「私は貴方を殺すわ、大天使」
大天使は強風の吹き荒れるローライトの城の壁上で、深く目を閉じて立ち止まっていた。
「……………」
憑き神の頂点である大天使のチカラならば、広域魔術など、制御するのも容易い。
これまでのように日常生活を続けながら、誰にも勘付かれる事も無く、魔術を展開してくことすらも可能だっただろう。
しかし、これはもう既に、最終局面を迎えたのだ。
「(……よりにもよって、今になって不安因子が現れようとは)」
大天使は自らの瞳で、この魔術を見届けなければならない。
そうで無くてはならないのだ。
この魔術すらも過程に過ぎないのだから、今ここで崩れてしまえば、もうどうにもならないだろう。
大天使、ガブリエラ・フィンセントの講じた策はここで潰えてしまうことになる。
「(……それだけはならない、ルルイエも居ない今、やれるのはこの私だけだ)」
大天使の考えは、常に人智を脱してなくてはそれではない。
「そろそろ始めよう」
大天使はそう言って、まぶたを二つ、スッと見開いた。
「何を始めるのかしら」
ーその声は、大天使の頭上高くから届いた。
「全く聞いて呆れるわ、大天使ともあろうものがそんな幻想に取り憑かれていようとはね」
大天使は眼下に見据えた街から、その目を逸らさない。
そして、その背後に、二人の影が着地した。
「お久しぶりね、フィンセント」
「お初にお目にかかります、大天使、俺の名前は」
「セシリア・アンベルグローランドに、ローレンス・ミッドフィールド」
大天使は風に吹かれた前髪をそっとたくし上げた。
「西方旅団はご苦労だった、戦果はすでに聞き及んでいる」
「それはどーも」
ローレンスは着地と間隔を開けずに、流れるような動作で腰に提げた鞘から、鈍く光る刀身を引き抜く。
ーしかし、
「まだよローレンス」
セシリアの右手が、それを静止させた。
「傭兵か、その血の色は見たことがないが、随分と薄汚れて錆び付いていよう」
「……ッ」
「ローレンス!」
大天使の煽り文句に、傭兵の背筋は張り詰めたが、セシリアがそれを再び静止させる。
「落ち着きなさい、相手は大天使よ、暗黒大陸の悪魔とは格が違うことくらいわかるでしょう」
「………」
「良い判断だ」
「でも」
そこで、ピクリとも表情の動かない大天使に対して、セシリアは挑戦的な笑みで応えた。
「フィンセント、果たして貴方はローレンスに勝てるのかしら」
「……面白い事を言うようになったなセシリア」
それでもやはり、大天使の表情の一つも崩れる事はない。
「まぁ取り敢えず落ち着きましょう、私達は何も貴方と戦いに来た訳ではないんだから、ねぇローレンス」
「…左様でした」
「では」
大天使は、流れを捻じ曲げるように言った。
「アルス・マグナ、溶岩龍はどうした」
「彼ならもう、戦力として数える事はオススメしないわ」
「そうか」
「そうよ」
そして訪れる少しの沈黙の間。
「………」
「…………」
「随分と冷たいのね、フィンセント」
「感情は基本的に排除している」
「そう」
セシリアは耐え切れないといった様子で、大きく溜め息をついた。
「で、結局、あんたは本当に、この魔術を発動させてしまう気でいるのかしら」
「……」
そこでようやく、大天使の顔色に思慮の色がかすかに滲み出た。
「まさか、私がそう簡単に思い改めるとでも思っていたのか?」
「まさか、そんなことあり得ないわ、ありえないからこそ」
セシリアはそう言いながら、煌びやかな細身の剣を振り抜いた。
「私はこれをあんたに向けるわ」
「……」
「では俺も」
大天使の目前に、鍛えぬかれた鋼の刃先が二つ。
彼を牽制し、威圧するように、掲げられた。
「魔術の贄にローライトの市民の全てを使おうなんて許されないわ、フィンセント」
セシリアは平らな口調を崩すことなく言い放つ。
「ふっ、まさかマグナが口を割るとはな」
「ローレンスが偶然持ち合わせた精神誘導薬は、拷問にも重宝したわよ」
「どちらが悪党か、わかったものではないな」
「よく言うわ、フィンセントのくせに」
「………」
大天使は、遂に鞘に手をかけ、小さく口を開いた。
「…ガブリエラ・フィンセント、
セシリア・アンベルグローランド、
ルルイエ・アイリス・ミルモット」
「……」
「ルルイエ亡き今、過去の付き合いは無いものと思え、セシリア…いやヴァイロンの隊長、……それとも
前歴時代の人間よ」
大天使の言葉が風に吹かれて霧散した。
「………そう、なら」
セシリアの瞳にはもうすでに、
「私は貴方を殺すわ、大天使」
フィンセントの姿は映ってはいなかった。