままじゃ
生きても楽しくない。
飴玉のお姉さんを、何としてでも救うの。
私がお姉さんが私にしてくれたように
お姉さんに付き合えば
何でもすれば、きっと
不可能じゃない
だって、飴玉のお姉さんはここにいる。
傷は治った。
心臓は、脳は、肺は、まるで機能しないけれど
お姉さんが自分で動かせないのなら私が動かせば良いだけじゃないか。
私と違ってお姉さんは弱いんだ。
だから毎日ご飯を食べさせて
毎日、お話をして・・・毎日“治せば”
きっとお姉さんは起きてくれるはず。
そう、私なら出来る。
諦めなければ・・・きっと・・・
鉄筋を捻じる。
歪んで、引きちぎる。
無残に残された鉄筋の数々を
私とお姉さんの周囲を取り囲むように
突き立てた。
私が壊して無くした壁の代わりに
鉄筋を使えば、他の人たちにはどうにもならないと考えた。
多分、上手くいくと思う。
・・・
・・・・
・・・・・
それから私はお姉さんの面倒を見続けた。
肺を動かし、心臓を動かし、血液を巡らせる。
巡らせた血を脳に送り、脳を動かす。
すると、ほんの少しだけ反応を示してくれたけど。
それから一日半ほど経ってから
異変が起き出した。
お姉さんの元に虫が群がり出し
お姉さんのお腹の色が変わった。
腐敗が始まったのだ。
私は虫を手当たり次第に焼き払った。
潰した。凍らせた。毒した。
お姉さんの腐敗は仕方がないから力尽くで治して
そしてそのまま“止めた”
大丈夫、私も腐らせられたけど
とても辛かったけど生きているから。
毎日のように研究員が来たけれど
私は地面を抉って、脅かして追い出した。
だけど、お姉さんのための食事は要求すると
それからというもの同じ女研究員がご飯を持ってくるようになった。
なんでも、お姉さんは1日に3食食べるから
1日に3回ご飯を持ってきてくれた。
その人との間では会話はない。
でも不思議な雰囲気を纏っているのが分かった。
鉄筋の部屋モドキの中に
お姉さんと一緒に閉じこもってから4日。
いつものように鉄筋の隙間でその女研究員から
お姉さんの朝食を受け取る。
「ねえ」
いつもと違うのは、そっちから声を掛けられた事。
何故か、その声を聴いた瞬間
とてもとても懐かしい気持ちになった。
すっかり、何年も経ったみたいな———
「貴女、クロエをどうする気なの」
「・・・き、えて」
「—————アン」
「・・・」
「貴女なら、もう・・・分かっているんでしょ
クロエからよく聞いているわ
貴女がどれだけ頭が良いか、どれだけ素敵な子か・・・」
「・・・」
「聞いてくれるのね
ありがとう・・・クロエの面倒を見てくれていたのね
本当にありがとう・・・でも、聞いて頂戴
クロエにはパパがいるの、ママがいるの
クロエの面倒はパパとママが、そして私が見るべきなの・・・」
「ぱ、ぱ・・・?」
「父親、母親っていうことよ
貴女には少し理解しがたい存在かもしれないけれど・・・
クロエのパパとママはクロエに会いたがっているわ
私もクロエの顔が見たいわ」
「・・・だ、め・・・
だめ・・・なの・・・」
「・・・いいの
優しいのね、ありがとう
でも私もパパとママも、どんな状態でも良いから
クロエに会いたいの
だって、どんな状態でもクロエはクロエだから・・・」
「・・・」
「ありがとう、本当にありがとうね
アン・・・クロエを愛してくれて
クロエを・・・私の妹を、守ってくれて」
「っ・・・!!」
そう、初めてこの人が来た時から
私は理解していた。
この人は飴玉のお姉さんと“同じ”だと。
上手く説明は出来ないけれど
顔立ちや喋り方、癖とか指紋まで
似ている、似すぎている。
だから、その人の諭すような言葉に
ずっと張り詰めていた精神が、ふっとほどける。
「・・・わ、かった・・・」
「・・・ありがとう」
———そうして私は鉄筋の要塞を、解体した。
その間、その人との間に会話はなかった。
やがて、お姉さんを覆っていた影が消え
お姉さんの姿が白日の下、晒された。
「・・・4日前に、死んだと聞いたけれど」
「・・・治、して、止めた、の」
「・・・そう」
全く腐敗が進んでいないどころか
未だにどこか生気を宿す姿にその人は思わず声をあげる。
その人はそれ以上はお姉さんを背負う時に呟いた
“死後硬直もなし”という、どこか機械的な言葉だけで
何も話さなかった。
お姉さんを背負って、力強く歩き出したその人———
アビゲイルはいつしか遠く遠くへと、姿を消した。
・・・この4日間で、私は思い知った。
思い知らされてしまった。
死の何たるか、命の何たるか、生の意味とは・・・。
結論は出なかったけれど
分かった事が一つだけ。
私と他の人は、何もかも違う。
私のような治癒能力はなく
私のような不死性はなく
私のような何でもできる力もなく
一人で生まれ、一人で生き、一人で老い、そして一人で死んでいく
それが人間—————それが私じゃない生き物たちの理。
外はあまりにも生命が溢れ
生が生を生み、生が加速して死が訪れる。
生まれ生まれ生まれ、そして死んでいく。
—————私には到底、外の世界なんて生きていけない。
何をしても死なない私が
何をしても生きられない私が
外の溢れる生命に耐えられるはずがない。
外の溢れる絶命に耐えられるはずがない。
だからもう—————外なんてどうでもいいの。
「だ、から・・・
わたし、を、連れ、かえ、って・・・」
最後に記憶に残っていたのは
頭の中の意識が潰えるような感覚。
まるでお姉さんが崩れ落ちていった時のように
私の身体も脱力して、言う事を聞かなくなった事を認知した瞬間。
刹那に垣間見たのは、真っ白な白面の、“美しい”男の姿だった。
そうして、私は意識を失った。
—————私はその日から飴玉が大好き。
特にベリー味の飴玉が。
—————私はその日から飴玉が大嫌い。
飴玉はお姉さんそのものだから。
その日から—————何を食べても味が分からなくなった。
もう、甘い物なんて—————知らなくて良い。




