復讐の制限
裁判員制度など、個人的見解を踏まえています。
不快に思われる方もいるかもしれませんが、ご了承ください。
真っ赤に染められたフローリングをみて、柏木菜月は状況を理解した。理解したといっても、おぼろげに状況を掴めたという程度だった。思わず手に持った上着を落とした。
血に染まった床に、菜月の交際相手の谷本尚樹の愛用するバイオリンが転がっていた。そのバイオリンは弦が切れ、大きく陥没しているのが遠目にもわかった。バイオリンの横に尚樹は立ち尽くしていた。まさに呆然と言う言葉がぴったりだった。肩までかかった髪をかきあげた。
尚樹の手には台所にあったと思われる出刃包丁が握られていた。その包丁からも血液が垂れていた。尚樹の手にも血が付いており、体中を真っ赤に染めていた。菜月が訪ねてきたことすら、気づいていない様子だった。
目線を尚樹の奥に移してみると、そこには見覚えのある顔が横になっていた。ただしすでに息は絶えているように見えた。胸を中心にして大量の出血が診られるからだ。床や尚樹を染めている血液の主はおそらく横たわる彼なのだろう。その男の名前は吉見貴裕といった。尚樹の中学時代からの親友で、菜月とも面識があった。尚樹とよくこの部屋で、学生時代の思い出を肴に酒を楽しんでいた。その席には菜月が同席することもしばしばあった。菜月と尚樹が部屋にいる時に吉見が来ることがあったからだ。そんなときは自然と三人で飲むようになっていた。
室内を観察している間に、菜月は自分が徐々に冷静になっていくのがわかった。看護師である彼女は、血を見ることには慣れていた。手術室などではこれと同等、またはそれ以上の出血になることは珍しくなかった。
尚樹はバイオリニストになることが夢だった。そのためバイオリンは彼の命の次に大切なものといっても過言ではなかった。菜月によくバイオリンを弾いて聞かせていた。彼女には、どんな有名なバイオリニストが奏でる音よりも心地よい音色に聞こえていた。そして尚樹が彼女に感想を求め、それに答えるというのがいつものパターンだった。彼女は良かったなどといって手を組んで褒めた。それはお世辞などではなかった。彼女耳には間違いなくプロ級の音色が届いていた。彼はそれを聞いて子供のように喜んでいた。いつかは大きなホールで菜月のために弾くんだ、というのが彼の口癖でもあった。
部屋に足を踏み入れ、さらによく観察した。室内から見てみると、また違った発見もあった。部屋の隅にはビールの缶が何本か転がっていた。おそらくまた飲んでいたのだろう、と思った。問題はなぜこのような事態になっているかだった。ただ酒を飲むだけでは遺体ができたりはしない。
吉見は尚樹の親友だったが、尚樹がバイオリンに執着することを吉見はあまりよく思っていない節があった。吉見も学生時代には尚樹と共にバイオリンを奏でることがあったようだが、彼は社会に出るのと同時に辞めていた。いつまでも夢は見られない、というのが彼の辞めた時の台詞だったという。吉見は夢を見るよりも、安定した暮らしを求めたのだ。吉見は尚樹がバイオリンを続けることに反対はしていなかった。趣味程度になら、吉見も続けているからだ。しかし現在は状況が変わった。
大学を卒業してから、10年の月日が経ち、尚樹には交際をする相手もできた。尚樹のアルバイトだけの収入では、結婚することもできないでいた。看護師の菜月の収入があっても、3年目の看護師の収入だけで結婚するには難しかった。吉見はそれを知っているからこそ、安定した職につくことを進めているのだった。
余計な御世話といえばそれまでだが、吉見は尚樹のことをそれほど大切な親友だと思っているようだった。その思いは尚樹にしても同じだが、彼は吉見の進言を素直に受取ろうとはしなかった。最近では吉見も諦めかけているように見えた。それでも時々菜月と会った時などは彼によろしく言っといてくれ、と頼んできていた。菜月ちゃんだってその方がいいだろう、ともいった。
彼女からしてみれば、尚樹がバイオリンを続けることは不満ではなかった。彼女が援助をすることはあったが、それほど苦にはなっていなかった。そのため彼女も吉見の言葉を上手くかわしてきていた。
しかし尚樹と吉見の不協和音は最後までそのままだったようだ。この部屋を見ればそれがわかった。
おそらく2人はバイオリンのことで口論になったのだろうと菜月は推測した。口論を繰り広げるうちに、尚樹のバイオリンが壊れた。それがきっかけになったのかは尚樹にしかわからないが、正気に返った時には吉見の遺体が目の前に横たわっていたのだろう。大量の出血をして。
転がったビールの空き缶。壊れたバイオリン。尚樹の放心した表情。そのすべてがそれを物語っていた。
彼女は上着のポケットに入れた封筒を抑えた。彼に見せようと思って持ってきていたものだ。これに掛けるしかないかもしれないな、と彼女は思った。彼との幸せを守るためにも。その封筒は2009年から始まることになった裁判員制度の裁判員候補に選ばれたことを通知するものだった。
裁判員裁判は傷害事件でも取り扱われる、谷本が裁判員裁判によって裁かれる可能性は十分にあるように思えた。裁判員裁判なら、一般人の心情で尚樹のことに情が沸くことも考えられた。詳しいことは分からないが、十分に情を誘える事件のように思えた。自分がもし裁判員になれたなら、直接尚樹を救える。それができなくとも、一般の裁判員に菜月が訴えかけることにより、情状酌量をしてもらえる気がした。尚樹とこれからの幸せがどうなるかはすべてはこの新しい試みにかかっている、尚樹と菜月にとってそこまで言ってしまって過言ではない気がした。
久々に訪れた裁判所を前にして、高濱秀章は改めて数週間前に届いた封筒をみた。ここへ来るまでに何度繰り返した動作か分からない。自分が裁判員に選ばれることなど想像もしていなかった。首筋に汗が垂れるのを感じ、手で首回りを中心にして顔を扇いだ。だんだんと夏が近づいている実感があった。
テレビのニュースや新聞などで取り上げられてきた裁判員制度の導入だが、まだ自分には関係のないことだと思っていた。確率で考えると、自分が選ばれる可能性が低くないことは分かっていたが、実際になってみると非現実的なことに思えてならなかった。いまだに人を裁くことを上手くイメージできなかった。
候補者になったことは、予め同じような封筒によって伝えられていた。面接も行われ、実際に裁判員になることも覚悟はできているつもりだった。
しかし覚悟ができたからといって実際に気軽に赴くことができるかというとそれは違った。裁判員にならなければならないとわかった時、複雑な思いがした。
まず自分が人を裁くことが信じられなかった。テレビなどで様々な凶悪な事件を見てきた。その度にこんな奴は死刑にしてしまえばいい、など安易に考えていた。しかしそんな簡単に世間話をする調子で刑を決めることができないのだ。公の場で、そんな単純な考えで人を裁くことはできないだろうと思った。容疑者となっている人間にもその後の人生がある。それを自分が決めることになるのかと思うと、何故か恐ろしくもあった。
いろいろと悩まされているうちに、裁判が行われる日はすぐ間近に迫っていた。彼には裁判員になるのを断るだけの正当な理由がなかった。事件の関係者と何の繋がりがないこともあり、結局裁判員になっていた。
そして今日になっていた。どんな事件なのかは予め教えられていた。何度もやってきたイメージをもう一度膨らませた。相変わらず上手くイメージすることはできなかった。今までに経験のないことだから、仕方ないことなのかも知れなかった。
いつまでも裁判所の前で突っ立っているわけにもいかず、彼は意を決して足を踏み出した。
裁判を始められる前に、裁判人全員が会議室のような部屋に集められた。人数は高濱を入れて6人だった。ランダムに選ばれた6人というだけあって、年齢も雰囲気もそれぞれ違う人間が集まっているようだった。高濱の目から見ても、それぞれ考え方が全く違うようなばらばらな年代の人が集まっていた。
長い机をコの字型に並べられた部屋で、全員が席に着くと裁判官三人の紹介が始まった。高濱は周りの人間を見るのをやめ、裁判官の話に耳を傾けた。
裁判官の紹介が終わると、全員にファイルが配られた。このファイルが事件を整理したものだということは、ファイルを開かなくてもわかった。
高濱の予想が的中したことは、裁判官に促されてファイルを開くと明らかになった。ファイルには事件の記録が細かく記されていた。事件のあらまし、犯人の逮捕に至った経緯、犯人の人柄、被害者の人柄。これから人を裁くために必要な資料がそろっていた。分からない点や、不明な点はその都度裁判官に質問することになっていた。
高濱をはじめ、何人かが質問をした。
かくして裁判は始められたが、判決が決まるまで三日間に及んだ。それまでの過程でも意見は分かれたが、刑を決める際にもかなり難航を極めた。
懲役の年数などについては、裁判官が中心となって話がすすめられた。高濱をはじめ、全員が法律の知識はなかったため、懲役の年数まで具体的に提案できなかったのだ。
人を一人殺している被告の有罪は動かなくても、執行猶予を付けるかどうかで論議が白熱した。容疑者の男は衝動的な殺人であって決して計画的な殺人ではないことを強調していた。そのことは事件のファイルを見ても間違いないことのようだった。そして酒を飲んでの犯行、そして口論の末の殺害という点が問題になっていた。
高濱は殺人は殺人であり酒や口論などは関係がなく裁かれるべきだと主張した。そういう点は懲役の年数に反映されているともいった。その主張に乗っかる者が殆どだった。また理由は違えど、執行猶予をつけることに反対するものが多かった。
その中で何人かは執行猶予を付けることを主張する者もいた。被疑者の行為に悪意はなく、同情すべき点もあるといった。またそうしなければ、被告のその後のためにもならないともいった。被告の証言人として現れた女性の印象もある。必死に弁護する彼女の姿は少なくとも裁判員たちの心を揺さぶっていた。
裁判員それぞれに様々な葛藤もあっただろうが、結局は多数決で執行猶予は付かないことに決まった。裁判員制度を導入しての裁判で判決が決まらない場合、多数決になることになっている。裁判員だけの偏った判決を防ぐために、裁判官が一人は多数派にいなければならない、と決まってあるが、一人の人間の人生を多数決で決めるというのも変な話だと思った。
今回のケースでは、執行猶予を付けないとする多数派に裁判官が2人いたためにその判決になった。
朝起きてすぐ、朝刊を取りに玄関に向かった。朝はダラダラと二度寝などすることなく、目が覚めたらすぐに起きるのが平島明弘のモットーだった。彼は自分に一番合った睡眠時間を分かっていて、起きる時間から逆算して必ずそれだけの睡眠量がとれる時間に床につくようにしていた。
昨夜もそれに変わりはなかった。その甲斐もあってか、目覚めはすっきりとしたものだった。リビングルームから見える雄大な山々が赤く色づき始めていた。
朝刊を取って来て、水を沸騰させた。インスタントコーヒーを作って、砂糖とミルクを注いだ。朝食用にトーストを焼くのを忘れない。彼はいつも朝食にトーストとコーヒーを食べていた。それを食べながら、朝刊に目を通すのが憂鬱な朝の唯一の楽しみだった。
いつも通り、スポーツ欄から開いた。昨日のプロ野球は彼の贔屓のチームである福岡ソフトバンクホークスが大敗を喫していた。彼は東京に住んでいながらホークスファンを貫き通していた。順位表を見ると、なんとか首位をキープしていた。レギュラーシーズンも佳境を迎えていた。リーグ優勝と合わせて、熾烈なクライマックスシリーズ出場争いも繰り広げられていた。クライマックスシリーズとは、パシフィックリーグとセントラルリーグの代表がその年の日本一を争う日本シリーズへの出場権を争うポストシーズンゲームのことだ。リーグ優勝チーム以外でも日本シリーズ出場のチャンスがあるということで、プロ野球界レギュラーシーズン終了後も盛り上がりを見せる。シーズン開幕前の予想通り、彼の贔屓のホークスが在籍するパシフィックリーグは混戦を極めていた。現在最下位チームですら、クライマックスシリーズを狙えるというほどの混戦模様だった。クライマックスシリーズを狙えるということは、つまりAクラス入りを狙えるということである。それだけに各チームとも熱戦を展開しているのだった。
一つのチームのファンである前に、プロ野球ファンである平島にとってそれは喜ばしいことだった。無論ホークスが首位を守っていることは彼を興奮させていた。
彼は満足して一度朝刊を閉じた。コーヒーが半分ほどに減っていた。トーストはすでにたいらげている。
彼は朝刊の一面、そして目次に目を向けた。そこで興味深い内容があった時は、その記事を優先して読むようにしていた。彼は朝食兼朝刊を読む時間を決めていた。無論朝の短い時間を無駄に使わないようにした彼なりの工夫だった。
今日はそれほど興味を駆り立てられるような記事は見当たらなかった。仕方なく彼は順番にページを捲っていった。
経済について、政治について、さまざまな記事をナナメ読みしていった。それでも彼に合いそうな面白そうな記事はなかった。朝だけで朝刊は読み終わりそうだな、彼がそう思い始めていた時、一つの事件を目が捉えた。
殺人事件らしかった。男が胸部をめった刺しにされて殺されていたという。なぜこの記事に目が行ったのか、彼は分からなかった。疑問を解決するためには、この記事を読むしかなかった。それまでの速さより幾分ゆっくりとした速度で読んでいった。
その時、ある単語が彼の目に入った。裁判員制度という単語だった。
なぜこの単語が目に入ったかは明らかだった。彼自身が裁判員として裁判に参加したことがあるからだ。しかもそれはつい最近のことだった。
朝刊の記事は、裁判員として裁判に参加した男が殺害されたことが書かれていた。警察ではその面からも捜査を行う方針であることが書かれていた。自分自身が経験していたことだからか、ひどく身近な事件に感じられた。しかしその記事をいくら読んでも平島との関係はなさそうだった。
彼は裁判員制度とも関係はないだろうと思った。偶然それが重なっただけなのだろうと思った。しかし限りなくゼロに近い可能性であっても警察としては捜査しなければならないのだろう。
彼はその記事を最後に朝刊を閉じた。出勤の時間が迫っていた。これ以上朝刊とにらめっこをしていることは時間が許さなかった。
通勤時の電車の中で、彼は先ほどの記事を思い出していた。裁判員として参加した裁判のことを思い返した。殺人事件だったが、あれはなかなか良い体験だったなと振り返った。執行猶予を付けるかどうかで、議論が交わされたことを覚えていた。
丁度耳につけたイヤホンから朝のニュースが流れてきた。彼は通勤時は携帯ラジオを聴いている。ラジオのニュースでは朝刊で見た事件のことが取り上げられていた。裁判員制度についても説明がなされている。彼は裁判員に選ばれているから知っていることだが、裁判員制度について、世間では完全に知れ渡っているという訳ではないのだろう。まだまだこれからだろうなと思った。まだ今年始まったばかりの試みなのだ。徐々に世間にも浸透していくのだろう。
ニュースでは事件のことを朝刊よりも詳しく報道されていた。被害者が殺害された状況などをだ。
被害者の名前は高濱秀章ということが報道されていた。同じ事件を裁判していた人間かもしれないと思うと、何故か一抹の寂しさを覚えた。
電車が目的の駅に到着したようだった。彼は急かされるようにホームに降りた。
一日の仕事を終えて会社を出た時には、すでに辺りは暗くなっていた。太陽は沈んで、明かりは月の申し訳なさそうな僅かな光と人工的なものだけだった。
電車に乗って、今朝来た道を逆に辿っていった。夜通ってみると、朝とは違った景色に見えた。月明かりは雲に隠れ、残された光は完全に人口の産物だけになった。
今日のプロ野球の結果が気になり、ラジオをつけた。生憎その手のニュースはなかった。明日のお楽しみということになりそうだなと思った。
かなりの空腹を覚えていたため、彼は早足で家に向かった。早く体に栄養を送り込みたかった。お腹がなり、胃が消化物を欲しているのがわかった。
家が近づいた時、家の近くのゴミ捨て場から人影が現れた。その影は、平島に影の正体を考える暇を与えなかった。
気がついた時には目の前が急に明るくなった。ナイフが振り上げられて、そのナイフに電灯の光が反射して、眩しく見えたのだ。それがわかった時には彼は地面に倒れていた。胸を刺されたことは、胸に痺れが走ったことから想像がついた。不思議と痛みは感じなかった。初めに刺された場所を中心に何度も刺されていた。ついには痺れすら感じないようになっていた。
やがて満足したのか、平島を刺し続けた犯人は立ち去ろうとしていた。意識が消えゆく中、彼は最後の力を振り絞って立ち去っていく犯人の姿を目に焼き付けた。
目の前に山積みされた書類と格闘しながら、五十嵐雅彦はため息をついた。とにかく難解な事件だった。
警視庁に勤める五十嵐は警部の肩書を持っていた。その肩書は名ばかりではなく、これまでに幾多の事件を解決した実績を持っている。部下からの信頼も厚かった。
五十嵐のデスクに置かれた書類は今回の事件に関するものが主だった。その事件は連続殺人だった。ただの連続殺人ではなく、規模が全国に亘っていた。すでに五件、事件が起こっていた。
初めは広島で事件は起こった。専業主婦の女性が、胸部を数回にわたって刺され殺されていた。自宅近くで倒れているのが発見されて、その時には死亡していた。
次は名古屋でまたも同じように殺された。女子大に通う女子大生だった。
そして静岡。大学生の男性。最後は長野だった。長野ではサラリーマン風の男が殺された。最後は東京で長野と同じようなサラリーマン風の男が殺された。
被害者の人物像も全く異なり、共通点はいまだに見つかっていなかった。全件とも、胸部を複数回にわたってさされていたことから連続殺人であることが判明した。それが分かるまですら、かなりの時間を要していた。
殺人が始まったのは七月からだった。それからじっくり三カ月かけて、日本を縦断するように殺人を繰り返されてきた。
最後に東京で事件があったのを最後に事件は起こっていない。東京の事件からは一か月以上が経ち、年が変わろうとしていた。
警察内では、年内の解決を目指していた。おそらくこれ以上事件は起こらないだろうというのが警察幹部の見解だった。それには五十嵐も同感だった。これまで起こった殺人はすべて一か月以内に行われてきた。ここにきて一か月以上の間が開くのは不自然だった。
警察内では次第に焦燥感を募らせる者も出てきていた。このまま迷宮入りすることでも考えているのかもしれない。
相沢亮介が事件解決に向けた大きな手がかりを持ってきたのは雪がちらついて冷え込んだ夕刻だった。
相沢は五十嵐に一枚の紙を手渡した。息が荒くなっているのは五十嵐の気のせいではないだろう。五十嵐が怪訝そうにするのを気にも留めずに興奮した口調で話し始めた。
「例の連続殺人の手掛かりが掴めました。被害者全員が今年の六月に行われた裁判に、裁判員として参加しています。」
被害者を全て洗い直していたら見つけた、といった。
「そうか。長野の事件が起きた時に裁判員として参加していたのは分かっていたが、全員がそうだったか。分かった、それの線で行くように軌道修正だ」
相沢の興奮した口調に乗せられ、五十嵐の声のトーンも上がった。
事件の共通点を見つけてからは早かった。年内の解決はならなかったが、年明け早々に容疑者の名前が割れていた。柏木菜月という看護師の女性だった。被証拠も揃い、後は逮捕令状が下りるのを待つだけになった。
自分のデスクで煙草を吸いながら、五十嵐は相沢の相手をしていた。相沢は直接事件には関わっていなかった。しかし事件解決の手がかりを持ってきてくれたことから、事件の詳細を説明することになった。
「事件の始まりは昨年の三月ごろだな。柏木菜月の恋人の谷本尚樹という男が殺人を犯した。谷本は口論の末に殺人を犯していた。その時に酒も飲んでいた。谷本が殺人を犯した後、柏木は偶々その現場に行った。現場は谷本の自宅だったからな。偶然殺人現場に遭遇してしまったことも仕方ないことだっただろう。柏木は自分が裁判員制度の候補者となっていることが分かっていた。谷本が殺しをした時にはすでにそれを知らせる封書が届いていたらしいからな。そして柏木は一計を案じた。この事件の裁判員となって彼を救おうってな」
「でも裁判員は事件と関わりのある人間からは選ばないようになっていませんか。柏木が谷本と付き合っていたのなら、仮にその事件に裁判員制度が適用されても、裁判員には選ばれませんよ」
相沢は至極当然の疑問を口にした。その疑問には、順をおって答えていくつもりだった。五十嵐は一度頷いて続けた。
「たしかにその通りだ。だから柏木は裁判員には選ばれなかった。ただ柏木はこの制度に期待したんだろう。一般人が裁判に参加することで、加害者側に情が移ることをな。谷本が犯した殺人は、そういった情が移るに十分値する事件だったんだよ」
五十嵐は短くなった煙草を捻りつぶして、新しい煙草に火をつけた。大きく煙を吸い込んで吐き出した。
「残念ながら裁判員として選ばれなかった柏木は事件の証人になった。その場で谷本を救って欲しいと訴えた。だがその時の裁判員には願いが届かなかった。結局有罪で執行猶予もつくことなく、谷本は刑務所暮らしを強いられるようになった。柏木は裁判が終わった時から、復讐を考えていたんだろう。全員を見事に調べ上げ、名前から住所まで突き止めた。調べるのはそこまで難しくなかっただろうな。写真でも隠し撮りして、興信所にでも頼めば何の疑いも持つこともやってくれるだろう。普通なら復讐する目的の時にそんな所に頼むことはしないが、柏木は手段を選ばなかっただろうし、頼んでいた可能性はある。まあその辺は自供してもらえばわかることだ。自分で調べたにしろ、誰かに頼んだにしろ、調べ上げたその直後に勤めていた病院を辞めると、すぐさま復讐の旅にでた」
相沢は感嘆の声を上げた。それを五十嵐が睨むと、しょぼんと小さくなった。小さくなったまま、五十嵐を促した。
「あとわかっている通りのことがあっただけだ。全員を殺すことに成功した。復讐心に煽られて殺していったんだろうな。殺人自体は杜撰なものだった。お前が持ってきてくれた情報をもとに捜査していったら、簡単に柏木までたどり着いた」
五十嵐は相沢をみて指さした。その指を見て小さくなっていた相沢が心なしか大きくなったように見えた。
「それが今回の事件の真相だ。今回は本当にお前に感謝している。お前の情報がなかったら、今もこのデスクの前で意味のない資料と格闘していただろうからな」
「この貸しは大きいですよ」
「調子に乗るな」
そう言って五十嵐は部下の頭を小突いた。
「しかし人間てのは恐ろしい生き物ですね。たった一つの復讐心で、人を六人も殺せるんですからね」
相沢は人間らしくない言い方をした。自分たち人間のことを否定するような言い方だったが、五十嵐には彼が言いたいことがわかった。
「まあお前の言うとおりだな。だからこそ俺たちのような殺人専門の刑事が存在しているのだからな」
相沢も黙って頷いた。人が殺されるようなことはあって欲しくないが、人が殺されて初めて仕事ができる彼らにとっては矛盾した考えだった。無論殺人など起きない方が良いのだが。
相沢が立ち上がり五十嵐の前から離れようとした。相沢が頭を下げかけたとき、五十嵐は思い出したように口を開いた。
「詳しい話は柏木から聞き出すしかないけどな、谷本の奴にはバイオリニストになる夢があったらしい。谷本は口論の末に殺した、と言ったが内容は谷本が酒の勢いで殺してしまうのも無理がないものだったらしい。谷本に殺された奴は、吉見というんだが、吉見は谷本に向かってさんざん暴言を吐いていたというんだ。バイオリニストなどお前がなれるわけがない、センスがないなどな。口論していたのは他の住人が証言している。口論で罵倒されたその復讐という意味では、柏木と同じということになるのかもしれないな」
五十嵐の言葉に、相沢は口を開きかけた。しかし相沢が発言する前に五十嵐が口を開いた。
「復讐という一つのもので括ってしまえば、谷本も柏木も一緒だがな。俺は谷本の復讐はまだ許せる範囲だと思う。刑事がこんなことを言ってはいけないのかもしれない。殺人というものに格付けをすることなぞ、言語道断だろう。しかしやはり俺は谷本の気持ちは理解できる。俺にも昔は夢があった。人は誰でも夢の一つくらい持っているだろう。それを否定し、罵倒する資格はどんな人間も持っていない。だから俺には吉見は酔っていたとはいえ、やってはならないことをしたんだとも思える。俺が谷本の殺人はまだ許せる範囲だと言ったのはそういう訳だ。否、許せるというのは言葉に誤りがあるな、酔って殺してしまった気持ちがまだ分かるという程度だ。言っておくが、殺人を肯定する意味ではないからな。」
相沢は五十嵐の夢というものに興味がありそうだが、それに構わずに五十嵐は続けた。
「それに比べ、柏木の復讐は許すことはできない。柏木に殺された人たちは、決められたルールに則って谷本を裁いた。俺ならば執行猶予を付けることに賛成するが、それは個人の価値観による問題だ。裁判でそう決まったのだから、従うしかない。それを柏木は認めなかった」
「裁判員制度にも問題があったんですかね。こんなことになってしまって」
相沢は声を小さくしていった。他の者に訊かれるのを恐れたのだろう。幸いほかには誰もいなかった。出払っているようだ。だからこそ五十嵐も相沢にこのようなことを言えているのだが。
「問題があったのか、それは分からない。何しろ始まったばかりの制度だからな。現状問題があるとは思えないし、制度自体は考え抜かれたうえで始められたことだ。いろいろなケースを考えて対策が取られていた。今回のような事件も考えられていたからこそ、対策は立てられていた。裁判員の素性を明かさない、などということでな。しかしそれ以上に柏木の執念が凄まじかったということだろうな。それをほかのことに生かせれば、全然違った人生になっていただろうな。だいたい徴役すると言っても極刑じゃないんだ、谷本が帰るのを待てばよかった。それすら柏木は我慢ならなかったということなんだな」
五十嵐の言葉に、相沢は頷きながらそうですね、といった。
相沢は今度こそ頭を下げて部屋を出た。窓の外を見ると、薄暗くなりつつあった。壁に掛けられた時計を見ると五時になろうとしていた。
五十嵐は帰り自宅を始めた。事件も解決し、後は犯人逮捕が残されるだけになっているからこそ、これほど早く帰り自宅を始めることができた。事件中は遅くに帰宅することはおろか、警視庁に寝泊まりすることが多かったことを考えれば、暫しの間与えられた休息といえた。
その時、勢いよく扉が開かれた。五十嵐は驚いて扉を見た。入ってきたのは彼の部下だった。部下の表情は生き生きとしているように見えた。
「例の事件の令状が取れました。早速逮捕に向かいますか」
「そうか。ならば今日のうちに片付けよう。車を回しておいてくれ。それと先に柏木のところへ行っておくように伝えてくれ。私もすぐに向かうから、表に車をまわしておいてくれ」
部下は威勢よく返事をして出ていった。コートを羽織り、身の回りのチェックを済ませると窓の外を覗いた。
赤いランプを照らしながら、パトカーが警視庁から出ていくのが見えた。