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君を殺す祈り

君を殺す祈り〜全て失った宮廷魔術師は死に場所を探している〜

作者: 翠里
掲載日:2026/05/13

ブロマンスファンタジーです。

よろしくお願いします。

 信仰とは、即ち愛である。

 

 神に愛されたこの国では、王が地を治め、教会が天を治める。

 信仰の純度が奇跡を生み、深く信じる者ほど強大な力を得る。

 それは理であり、揺るがぬ真理だ。


 宮廷魔術師テオドール•フォン•シェルナーは、教皇の子として生まれ、名を付けられるより先に神への祈り方を教わった。

 小さな手を組み、頭を垂れ、ただ一心に神の恩寵を求めよと。

 

 神は全てにおいて絶対である。


 そう教えられて育った彼の魔力は、杖の一振りで山一つ消し飛ばすなど造作もない。

 他の魔術師がテオドールの術式を真似しようとも、魔力が足りず中途半端に発動し頭を飛ばす有様。

 魔力、即ち信仰において、テオドールは規格外であった。


「テオ」


 宮廷の廊下を歩くテオドールに、後ろから声が届く。

 テオドールが振り返ると、陽光を溶かしたような金の髪の青年が歩み寄って来ていた。


「ルキウス殿下」

 

 名前を口にすると同時に、テオドールはそれまでの仏頂面を綻ばせ、目尻を下げて青年に微笑みかけた。


 この国の正統な王位継承者である王子、ルキウス•ヴァレリウスがテオドールの隣に自然と歩を並べる。

 ルキウスとテオドールは、将来共にこの国の礎となるべく、幼少期から親交を深めていた。

 

 王家は剣を。教会は魔術を。

 それがこの国を支える二つの柱。

 互いに侵さず、互いに補い、千年の繁栄を築いてきた均衡。


「殿下、ご無事で何より」

「おい、公儀でもないのに敬語なんかやめてくれよ」


 ルキウスは小さく鼻で息を抜き、わざとらしく天井を仰いだ。

 テオドールは手袋の端を噛んで外しながら、ルキウスに視線を向ける。

 

「一応と思ったんだけどな。視察、どうだった?」

「防御結界の緩みがあったらしい。近々魔術師団を派遣させる事になった」

「やはりそうか、必要ならば教会からも人を出すよ」

「頼むよ、テオ」


 ルキウスがテオドールの背を軽く叩く。

 いつも通りの隙のない表情。

 しかしテオドールは、ルキウスの顔を覗き込み少し眉を寄せた。


「……ルキウス、寝てないね」


 ルキウスは一瞬目を丸くして、それから困ったように頭を掻いた。


「わかるか」

「勿論」


 テオドールはルキウスの額へ手のひらを翳す。

 杖や呪文など無くても、軽い治癒術式であれば魔力を巡らせるだけで十分だ。

 もっとも、それができるのはひと握りの優れた魔術師のみではあるのだが。

 

「結界の緩みのせいで、王家は神に見放されているんじゃないかって声が一部から上がってる」

「何も知らない愚かな民衆の言いそうな事だ」

「テオ」

「わかってるよ」


 テオドールが治癒魔術をかけ終わると、ルキウスはテオドールをじっと見詰める。

 ルキウスの視線を受けて、テオドールは口の端をわずかに上げた。

 ただそれだけで、テオドールはルキウスが何をして欲しいのか、手に取るようにわかった。

 

「いつも通りに、ね」


 その声音は、教会で祈りを捧げるよりも柔らかかった。

 ルキウスは軽く服の襟を直しながら、軽く顎を引く。


「お前は本当に、優秀な魔術師だよ」

「王家を信じないのは、神に背く行為だ。異端には神罰が降る。当然だろう?」


 テオドールは口角をわずかに上げて、まるで疑う余地などないと言わんばかりに同意を求めた。

 ルキウスの喉が鳴る。

 全てが上手く事が運ぶ予感は、ルキウスの喉の奥からえもいわれぬ快感として迫り上がる。


「ああ、当然。神の思し召しなら、仕方ないな」

「そうさルキウス。神は間違えない」


 テオドールの首から下げられた十字架(ロザリオ)が揺れて、しゃらりと鎖の擦れる金属音がした。

 

「……俺は、いつもお前に助けられるな」

「そんなことはないよ」

「俺が今王位継承権第一位なのも、お前が……」

「ルキウス」


 テオドールの声が少し低くなる。

 睫毛の向こう側で、魔力を帯びた灰色の瞳が覗いていた。

 

「第一皇子は、不幸な事故だった。そうだろ」

 

 それだけを答え、テオドールは歩を進めた。


「ああ、不幸な、な」


 ルキウスもまた、それだけ言ってテオドールの横に並んだ。

 

 正しさとは、揺るぎないということだ。

 

 子供の頃、教会の地下、冷たい石の床に膝をついたテオドールの記憶。

 祈りが足りぬと告げる鞭の音。

 揺らぐ信仰を正すための痛み。

 

 子供のテオドールには、目に見えず触れもしない神の存在など絵空事にしか思えなかった。

 しかし、生まれた場でそれは許されなかった。


 ひとつ、またひとつと鞭が背中を裂いて赤く滲む。

 声を上げることも許されず、耐えるしかなかった。

 神がそう在れと申されたから。

 

 教皇たる父は告げた。

 すべては神の御為。すべては正しい行い。


 そのすべてを断ち切ったのが、差し出された一つの手だった。


「今日から親友な!」


 そう言った幼いルキウスの小さな手が、テオドールを包んで引き上げた。

 ルキウスは知らない。ただ遊び相手が欲しいと大人にこねた駄々が、どれほどテオドールの救いであったのかを。

 

 地下礼拝堂には窓がない。どれだけ祈っても朝が来ない。

 でもルキウスが笑うと朝が来た。

 水平線から太陽が昇って、世界の輪郭が合うような。

 冷たい石も、背中の痛みも、全部昨日になった。

 あの日からずっと、テオドールにとってルキウスは光だ。


「テオ、俺達は、二人なら世界さえ手に入れられる」

「ええ、もちろん。ルキウス、君となら」


 ルキウスはテオドールの髪を指先でひと束掬い上げ、なぞるように滑らせて落とす。

 口元だけの笑みを残したまま、ルキウスは背を向け、王宮の奥へ進んで行った。

 

 去るルキウスを見ながら、テオドールが十字架を握る。

 冷たい金属の感触が手の内に刺さった。

 

「……ルキウス」


 テオドールは目を伏せると、十字架を静かに額へ掲げる。

 教会で叩き込まれた祈りの所作が、勝手に体を動かした。

 ゆっくり瞼を開けて視線を奥へ流す。

 ルキウスの居る場所だけが明るく見える。

 

「僕の夜明け、僕の神様」


 テオドールの信仰は、あの日すでに定められていた。

 神は応えなかった。だがルキウスは応えた。

 それだけで十分だった。


 祈りは魔力となり、矢となる。

 矢は、まっすぐ一人へ放たれていた。


「僕の祈りは、全部君のものだ」

 

 信仰。即ち魔力は、天から与えられるものではない。

 日が昇るように、心の内から湧き上がるもの。

 それはけして揺るぐことはない。


 ――はずだったのに。


「宮廷魔術師テオドール•フォン•シェルナーを、ルキウス•ヴァレリウスの名において罷免する」


 風の強い日の午後だった。冬の冷たい空気が枝を揺らして窓の外でざわめいている。

 王、宰相、名だたる貴族の前で、ルキウスはそう宣言した。

 

 テオドールは、周囲の音が無くなったのかと錯覚する。

 目の奥が冷たくなっていく。


「……何故……」


 喉から溢れた音は震えていた。

 杖を握る指の先の感覚がない。

 ルキウスは一段上から、テオドールを見下ろしながら片手を上げた。


「魔術師団の結界維持費、神殿修復費と称して国庫より資金を教会へ横流しした調べはついている。神を騙り私腹を肥やす神官など、必要ない」


 身に覚えなどひとつもない。反論しようとした喉が一瞬詰まる。

 テオドールを見るルキウスの目が、酷く冷たかったからだ。


「ルキウス、そんなの知らない、僕を信じて」

「気安く呼ぶな。立場を弁えろ」

 

 親友に向ける温度はどこにもなく、王が罪人へ向ける平坦な響き。

 テオドールは、呼吸を忘れていた。


「どうして、ルキウス、僕らは」

「……」


 ルキウスはテオドールを見据えたまま、ゆっくり口を開く。

 

「……せいせいするよ、テオ。お前の顔を見なくて済む」


 テオドールの胸の奥が空っぽになる。そこにあったはずのものが、きれいに消えていた。

 神は応えない。それでも構わないと思えたのは、ルキウスがいたから。


 ルキウスが何かを言っていた。

 だが、テオドールは言葉がうまく聞き取れない。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 ルキウスが、自分を拒んだ。


 なんで。なんで。なんで。

 どうして。どうして。どうして。

 

 祈りの代わりに、その言葉だけが胸の中で繰り返される。

 テオドールの指先が、わずかに震える。

 それだけで、空気が軋んだ。


 テオドールの足元から、魔力が静かに溢れ出す。

 王宮の硝子がひび割れ、シャンデリアが揺れた。

 燭台の蝋燭の火が吹き消えて、地が揺れる。


 それは怒りでも憎しみでもない。

 ただ、祈りが壊れただけだった。


「ルキ!!」


 その一言と同時に、世界が裂けた。

 王宮の結界はいとも簡単に崩れ、弾ける。

 床石が浮き上がり、窓は一斉に砕け散る。

 見えない力に押し潰されるように、柱が低い悲鳴を上げた。

 紫色の魔力が空に広がり、嵐のように渦を巻いた。

 誰かが叫ぶより早く、大理石の壁が崩れ落ちる。

 床が割れ、廊下が裂け、重い石材が雨のように降り注いだ。


 轟音は、少し遅れてやってきた。

 まるで、雷が地面の中で爆ぜたような音だった。


 一瞬だった。

 歴史も、伝統も、信仰も、愛さえも。

 何もかもが無に帰した。

 埃と鉄の匂い。魔力の残穢。

 その中心にテオドールは立っていた。


 埃の降る瓦礫の中で、誰かの咳き込む音がした。

 

「……テオ……」


 かすれた声。

 崩れた玉座の傍ら、血を流しながらルキウスが片膝をついていた。肩から先は赤く染まり、呼吸のたびに胸が浅く上下する。

 それでも、その目だけはまっすぐテオドールを見ていた。

 責めるでもなく、怒るでもなく。

 ひどく、ひどく痛そうな目で。


 ルキウスは震える指先を持ち上げる。

 あの幼い日のように、手を伸ばして。


「ごめん、な」


 その一言だけだった。

 テオドールには、それが何の謝罪なのか、ひとつも分からなかった。

 そこに居たのは王子ではなく、よく知った親友だった。

 テオドールの唇が、かすかに開く。


「……どうして」


 問いかける声は、もう祈りではない。

 救いを失った者の、ただの声。

 ルキウスの身体が、ゆっくりと傾ぐ。

 その瞬間、胸の奥で何かが決定的に砕けた。

 

 世界にただひとり、テオドールだけが残されても、神は何も応えなかった。



 燃えていた。

 王宮だったものが、夜の向こうで赤く崩れている。

 石が砕ける音。遠くで誰かが叫んでいる。結界の壊れる甲高い音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 テオドールは振り返らない。

 振り返れば、きっと戻ってしまう気がした。

 瓦礫に埋もれたルキウスの元へ。

 血に濡れた手を取って、「違う」と言ってくれるまで、子供みたいに縋り付いてしまう気がした。


 夜の森を、ただひたすら歩いた。

 足元は泥濘んでいた。

 王都から流れてきた避難民が踏み荒らした地面はぬかるみ、革靴(ブーツ)はとうに泥まみれだった。

 枝が頬を裂く。痛みはあったが、どうでもよかった。


 喉が乾いている。肺が焼けるように痛い。

 なのに、呼吸だけは止まらなかった。


「……は、……っ」


 肩で息をしながら、テオドールは木へ手をつく。

 その拍子に、指先で何か硬いものが揺れた。


 首から下がる十字架(ロザリオ)の鎖が鳴る。

 その音だけで吐き気がした。


「……っ」


 テオドールは乱暴に鎖を掴み、力任せに引き千切ろうと握った。

 金属の鎖が、ただ指に食い込む。

 

 祈りは壊れた。全部終わった。

 なのに。

 

「……ルキ……」

 

 呼吸が浅くなる。

 祈れない。祈る先がない。

 その事実だけで、身体の中から全ての力が抜け落ちていく。

 テオドールは掠れた声で吐き捨てた。


「……もう、どうでもいい」


 手に持った魔術杖の先を、テオドールは自分の喉元に当てた。

 首の血管をひとつ断つだけでいい。一瞬で意識さえ消える。

 テオドールはそれを嫌と言うほど知っていた。

 ずっとそうやって、ルキウスのためにこの力を使ってきたのだから。


 杖の先に魔力を込める。テオドールは瞼を閉じて、強く握った。

 鈍い光が、指先でぱちりと散って消える。


「……あ……?」


 もう一度。

 今度は術式を組む。


「……祈りを……」


 口に出して、テオドールは気付く。

 信仰が壊れたテオドールの魔力は空っぽだった。

 国一つ吹き飛ばせた力が、今は虫一匹殺せない。

 死ねない。


「……地獄か……」


 テオドールは力無く笑った。

 笑いになっていたかどうかは、自分でもわからない。


 手の中の杖が重い。

 教会の紋章を刻んだ魔術杖。

 父が祝福し、司祭たちが祈り、宮廷魔術師として与えられたもの。

 ルキウスが、似合うと笑ったもの。


 これで人を殺した。

 これで政敵を消した。

 これでルキウスの道を拓いてきた。


 なのに今は、自分一人殺せない。


「この、役立たず……!!」


 掠れた声が落ちる。

 次の瞬間、テオドールは杖を木の幹へ叩きつけていた。

 乾いた音が森に響く。一度では折れなかった。

 だから、もう一度叩きつけた。

 二度、三度。

 黒檀の杖に亀裂が走る。

 教会の紋章が削れ、魔術式を刻んだ芯が歪む。


「なんで」


 叩きつける。


「なんで」


 また叩きつける。


「なんで、殺してくれなかった……!」


 追放なんて、一番酷い。

 君に殺されるなら、それでも良かったのに。

 

 最後の一撃で、杖は真ん中から折れた。

 折れた杖の先が、泥の中へ転がる。

 かつて国を動かした魔術杖は、ただの棒切れみたいに汚れていた。

 テオドールは肩で息をしながら、それを見下ろす。


 何も残らない。

 力も、祈りも、名前も。

 何も。


 テオドールは手元に残った杖を投げ捨てて、再び重い足を引き摺って歩いた。


 夜が明ける頃、テオドールは街道沿いの小さな宿場町へ辿り着いた。


 町は眠っていなかった。

 王都から逃げてきた者たちが道端に座り込み、荷車に積まれた家具や布団の隙間で子供が泣いている。

 誰もが煤け、誰もが疲れ切っていた。

 その中で、壁に貼られた一枚の紙だけが新しかった。


 王殺し。神敵。

 元宮廷魔術師、テオドール・フォン・シェルナー。


 似顔絵の下に、特徴が書かれている。

 長い髪、灰色の瞳。教会の紋章を刻んだ魔術杖。


 テオドールは、紙面の自分をしばらく見つめていた。


 ひどい顔だった。あんな顔をしていた覚えはない。

 けれど、人々の目に映る自分は、きっとそういうものなのだろう。


 誰かが背後で囁く。


「見つけたら知らせろってよ」

「王宮を吹き飛ばした化物だろ」

「神罰だよ。あれはもう人じゃない」


 テオドールは振り返らず、何も言わなかった。

 ただ、踵を返して宿場の裏へ回った。


 窓に映った顔は、指名手配の紙よりも酷かった。頬は痩せ、唇は乾き、瞳だけが異様に冴えている。

 泥と煤に汚れてなお、長い髪だけが宮廷の名残を残していた。


 テオドールがふと目線を向けた先には、宿場の裏手に咲く花を手入れするための用具。

 その中に、花を剪定するための鋏がひとつ置いてあった。

 テオドールは所々錆びた鋏を手に取り、髪を一束掴む。

 

 刃を当てる。ざり、と嫌な音がした。

 一度では切れなかった。

 何度も刃を引き、裂くように落とす。

 黒髪が、もう一束。また一束と落ちていく。

 

 肩口で不揃いになった髪が、頬にかかって見苦しい有様だった。

 だが、どうでもよかった。

 これで少しは見つかりにくくなる。それだけだ。

 

 足元に落ちた髪を見下ろした。

 かつて誰かが褒めたもの。かつて誰かが指に絡めたもの。

 かつて、自分が少しだけ誇っていたもの。

 全部、汚れた大地でほどけている。


「……くだらない」


 テオドールは上着も脱ぎ捨て、そこらへ放った。

 どれもこれも、信じたものの名残がある。


 軒下に掛かった誰のものとも知れない粗末な外套を、テオドールは手に取って袖を通した。

 煤け、端は破れ、湿った獣の匂いがする。

 

 宮廷の絹でも、教会の白でもない。

 ただ寒さを凌ぐためだけの布だった。

 似合うかどうかなど、もう誰も見ない。

 

 何もかも忘れて、死にたかった。

 


 夜が明けると、王都から逃げてきた者たちの数はさらに増えていた。

 道端に座り込む者。家族の名を呼び続ける者。

 荷を奪われまいと、壊れた椅子を抱え込む者。

 その全てを作ったのが自分だと、テオドールは理解していた。

 理解していて、それでも何も感じない。

 泣き声も、怒号も、祈りも、全てが薄い膜の向こうのような気がして、等しく遠かった。

 

 テオドールは軒下の影に座り込んだまま、膝の上で指を組む。

 癖として残った祈りの形は、何の意味も成していない。


 テオドールは遮られた光の奥で、ふとかつての日を思い出した。

 まだ幼かった頃。テオドールが教会の教えを疑うことさえ許されなかった頃。


 王宮で、王と教皇の謁見があった日だった。

 王家と教会の均衡を示すための、形式ばかりの儀礼。

 広い謁見の間には金の装飾が眩しく、磨かれた床には大人たちの笑みが映っていた。


 王は教皇を讃え、教皇は王家の繁栄を祈った。

 その傍らで、幼いテオドールは父に命じられた通り、祈りの文句を唱えた。

 間違えなかったはずだった。

 声も震えなかった。姿勢も崩さなかった。

 王の前で、教皇の子として恥じぬように振る舞った。


 それでも謁見が終わり、廊下へ出た瞬間、父はテオドールの肩を掴んだ。


「テオドール」


 声は低かった。

 それだけで、テオドールの背筋が凍る。

 父は人目の少ない柱の影へ、テオドールを引いた。

 廊下の向こうでは貴族たちが談笑している。

 こちらへ目を向ける者はいない。


「王の御前で、随分と立派に祈ったつもりか」

「……申し訳、ありません」


 何が悪かったのかは、わからなかった。

 けれど、悪かったのだ。父がそう言うのなら、そうなのだ。


 ぱしん、と頬が鳴った。


 音は小さかった。王宮の廊下に響かぬ程度に、けれど痛みだけは確かに残る強さで。


「謝罪ではなく、理解しなさい」

「はい、父上」

「神の前に立つ者が、王の前で気を緩めるな。お前は私の子だ。人前で祈る時ほど、骨の髄まで信仰を満たせ」

「はい」


 もう一度、頬を打たれる。

 テオドールは声を出さなかった。出してはならないと教えられていた。

 泣くことも、身を竦ませることも、神の見ている前では不適切だった。


 廊下の冷たい空気が、熱を持った頬に触れる。

 父の手が、今度は肩を打った。


「もう一度、唱えなさい」

「……主よ――」

「違う」


 痛みよりも先に、失敗した、と思った。

 自分はまた、正しく祈れなかったのだと。


 その時だった。


「おれと同い年!? どこ! どこにいんの!?」

「殿下、お待ち下さい!」


 廊下の向こうから、場違いなほど明るい声が飛んできた。

 父の手が止まる。

 テオドールは顔を上げなかった。上げていいと言われていないからだ。


「あ! いた!」


 軽い足音が近づいてくる。

 赤い絨毯の上を遠慮なく走って、ルキウス・ヴァレリウス第二王子が柱の影を覗き込んだ。

 

「ルキウス殿下」


 父が礼を取る。その声には、テオドールへ向ける時とは違う硬さがあった。


「なあ、おまえ、名前なんて言うの?」

「殿下!」


 メイドが嗜めるのも聞かず、ルキウスはテオドールを真っ直ぐ見る。

 テオドールが戸惑いながら父を見上げると、父はほんの少し頷いた。


「テオドール……」

「テオ! おれね、ルキウス。今日から親友な!」

「……親友……?」

「そう! 一番仲良い友達!」

 

 ルキウスはすぐに何かを決めたように、父へ向き直った。


「テオ借りるね!」

「殿下、今は」

「借りる!」


 あまりにも子供のわがままだった。

 けれど王子の言葉だった。

 父はすぐには否定しなかった。

 王家の血。第二とはいえ、王位継承者。

 教会ですら無視できない名。


 テオドールは、その時初めて知った。

 この廊下には、父の言葉より強いものが存在するのだと。


「テオ、来いよ」


 ルキウスが手を伸ばす。

 テオドールは父を見る。父は何も言わない。


「テオ」


 もう一度、ルキウスが呼んだ。

 命令なのに、怖くなかった。


 テオドールはゆっくり一歩を踏み出す。

 頬はまだ痛かった。肩も熱を持っていた。

 けれど、ルキウスに手首を掴まれた瞬間、その痛みは少しだけ遠くなっていた気がした。

 

「良いもの見せてやるよ!」


 テオドールの手を引いて駆けるルキウスが振り返る。

 小さな手だった。王子の手なのに、あたたかく、土の匂いがした。


「今日さ、お祈り禁止な」

「禁止?」

「うん、神様禁止」


 ルキウスは当然のように言った。

 世界のどこにも、鞭も、叱責も、冷たい石の床も存在しないみたいに。

 テオドールは一瞬、足を止めた。


「……でも、父上が」

「おれが許すもん」

「でも、神様が」

「神様もちょっとくらい見落とすって」


 あまりに罰当たりな言い分だった。

 テオドールは頷くこともできず、ただその陽に透ける後ろ髪を見ていた。

 また手を引かれて、転びそうになる。けれど、痛くなかった。

 そのことが、テオドールには不思議で仕方なかった。


 連れて行かれた先は、王宮の高いバルコニーだった。

 欄干の向こうに、街が広がっている。

 白い石の屋根。市場の天幕。細い路地を行き交う馬車。朝の鐘に合わせて動き出す人々。

 ただ、人が暮らしている場所。


「すごいだろ」


 ルキウスが隣で胸を張る。

 テオドールが何が凄いのかよくわからず不思議そうにしていると、ルキウスは身を乗り出して街並みを指差した。


「王様になったらさ、人も、街も、全部おれのになるんだって!」


 幼い声は、あまりにも無邪気だった。


「全部?」

「そう!」


 ルキウスは欄干に手を掛け、眼下に広がる王都を得意げに見下ろした。

 

「だから、ちゃんと良くするんだ。俺の国、壊れたら()じゃん」


 あまりに子供じみた理屈だった。

 けれど、その横顔は本気だった。


 テオドールは、街ではなくルキウスを見ていた。

 人も、街も、国も。

 その全部を自分のものだと言い切る少年。

 神のものではなく。教会のものでもなく。

 いつか王になる、自分のものだと。

 その言葉がなぜか、テオドールには自由に聞こえた。


 あの時、テオドールは初めて知ったのだ。

 誰かに呼ばれることが、必ずしも罰ではないのだと。

 誰かに従うことが、必ずしも痛みではないのだと。


 テオドールは宿場町の軒下で、ゆっくり目を開けた。

 視界に戻ってきたのは、朝日を受けて輝く王都ではない。

 煤けた顔の避難民と、泥に沈んだ荷車と、泣き疲れて声も出ない子供だった。


 ルキウスが目を輝かせた街はどこにもない。

 この手で、何もかも壊してしまった。


「……知ったことか……」


 テオドールは低く吐き捨てて立ち上がった。

 人の多い場所にいるべきじゃない。そう思った。

 あてもなく街を出て、また荒れた道へ出ようとした、その時だった。

 

「テオドール」


 その声を聞いた瞬間、息が止まった。


 喧騒が遠のく。泣き声も、怒号も、荷車の軋む音も、すべてが薄くなる。

 身体が先に覚えていた。


 姿勢を正せ、と背筋が命じる。

 跪け、と膝が覚えている。


 テオドールはゆっくり顔を上げた。


 視線の先に、白い法衣を煤で汚した男が立っていた。

 年老いてなお、背筋だけは不自然なほど真っ直ぐだった。

 頬は痩せ、額には浅い傷がある。

 それでも、その目の冷たさだけは何も変わっていない。


 教皇。父だった。


 髪を切った。服も変えた。杖も捨てた。

 それでも父は、テオドールを見間違えなかった。


「愚かな」


 声は静かだった。叱責ですらない。ただ、事実を述べるような響きだった。

 テオドールの足は動かない。

 逃げなければならないとわかっていた。この場で名を呼ばれれば終わる。

 王殺し、神敵、元宮廷魔術師。そのどれもが自分を殺す理由になる。

 わかっているのに、身体は父の前で硬直していた。


「……父、上」


 掠れた声が勝手に落ちる。

 父の後ろには、煤けた法衣を纏った神官たちが数名いた。

 王宮から逃げ延びた教会の残党だろう。誰もが疲れ切っていたが、父の背だけは曲がっていない。

 王宮が燃えても、国が壊れても、その男だけはまだ、神の代弁者の姿をしていた。


「その髪は何だ」


 父の視線が、切り落とされた髪の端をなぞる。


「その服は」


 破れた外套へ視線が落ちる。


「杖はどうした」


 テオドールの喉が詰まった。


「……失くしました」


 父の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「失くしただと?」


 その一言で、テオドールの背筋が冷えた。


「神より授かった器が、神の御業を預かる杖を、失くしたと」

「……申し訳、ありません」


 謝りたかったわけではない。けれど、口はその言葉を選んだ。

 幼い頃からそうだった。父の前では、まず謝る。理由よりも先に。感情よりも先に。反論など、考えるより先に潰される。

 父はテオドールをしばらく見ていた。


「謝罪はいらない。祈りなさい」


 その命令に、指先が震えた。

 何度も聞いた言葉だった。

 膝が折れそうになる。手が、胸の前で組まれようとする。

 喉が、古い祈りの文句を探し始める。

 

 けれど、出てこない。

 主よ。我が身を。我が魂を救いたまえ。

 何度も唱えたはずの言葉が、舌の上で粉々に崩れていく。


 テオドールの胸の中には、最初から神なんていなかった。

 神は応えなかった。ずっと何もしなかった。

 父に頬を打たれた時も、ルキウスが崩れ落ちた瞬間も。

 

「……」


 父は、その沈黙だけで全てを察したように、深く息を吐いた。


「テオドール。お前は、神に愛された子だった」


 違う。神は何もしなかった。


「誰よりも深く信じ、誰よりも強く祈る器だった」


 違う。神へ向けて祈った事なんて、一度もない。


「だというのに、お前は」


 父は知らない。父にはわからない。

 ルキウスが差し出した手の温度も。

 痛くない命令がこの世にあると教えてくれた声も。

 神のものではない街を、自分のものだと笑った横顔も。

 何も。


「お前は王宮に近づきすぎた」


 父の声は低かった。


「王子が教皇の子を傍らに置く、その上、国を傾けるほどの魔力を持つ。王党派の貴族達が、どうお前を見るかも考えなかったのか」


 テオドールは顔を上げた。

 父は淡々と続ける。


「お前はそれすら理解せず、あの王子の影に立ち続けた」


 父の目が冷たく細められる。


「挙句王宮を焼き、王家を損ない、国を乱し、神の名を穢し、なお祈ることすらできぬ」


 テオドールは息をすることも忘れていた。


「この、失敗作が」

 

 その言葉は、あまりにも父らしかった。

 人ではなく、器として。

 息子ではなく、神に捧げる道具として。

 壊れたものに名を付けるように、父はそう言った。


「戻りなさい」


 父が告げる。


「神の御前で罪を認め、祈り直せ。まだお前の中に信仰が残っているなら、神は再びお前を用いられる」


 戻る。その言葉に、胃の奥が冷えた。

 王宮は燃えた。杖は折った。祈りは壊れた。

 ルキウスはもういない。

 もう、二度とあの日に戻れない。


「……嫌です」


 声は小さかった。けれど確かに、口から出た。

 父の目が、初めてわずかに動く。


「テオドール」

「父上、神とは、何ですか」


 父は答えなかった。

 答えるまでもない、とでも言いたげに、ただテオドールを見下ろしている。


 その沈黙に、昔なら耐えられなかった。

 許しを請い、膝をつき、祈りの文句を口にしていた。

 けれど今は、祈る言葉さえ残っていない。

 

「僕にとって神とは、弱き者を救い、善きものを助け、手を差し伸べる、唯一無二の存在です」


 テオドールが手のひらを翳す。それだけで、父の後ろの神官はたじろいだ。

 魔力なんてかけらもない。完全なハッタリだった。

 それでも、テオドール・フォン・シェルナーを知る者ほど怯える。


 父だけは動かなかった。

 その冷えた目が、テオドールの空の手を見ている。

 

「神は死んだ。僕が殺した」


 言った瞬間、宿場の空気が凍った。

 神官の一人が小さく悲鳴を漏らす。


 父はしばらく黙っていた。

 怒るでもなく、嘆くでもなく。

 ただ、壊れた道具の破損箇所を確かめるように、テオドールを見ていた。

 

「……そうか」


 その声には、失望すら薄かった。

 テオドールの喉が詰まる。

 罵倒され、殴られる方が、まだ知っている痛みだった。


 父は静かに視線を外した。


「……父上」


 呼んでしまった。

 許されたいわけではない。

 それでも身体が、子供の頃のまま、父を呼んでいた。


 父は振り返る。


「テオドール」


 今度の声は、ひどく平坦だった。


「お前は、もう私の息子ではない」


 父の視線が、テオドールを通り越す。

 背後に控えていた神官たちへ向けられる。


「殺せ」


 その一言で、神官たちが動いた。

 煤けた法衣の袖から短い杖が覗く。聖印を握る者。祈りの句を口にする者。誰もが怯えながら、それでも教皇の命に従おうとしていた。


 テオドールには、恐怖より先に、ひどく鈍い納得があった。


 その瞬間、テオドールの右手が勝手に上がった。

 祈りではない。術式でもない。

 ただ、かつて何度もそうして人を黙らせた動作だった。

 

 神官たちの足が止まった。

 誰かが息を呑む。誰かが一歩、後ずさる。


「……触るな」


 声は掠れていた。

 脅しにすらならない弱さだった。

 それでも神官たちは動けなかった。

 父だけが、冷たい目でテオドールを見ている。

 

 その時、宿場の外れで鐘が鳴った。

 けたたましく何度も打ち付けられた、切羽詰まった音だった。


「魔物だ!」


 誰かが叫んだ。


「街道に魔物が出たぞ!」


 次の瞬間、避難民が一斉に動き出す。荷車が倒れ、積まれていた家具が泥の上に散らばる。子供の泣き声が跳ね上がり、馬が嘶き、祈りの声と罵声が混ざり合った。

 神官の一人が振り返る。別の者が父の前に立とうとする。


 その一拍。テオドールは、ようやく身体を動かした。


 逃げるというより、倒れ込むように人混みへ紛れた。

 肩が誰かにぶつかる。罵声を浴びる。泥に足を取られ、外套の裾を踏まれ、それでも振り返らない。


「テオドール!」


 父の声が背後から飛ぶ。

 その声だけで、膝が折れそうになった。

 戻れ、と身体が命じる。跪け、と骨が覚えている。


 けれど、別の声がよぎった。


 ――今日は、神様禁止な!


 命令なのに、怖くなかった声。


 テオドールは歯を食いしばった。

 人波に押されながら、宿場の裏道へ転がり込む。

 背後で神官たちの怒号が聞こえる。

 鐘はまだ鳴っている。


 魔物が来る。国が壊れる。人が死ぬ。


 テオドールは泥に手をつき、荒い息を吐いた。

 父に背を向けた。初めて。

 逃げ延びたという実感はなかった。

 ただ、死ぬことにすら失敗し、殺されることからも逃げた。

 それだけが、惨めに残った。

 


 宿場町を出てから、三日が経った。

 テオドールは街道を外れ、畑のあぜ道と細い林道を選んで歩いていた。

 人の多い道は避けた。教会の神官も、王都から逃げてきた兵も、避難民も、どこで誰が自分の顔を覚えているかわからない。

 切り落とした髪は首筋に張り付き、借り物の外套は雨を吸って重かった。

 空腹はもう吐き気を通り越して痛みへ変わり、今は鈍い熱に近い。


 何度か、遠くで魔物の声を聞いた。

 国境結界が壊れた。その噂は、どの道にも落ちていた。

 当然だ。管理していた王宮の魔石ごと吹っ飛ばしたのだから、国境を守る結界が壊れるのは道理だった。

 

 誰かが泣きながら話していた。誰かが神に祈っていた。誰かが王宮を呪っていた。

 その全てを聞き流しながら、テオドールは歩いた。

 

 知ったことか。

 そう思うたび、泥を踏む足だけが前へ進んだ。


 四日目の昼、テオドールは小さな町に着いた。

 石壁に囲まれた、街道沿いの中継町だった。

 王都ほどではないが、思ったより人が多い。宿場町から流れてきた避難民だけではない。国境方面から逃げてきた者もいるのだろう。

 広場には粗末な天幕が張られ、怪我人が並べられていた。井戸の前には列ができ、武装した町兵が怒鳴りながら順番を整理している。


 テオドールは足を止めた。

 広場の奥に、古い石造りの倉庫があった。

 壁には王家の紋章。その下に、まだ新しい木札が打ちつけられている。


『王領街道救民倉庫』

『ルキウス・ヴァレリウス第二王子殿下 御命により設置』


 その文字を見た瞬間、息が浅くなった。


「ここが開いてて助かったな」


 近くで、男が言った。

 荷を背負った旅商人らしい。隣の女に、倉庫の方を顎で示している。


「ルキウス殿下が作らせた備蓄だろ。王都で笑われてたやつ」

「笑われてた?」

「戦でもないのに街道に食糧を置いてどうする、ってな。古い貴族どもが随分文句言ってた」


 女は汚れた手で子供の頭を撫でた。


「でも、そのおかげで私達が生きてるじゃない」

「そういうこと」


 テオドールは、木札から目を逸らせなかった。

 ルキウスがそんなものを作らせていたことを、知らなかった。

 ――いや、知らなかったわけではない。

 書類に印を押した覚えはある。反対した貴族の名も覚えている。予算を出し渋った役人の屋敷に、夜半、脅しに行ったことも覚えている。


 けれどそれは、ルキウスの望みを通すための仕事であって、内容などどうでも良かった。

 この倉庫に入れられた麦の量も、救われる民の数も、テオドールは考えたことがない。

 ルキウスが望んでいる。それだけで十分な理由だった。


 テオドールが広場の影に立ち尽くしたまま、指先を握る。

 ルキウスは王になるべきだった。


 だからあの日、テオドールは第一皇子の馬車にほんの少し細工をした。

 車軸に刻まれた保護術式の一部を、肉眼ではわからないほど削った。

 馬車そのものを壊したわけではない。

 御者を殺したわけでもない。

 馬を狂わせたわけでもない。

 ただ、崖沿いの道を通る時だけ、揺れを受け止める加護が遅れるようにした。

 それだけで十分だった。


 第一皇子は、古い貴族たちに愛されていた。

 軍の将たちにも、地方領主にも、教会にすら一定の敬意を払う、よく出来た王子だった。

 穏やかで、礼節があり、誰に対しても公平だった。


 そして何より、邪魔だった。


 王宮の奥、誰も来ない書庫だった。

 机の上には地図と名簿と、貴族たちの家系図が広げられている。

 窓の外では雨が降っていた。ルキウスは窓辺に立ち、指先で硝子を叩きながら笑っていた。


「古い連中は兄上を担ぐ。兄上は悪い人じゃない。でも悪い人じゃないだけだ」


 テオドールは黙って聞いていた。


「人が飢えても、神に祈れと言う。国境が荒れても、騎士の名誉だなんだと言う。倉庫ひとつ作るのに何人の印がいると思う? 馬鹿みたいだろ」


 ルキウスの声には、苛立ちがあった。

 

「俺が王になれば、無駄な事は全部排除する」

 

 ルキウスがそう言うなら、正しい。

 ルキウスが王になるためなら、必要なことだ。

 

 第一皇子が善人であるかどうかなど、関係ない。

 善人でも邪魔なら退くべきだ。

 そうでなければ、ルキウスの国は始まらない。

 

「ルキウス、この国を、全部君のものにするんだろう」


 テオドールがそう言うと、ルキウスは目だけで答えた。

 

 君のためなら、何でもできる。

 そう答えるとルキウスは少しだけ目を細めた。

 嬉しそうにも、寂しそうにも見えた。

 だがその意味を、テオドールは考えなかった。

 考える必要がなかった。


 ルキウスが望んだ。だから叶えた。

 それだけだった。


 第一皇子の葬儀の日、王都は静かだった。

 鐘が鳴り、白い花が撒かれ、人々は道端で膝をついていた。

 ルキウスは黒い喪服を着て、棺の前に立っていた。

 その横顔は完璧な弟のものだった。


 悲しんでいるように見えた。

 苦しんでいるように見えた。

 実際、そうだったのかもしれない。


 けれど葬儀の帰り道、誰もいない回廊でルキウスは小さく言った。


「テオ、前進だ」


 テオドールは頷いた。

 その時の自分は、誇らしかった。

 ルキウスのために、また一つ道を拓いた。

 ルキウスの歩く先から、邪魔な石を取り除いた。


 広場で、子供が黒パンを受け取って笑った。

 その笑い声で、テオドールは現在へ引き戻された。


「ルキウス殿下は、変わった方だったよ」


 老人が倉庫の壁にもたれながら言った。


「第二王子でいらした頃から、民のためだなんだとよく動いておられた。貴族連中には煙たがられていたがな」

「第一皇子殿下も立派なお方だった。あの方が生きておられたら、王宮もここまで荒れなかったかもしれん」


 誰も、真実を知らない。第一皇子がなぜ死んだのか。

 誰も知らない。知る必要は無い。


 知らないまま、第一皇子を惜しみ、ルキウスを慕い、その倉庫のパンで今日を生き延びている。


 滑稽だった。

 テオドールは口元を歪めた。

 笑ったつもりだったが、うまくいかなかった。


「おい、あんた」


 不意に声を掛けられ、テオドールが顔を上げる。

 倉庫の前に立つ町兵が、こちらを見ていた。

 疲れ切った顔の男だった。鎧は泥に汚れ、腕には包帯が巻かれている。


「配給を受けるなら並べ。突っ立ってても何も出ないぞ」

「……いや、いい」


 そう答えると、町兵は眉を寄せた。


「なら邪魔だ。怪我人を運ぶ」


 背後から担架が来る。

 テオドールは一歩退いた。


 担架に乗せられていたのは、若い兵だった。

 腹を押さえ、顔を青白くしている。魔物にやられたのだろう。血の匂いがした。

 兵の首元には、擦り切れた古い徽章が下がっている。


 第一皇子派の紋章だった。

 テオドールの視線が、そこに留まる。


「……その人」


 思わず声が出た。町兵は担架を支えながら答えた。


「元は第一皇子殿下の近衛だったらしい。事故の後に地方へ飛ばされてな。今は町の守備隊だ」

「……そうか」

「いい人だよ。酒飲んだら泣いて第一皇子殿下の話しかしやしねえ」


 テオドールは黙った。

 担架の上の男が、熱に浮かされたように小さく呻く。


 テオドールは踵を返した。

 胸の奥に、何かが残っていた。罪悪感ではない。後悔でもない。

 そんな綺麗なものではなかった。

 ただ、小さな棘のようなものが、呼吸のたびに引っかかる。

 

 第一皇子は邪魔だった。

 ルキウスが王になるためには、消す必要があった。

 あの時も、今も、それは変わらない。


 倉庫の木札が、視界の端で揺れていた。


 *


 テオドールは広場を離れた。

 これ以上、そこにいる理由はなかった。配給を受けるつもりもない。怪我人を助ける力もない。ルキウスの名が刻まれた木札を見続けていれば、胸の奥に刺さった棘が少しずつ深く沈んでいくような気がした。

 

 町の外れには、避難民用の天幕が並んでいた。

 布は足りていないのだろう。破れた帆布や荷車の覆いを縫い合わせたものが、支柱に引っ掛けられている。

 雨を吸った地面はぬかるみ、裸足の子供が足を取られて転んでは泣いた。

 

 誰かが咳をしている。誰かが水を求めている。

 誰かが、祈りの文句を繰り返している。

 その全てを通り過ぎようとして、テオドールは足を止めた。


「だから言っただろう。ルキウス殿下は、民にはお優しかったよ」


 天幕の影から聞こえてきた女の声。


「民には、な」


 返したのは、少し年嵩の男だった。

 声に棘がある。けれど怒鳴るほどの力は残っていない。ただ、疲れ果てた者が、吐き出さずにはいられなかった言葉のようだった。

 

「でもなあ、うちの父を連れて行かせたのも、ルキウス殿下だ」


 テオドールの指先が、わずかに動いた。


 天幕の布の隙間から、中の様子が見える。

 女は幼い子供を膝に抱き、男は片足を投げ出すようにして座っていた。

 包帯は汚れ、端に乾いた血が滲んでいる。


「父はなあ、綺麗な人じゃなかった。金も受け取ってた。第一皇子派の貴族たちに都合のいい帳簿を作ってた。たぶん、罰を受けるだけのことはしてた」

「それなら、連れて行かれて当然じゃないかい」


 子供が女の袖を掴む。女はその小さな手を撫でた。


「父はな。でも、兄は違う。兄は父の仕事を手伝ってただけさ。字が書けたからね。父に言われて、帳簿を写していただけ」

「……」

「夜中に、うちに魔術師が来たんだよ」


 男が息を詰める気配がした。女は続けた。


「怖いくらい静かな男でね、父が何を言っても表情ひとつ変えなかった。父だけじゃなく、兄も連れて行った」


 テオドールは、ああ、と思った。

 その夜を覚えている。


 第一皇子派の資金の流れを断つための粛清。

 帳簿係の男。証言者になり得る息子。

 抵抗する母親。泣いていた妹。

 覚えている。覚えているのに、顔は曖昧だった。

 何故なら、あの時のテオドールにとって、それは名前のある人間ではなかった。

 ルキウスの道に転がっていた、ただの小石のひとつ。

 それを除けただけのこと。


「テオ、お前となら、俺は世界の全てを手に入れられる」


 いつかルキウスはそう言った。テオドールは応えた。

 

 頂点に君臨する君を、見たかった。

 君の金色に光る髪に、僕の手で王冠を乗せたかった。

 そのためなら、何を犠牲にしたって構わなかった。


 共犯という甘い響きは、酔うには十分すぎて、どんな大義名分で薄めたところで意味がなかった。

 酔いが覚めた今、全部がばらばらのまま、胸の奥で散らばっている。


 テオドールは町の端まで来て、石壁に手をついた。

 指先が震えていた。

 魔力のせいではない。恐怖でもない。


 それが何なのか、まだ名前を付けられなかった。



 雨に濡れた林道を、テオドールは一人で歩いている。

 背後には誰もいない。少なくとも、普通の人間の目にはそう見えるはずだった。


「……いつまで着いてくる気だい」


 魔力の残り香が薄く、細く、木々の影に溶けるように揺らめいて着いてくるのが、テオドールにはわかった。

 隠そうとしているのはわかる。足音も呼吸も殺している。だが、術式の継ぎ目が甘い。三歩ごとに、揺れていた。


 背後の気配が止まった。

 雨が葉を叩く音だけが続いている。

 テオドールは濡れた外套を引き寄せ、息を吐いた。


「魔力を殺すなら、呼吸と同じ拍で揃えろと教えたはずだよ」


 沈黙。

 しばらくして、木立の影から一人の神官が姿を現した。

 煤けた法衣。泥に汚れた裾。目の上で綺麗に切り揃えられた髪が額に張り付いている。

 テオドールはようやく振り返る。その魔力を、よく知っていた。

 

「ユリアン」

「……テオドール様」


 ユリアンは、かつてテオドールの部下であった。

 王立宮廷魔術師団に入ってからずっと、テオドールの側近として置かれ、書類仕事から術式補助まで任されていた。

 恐れるには近すぎて、慕うには遠すぎる、それでもユリアンは、テオドールを誰より強く尊敬していた。

 

 ユリアンは短杖を握っていた。その手は震えている。

 少なくとも、今すぐ術式を放つための震えではない。


「その震えでは当たらないよ。気も乱れている。それでは補助魔法すら組めないだろう。僕を殺したいならまず落ち着きなさい」


 ユリアンは恐れている。

 けれど、逃げようとはしていない。


 テオドールは短杖から、ユリアンの顔へ視線を移した。

 ユリアンの唇が震える。

 何度も言葉を選び直すように喉が動いて、それでも結局、胸の奥から押し出すように問いが落ちた。


「お答え下さい……テオドール様……あの日、何が……」


 問いは刃より鈍かった。だからこそ、逃げ場なく胸に沈んだ。

 テオドールは一瞬目を伏せ、体の横で拳を握った。

 思い出したくもない、だが、嫌でも脳裏に浮かんでくる。

 ルキウスが自分に向けた、あの冷たい目を。


「……せいせいする、と」


 テオドールは自嘲気味にそう吐き捨てた。

 一度言葉にしてしまえば、もう胸の中に押し込めておけなかった。

 

「ルキウスはずっと、僕を嫌っていたんだろうな」

 

 ルキウスの名を口にすると声の底が乱れる。

 平静を装えば装うほど、喉の奥に残った傷が開いていく。


「親友だと……僕達は2人でひとつだと、そう思っていたのは、僕だけだった」


 ユリアンの喉が、小さく鳴った。

 テオドールは濡れた林道の足元だけを見ている。

 

「ルキウスの為に手を汚し続けた僕が、王位を継ぐのに邪魔になったんだろう。それならそうと言ってくれれば、僕は――」

「違う……」


 雨音の中で、ユリアンの呼吸が崩れた。

 短杖を握る手が震え、濡れた法衣の袖が小さく揺れる。

 ようやく落ちた声は、否定というより、悲鳴に近かった。

 

「違うんです、テオドール様……」


 テオドールが顔を上げる。

 ユリアンの表情が、明確に歪んでいた。


「ルキウス殿下は……あなたを助けようと……」


 ユリアンは息を詰めながら胸元を握り、今にも泣き出しそうになりながら言葉を選んでいた。

 

「……何を言って……」

「殿下は――」


 ユリアンがぽつりぽつりと話し始めた。

 王宮がまだ燃える前。まだ破滅など誰も知らなかった日の事を。


 *


「ユリアン。お前にテオドールを頼みたい」

 

 夜更けに第二王子付きの執務室まで呼び出されたユリアンは、困惑したままルキウスを見た。


「あの、殿下」

「明日、テオドールを罷免する」


 ユリアンの喉が、ひゅ、と鳴る。

 言葉はわかるのに、その意味を理解するのを脳が拒否していた。


「で、殿下、テオドール様は、殿下を」

「知っている。だからだ」


 ルキウスは椅子から立ち上がり、机を回るようにゆっくり歩いた。

 蝋燭の灯りがルキウスの横顔に影を落とす。


「元々兄上を擁立していた保守派の貴族……王家は王家として在るべきで、教会は祈りと魔術だけを司るべきだと考えている連中、わかるか」


 机の上には、王党派貴族の名が並んだ書類が広げられていた。古くから王家に仕える家名。

 軍務に関わる家名。第一皇子の母方に近い家名。そのどれもが、教会の政治介入を嫌う者たちだった。


「勿論です。グライスナー伯、バルツァー卿、それから……」

「兄上が死んで、連中は俺を担がざるを得なくなった。だが、問題は俺じゃない」


 ルキウスの側には、常にテオドールがいた。

 教皇の子。教会派の象徴。そして、国ひとつ傾けかねない魔力を持つ宮廷魔術師。


 王党派から見れば、それはただの親友(おともだち)ではない。

 次の王の隣に、教会が差し込んだ最強の刃が立つということだった。


「俺が王位に近づけば近づくほど、連中にはこう見える。王家が教会に呑まれる、と」


 ルキウスを害することはできない。

 だが、テオドールならば排除できる。


 教皇の子であり、宮廷魔術師であり、第一皇子派の粛清にも関わったと疑われている危険分子。

 そう名を付ければ、王家を守るための処分として筋が通る。


「だから連中は、テオを消そうとしている」


 ルキウスは低く言った。


「俺から引き剥がすために。王家を教会から守るために」

「そんな、では、すぐにテオドール様にお知らせして……」

「駄目だ」


 ルキウスの指が、窓枠を強く握った。

 

「あいつに言えば、関わった連中全部殺す。侍女も、貴族も、家族も、疑わしい者まで全部だ。知れば、俺が命じる前にあいつはそうする。今までそうしてきた。でも、今回は相手が大きすぎる。そうなれば国が割れる」

「ですが……」

「だから、俺が切る。あいつが俺を恨んで逃げるようにする」


 執務机の端に、一通の封筒が置かれている。

 そこには、テオドールの名はなかった。

 見知らぬ男の名と、西の国境を越えるための仮身分、そして小さな町の名が記されている。


 それが逃亡のための書類だと気づくまでに、少し時間がかかった。

 気づいてからは、逆に何も考えられなくなった。


「俺にはまだ力がない。でも俺が王位につけば、また元通りにできる」


 ユリアンは指先が冷えていくのを感じた。

 これは衝動ではない。思いつきでもない。

 ルキウスはもう、何日も前からこれを準備していたのだ。

 テオドールには告げずに。


「殿下、しかし、それではあまりにも」

「恨まれるだろうな、あいつに」


 ユリアンは、窓辺に立つルキウスを見た。

 いつもの明るさはなかった。人前で見せる余裕も、悪戯めいた笑みもない。

 ただ、ひどく疲れた顔をした王子がそこにいた。


「でも、生きていてくれれば、いいんだ」

 

 その目は、決めている者の目だった。


「大丈夫だ。ユリアン。だって――」


 *


「『俺達は親友だから』と、殿下は、仰っておりました……」


 テオドールはユリアンの声を聞きながら、体の芯が冷えていくのを感じていた。

 息が上手くできない。奥歯が震え、カタカタと耳の奥で音がした。

 喉が渇く。背中に嫌な汗が伝った。視界が歪んで、自分が今立っているのかどうかさえ曖昧になった。


「……嘘だ……」


 ようやく出た声は、殆ど音になっていなかった。

 ユリアンが俯いて首を振る。足元に雫を落としながら、懐から紙の束を取り出した。


「殿下が……ご用意されたものです……私があなたを連れて、国境を越える手筈でございました……」


 地図と、仮の身分証。

 それを見た瞬間、テオドールは眩暈がした。

 あの冷たい目も、声も、全部芝居だったなんて。


「……嘘だ、違う……僕……僕は……」


 何より、誰より、信じていたはずなのに。

 自分が一番信じていなければならなかったのに。


「ルキウス……僕は……」


 壊してしまった。何もかも。

 後悔しても帰ってこない。

 理解してしまった。

 あの最期の“ごめん”を。


 ――守れなくて、ごめんな


「ルキ……!!」


 指先が震えた。テオドールは自分の髪を掴んでいた。

 短くなった髪はもう、昔のように指に絡まない。それでも無理やり握り締め、引き千切るように頭を抱える。

 脳裏にかつての日々が走馬灯のように流れていく。

 

 2人で王宮の廊下を駆けた。

 執務室で顔を合わせて笑った。

 悪巧みも随分した。部屋でただくだらない事を話しただけの日もあった。

 ルキウスの望みも、テオドールの思惑も、互いに口に出さなくても通じ合えた。

 

 夜明けだった。光だった。

 君がいればそれで良かった。


「嘘、だ……っ!!」


 もう立っていられなかった。

 泥濘んだ地面に膝をつき、汚れるのも厭わずしゃくり上げていた。

 乱れた前髪が額に落ちる。雨か汗かわからない雫が睫毛に溜まり、視界が滲んだ。

 何度も、何度も、頭の中でルキウスの声が繰り返される。

 逃げ場がなかった。もう、裏切られたことにもできなかった。

 いくら声を上げても、太陽は二度と昇らない。

 

 考えたくない。理解したくない。

 けれど、理解してしまったものはもう戻らなかった。

 

 ユリアンは濡れた書類を胸に抱えたまま、膝をついたテオドールへ近づいた。

 触れようとして、指先を止める。

 かつてなら許可なく触れるなど考えもしなかった相手だ。今もその癖だけが、どうしようもなく身体に残っている。


「テオドール様、行きましょう」


 ユリアンは書類を差し出した。

 西の国境。仮の名。身を隠すための小さな町。

 ルキウスが残した、まだ燃え残っている道。


「生きてください。やり直せます。殿下も、そう望まれました」


 ユリアンは俯くテオドールの前に跪き、目線を合わせようとした。

 ルキウスの最後の命をまだ遂行しようと思ったのもある。

 だがそれより、かつて見上げた師が、地に這い蹲る様を見たくなかった。


「……僕が……どうして生きられる……」


 乾いた唇から落ちた音は、あまりにも弱々しかった。


「どう謝ればいい、どう償えばいい。ルキウスも、ルキウスが守りたかったものも、全部、全部僕が、僕が……!!」

「テオドール様」

「殺してくれ、頼む……!ルキの所に行かせて……!」


 縋るように掴まれた泥だらけの手を、ユリアンは振り解けなかった。

 王宮にいた頃の気高く憧れた姿はどこにもない。

 ただひとり、何もかも失った男が、小さく泣いていた。


「テオドール様……」

「……殺して……」


 テオドールの声は、少しずつ小さくなっていった。

 言葉の形をした自壊。止めなければ、この人はこのまま本当に内側から崩れてしまう。

 そうわかった瞬間、ユリアンの中で何かが切れた。


 恐怖はあった。今でも、テオドールの前にいるだけで指先は冷える。

 けれど尊敬も、憧れも、立場も、今だけは全部邪魔だった。

 ユリアンはテオドールの肩を掴む。

 師に叱られる覚悟で、師を傷つける覚悟で、息を吸う。

 

「……出来ません。生きてください。あなたは、生きなきゃ駄目なんだ」


 テオドールの肩を掴んだ手が震えている。

 短杖を向けるよりもずっと強く、彼は指先に力を込めていた。

 

「死に逃げないでください。謝るならば、生きて償ってください。あなたが居なくなったら、誰が殿下の国を守るんですか!」


 ここでテオドールが死ねば、ルキウスの嘘も、苦しみも、全部ただの残酷な拒絶になってしまう。

 そんな終わり方だけは、させてはいけなかった。

 

 ユリアンはテオドールが何をしてきたのか知っている。

 第一皇子の死も、粛清も、王宮の崩壊も、すべて知らないふりなどできない。

 目の前の人は、許されるべき人ではない。

 

 それでも、生きていてほしかった。

 

「この国は終わりです。国境の結界も壊れました。全部あなたのせいです。あなたのせいで、魔物が街に雪崩れ込んで、男も女も子供も今にみんな死にます」


 テオドールは黙ってユリアンの言葉を聞いていた。

 赤く泣き腫らした目で、ほとんど息を止めていた。


「やり直しましょう、テオドール様。あなたなら結界を治して、全部やり直せます。殿下の願いを、無かったことにしないでください」

「……ルキウスの、願い……」

「思い出してください。ルキウス殿下の望みを。あなたが一番、良く知っているはずです」


 その時、記憶の奥でルキウスが笑った。


 ――王様になったら、人も、街も、全部おれのになるんだって。


 幼い日の、馬鹿みたいに明るい声。

 続いた言葉を、テオドールは今になって思い出す。


 ――俺のものなら、ちゃんと良くするんだ。


 雨の音が、少しだけ遠のいた。

 ルキウスは国を見ていた。

 テオドールがルキウスだけを見ていた間も、ずっと。


「……あ……あ……!!」


 広い世界を、ルキウスは見ていた。

 その事実が、遅れて胸に落ちる。


 救民倉庫。国境の結界。街道。避難民。

 パンを受け取って笑った子供。

 全部、ルキウスが見ていたものだった。


「テオドール様」


 ユリアンがテオドールの胸に書類を押し付ける。

 ルキウスの遺した、テオドールの新しい生。

 テオドールはゆっくりそれを握り、目を向けた。


 ルキウスの文字だった。

 理解した瞬間、テオドールの身体の中を魔力が巡る。


 ルキウス。君はいつも僕を救った。

 

 ――僕の、かみさま。


 厚い雲がテオドールの真上から裂ける。

 隙間から陽光が差し込み、金色の光が落ちた。

 ずっとそこにあったのに、覆われていて見えなかった。

 

 雨は露の匂いだけを残して止み、青い空を鳥が飛んだ。

 テオドールの胸の奥に、かすかな熱が灯っていた。


 失ったはずの魔力が、内側で静かに脈を打っている。

 けれどそれは、かつてのように誰かを消すための力ではなかった。ルキウスの道を塞ぐものを焼き払うための祈りではなかった。

 

 テオドールが顔を上げる。

 死ぬことはもう許されなかった。


 ルキウスが生かそうとした。ユリアンが繋ぎ止めた。

 そしてテオドール自身が、ようやく見てしまった。

 ルキウスが見ていた国を。自分が壊した国を。


 終われない。許されるためではない。

 救われるためでもない。

 テオドールは、ルキウスの遺した書類を握り締めたまま、ゆっくりと息を吸った。


 雨上がりの空気は冷たく、ひどく澄んでいた。

 遠くで、壊れた結界がかすかに軋む音がした。


 その音へ向かって、テオドールは歩き出す。

 それが、(ルキウス)の思し召しだと、また信じられた。


 

 ***


 数年後、王都から遠く離れた国境の村に、二人の旅人が訪れた。


 ひとりは、術式に詳しい痩せた男だった。

 もうひとりは、その補佐をする神官だった。


 二人は名を名乗らなかった。

 村人たちは、彼らがどこから来たのか知らない。

 なぜ古い結界の構造を知っているのかも、なぜ王立の封印術式を読み解けるのかも言わなかった。

 壊れかけていた結界を修復し、夜ごと森から聞こえていた魔物の声も遠ざけて去った。


 男は礼を言われても、ほとんど笑わなかった。

 ただ、修復を終えた結界石に指先を置き、刻まれた古い王家の紋章をしばらく見つめていた。


 その横で、若い神官が濡れた地図を広げる。

 地図に付けられた赤い印は、夥しい数だった。


 壊れた結界。

 機能を失った街道の補助核。

 魔物に呑まれかけた村。

 誰かが守ろうとして、守りきれなかった場所。


 旅はまだ終わらない。

 赦される日など来ないのだろう。


 それでも、男は歩いていた。

 かつては一人だけを神と呼び、そのためだけに世界を壊した。

 今は、その人が見ていた世界を、少しずつ直している。


 夜明けの光が、細い街道を照らしていた。

 その先にはまだ国が続いている。

 

 きっと、君は待っていてくれる。

 いつか君の所へ行った時は、2人ですまない、って言い合って、離れていた間何をしていたか話をして、また悪巧みの相談をするんだ。


 なあ、そうだろ。ルキウス。



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