始めの印象
「―――可哀そうに」
「それは本気で言っておるのか」
「ええ、もちろん」
「・・・ならば、くれぐれも
その考えを博士に勘付かれないよう気を付ける事だな」
「私を心配してくれているの?
優しいのね、イヲナは」
「―――っ」
その女は、本気でそんな事を抜かした唯一の研究員だった。
最初の作品
アルビノを患った絶世の美貌を持つ少女だが
同時にひどく心を患っていた。
下手打てば、アルビノの症状よりも遥かに深刻に。
だから、彼女は研究所で最重要な実験体でありながら
研究員たちからはひどく煙たがられていた。
———私もそんな研究員の一人であった。
私は作品にして、研究員。
研究員にして、博士の奴隷。
そんな異色の肩書を持つ私も
彼女と同じくらい気味悪がれても仕方がないが
しかし、彼女は“それ以上”を行ったのだ。
ある時
彼女の経過観察をするためにカメラで撮影していた研究員がいた。
彼は至って善良で平凡な男だった。
だが、彼はある恐ろしい事に気付いてしまった。
マジックミラーで隔てた一室の向こうにいた
最初の作品は横たわっていた。
横たわったまま、こちらの方を見据えていたのだ。
あの恐ろしい紅の瞳を見開いて。
男性研究員は、
“なんてことの無い、向こうからみれば窓ガラスは鏡。
あの作品はただ鏡が物珍しくてこちらを見ているに過ぎない”
そう解釈して・・・だが確かな視線に怯えていた。
男はやがて、用を足しに席を立った。
男が監視部屋を後にした
次の瞬間、カメラの捉えたところによれば
最初の作品はそっと、目を閉ざした。
まるで眠るように。
まるで、目を休めるように。
そうして、男が監視部屋に帰ってくる。
部屋を出ていく時には気付かなったが
ある気味の悪い事に、気付いてしまった。
それまで目を閉ざしていた最初の作品が男が帰ってくるなり
再び目を見開きこちらの方に視線を送ったのだ。
男は椅子に座らず、監視部屋を往復した。
無言だったが、往復する足とは別にその目は最初の作品に向けて。
———最初の作品は男が動くのに合わせて、目で追ったのだ。
マジックミラーの向こうの男の存在を、確かに認識して。
男はその事を確認すると監視部屋を後にした。
後にして、最初の作品の居る部屋に飛び込んだ。
やはりこちらを見上げる最初の作品の胸倉を掴んで
男は自分より何十歳も幼い彼女を殴った。殴り続けた。
日頃のストレスをぶちまけるように、罵詈雑言を浴びせながら。
なんてことの無い。
ただ見られていただけ。
だのに、男はこれまでにないほど激昂した。
いや、誰でもその事実に気付かされれば
心底戦慄して、彼女を忌み嫌うだろう。
だが彼女はその先を“行かせる”のだ。
彼女は人の醜い部分の全てを露呈させる。
ただ見つめるだけで、
男を凶行に走らせるほどに。
彼女の真っ赤な瞳は“精神破壊的”なのだ。
彼女に関わっただけで、
自分が壊される事を無意識に人は理解しているのだ。
関わっただけで、自分の本性を暴かれる。
いや当人の言葉を借りれば“性根を腐らせられた”のだ。
だから人は彼女を“初めから”忌み嫌うのだ。
———だとすれば、私は人に非ず。
私はマジックミラー越しに見た真っ白な少女を
実験で、何日も食事と睡眠を断絶され
呆然と空を眺めていた哀れな少女に
懐かしさを覚えていた。
気持ち悪く思う事はなく
むしろ、彼女を尊いものと感じていた。
・・・あれの生き写しだからだろう。
まさしく、私の実家にあった
骸にして御神体であったモノの生き写しだったのだ。
間違っても気味悪がれるはずがない。
だから、きっと私は
あの女性研究員を止める事が出来なかったのだろう。
自分も同じような事を思っていたから。
彼女・・・クロエは唯一、最初の作品を恐れなかった。
彼女は初めから、最初の作品の処遇について
異議を唱えていた。
唱え続けていた。
彼女はとても優しい女性だった。
実験外でも
食事を与えてもらえないなどの虐待を受けていた最初の作品に
クロエはこっそり持ち込んだお菓子や携帯食を与えた。
それ以外にも、最初の作品に
学習プログラムでは教えない人間性や道徳を教えた。
唯一、最初の作品が進んでコミュニケーションを取ったのだ。
クロエと関わる度に
私は最初の作品が変わっていくのを感じていた。
監視されている身だから何もかも隠していたが
私には分かったのだ。
最初の作品に、人の感情らしい何かが芽生えていたのだ。
それさえキチンと育てばまっとうな人間になれるはずだった。
・・・だが、クロエは殺された。
最初の作品に殺されたわけではない。
シース・クレイン博士は
最初の作品には壊れていて欲しいようだった。
そんな博士からすれば
最初の作品の心を育もうというクロエは目障りな存在だ。
貴重な研究員とはいえ、実験動物に感情移入した無能として
シース・クレイン博士はクロエを銃殺した。
普通にクビにすれば良かったものを。
そう思ったが、クロエには価値があったのだ。
博士はきっとこう思ったに違いない。
クロエをただクビにしたならば
最初の作品は“クロエが外の世界に去った”という事実を知る事となる。
母親代わりのような人が自分を捨て、外に去った。
その事実は最初の作品に衝撃と悲しみを与える事だろう。
そして同時に、外への甘い誘惑になるだろう・・・と。
だからクビにするわけには行かなかった。
最初の作品がただの一度でも外への関心を示したのならば
誰にもそれを阻止する事は出来ない。
外の世界に、未完成の脅威が向かう。
これを災厄と呼ばずして何と呼ぼう。
博士は、最初の作品に人間性など求めていなかった。
むしろそれを限界まで無くす事を必要とした。
そのために、博士は最初の作品の目の前でクロエを撃ったのだ。
外への好奇心が、人情への憧れが
猫をも殺す事を示すために。
そうして、最初の作品は外への関心を失った。
・・・その14日後、誰が思っただろうか。
完全に外への関心を失ったはずの最初の作品が
忽然と姿を眩ませるなど。
間違いなく、彼女は外への関心を失っていたはずなのだ。
否、元よりその誰もが抱くはずの好奇心を
一瞬でも示さなかった。
それが彼女の狂人たる所以だった。
人が思って当たり前の事を思わなかった。
人が欲して当たり前の事を求めなかった。
彼女はただ、真っ白の一室の片隅に居続けた。
何を求めるでもなく、何を思うでもなく
何かのために生きるでもなく。
ただ虚ろに、真っ白なまま
生かされていたのだ。
そこに、彩りを与えたのがクロエだったのだ。
彼女の影響力が凄まじかったのか
或いは明白な遺志でもあったのか。
何にせよ、クロエが全て発端だったと言える。
彼女さえ最初の作品に外の事を話さねば
最初の作品は外の事を何一つ理解せず、知らなかっただろう。
それさえなければ、最初の作品はきっと逃亡しなかっただろう。
クロエが最初の作品に
原初の感情を植え付けたものだから
博士にとって最大にして最悪の脅威が生まれる結果となったのだ。
・・・未だに私は思い出す。
あの甘党で素直だったクロエを。
研究所内ではクロエの事をまるで悪女のように語る。
私の知るクロエは誰よりも純粋に
科学の将来を追い求める研究員だったが
同時に、人の気持ちを重んじる女性でもあった。
だが、彼女は悲惨な最後を遂げた。
時折、私は彼女の夢を見る。
私にとって彼女は特別親しい人ではなかったが
それでも、確かに言葉を交わし
同じ研究室で仕事をしていた仲間だった。
彼女の最後や、死後の捻じ曲げられた人物像
そして最初の作品を逃がす計画を立てていた事。
これらに何も感じないわけではない。
彼女は・・・何を思って死んだのだろう。
銃で撃たれて即死だったそうだが、
博士が銃を持ち出した瞬間は?
最初の作品はクロエをどう思っていたのだろう。
目の前でクロエが事切れるのを見て、
最初の作品は何を思っただろうか。
———全て、白紙だ。
私は本当は何があったのか
何も知らない。
言葉にできない虚しさを感じるのは
白紙にクロエがもたらした鮮烈な色の一粒が落とされたからだろう。
圧倒的な白の上に、たった一滴の何かがある。
この不自然で無視の出来ないものは
私の心に引っ掛かって離れない。
博士や、最初の作品ほどでないにしても
私にとってもクロエは鮮烈な存在感を持っていた。
クロエの死。
これは研究の歴史においては
一行だって触れられる事はないだろう。
だが、限りなく大きな死だ。




