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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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07

 梅雨の湿気と格闘していた日々が終わると、今度は容赦ない暑さとの戦いが始まった。

 百合子は昔から夏が苦手だ。

 すぐに夏バテしてしまい、食欲が落ちて体力がなくなってしまうのだ。

 今も絶賛夏バテ中である。


 数日前、妹の純恋(すみれ)が久しぶりに帰ってきた。

「本当はもっと早く帰ってきたかったんだけど、仕事が忙しくってさ。まとまった休み、やっと取れたの」

 玄関を開けるなり、ふわりと甘い香水の匂いが流れ込む。

 都会の空気をまとった純恋は、昔と変わらず明るくて、部屋の中を一瞬で賑やかにしてしまう。久しぶりの再会なのに、不思議と時間の隙間を感じなかった。


「お姉ちゃん、顔が少しやつれた?」

 そう言って心配そうに覗き込む純恋の視線に、百合子は苦笑する。

「そんなことないよ。暑くてバテてるだけ」

「大丈夫? 何か食べやすいもの作ろうか?」

 純恋は、百合子が夏バテしやすい体質なのを知っている。こうやって会うのは久しぶりだったが、よく電話で「コンビニでさっぱり食べられるスイーツ見つけたよ」とか「夏バテには豚肉とか梅干しが良いって」など教えてくれていた。

 歳の離れた妹は、とても頼りがいがあり優しい子なのだ。 



 夏祭りの日の朝。

 純恋の夏バテ解消料理のお陰で、百合子の体力も無事回復した。


 百合子はテーブルに広げた布やレジン飾りを眺めながら、商品のチェックをしていた。

「お姉ちゃん、これ持ってきたよ」

 純恋が差し出したのは、藍色の浴衣だった。

 細かい花模様が入っていて、落ち着いた色味なのにどこか涼しげで、百合子の雰囲気に合っている。


「似合うと思って用意してたんだ。子どもの頃、夏祭り行くときって、いつも私の着付けしてくれたでしょ? 今度は私の番」

 そう言って純恋は笑うと、手際よく百合子の浴衣を着付けていく。

 鏡の中には、少し知らない人みたいな自分が映っている。

(浴衣なんて、何年ぶりだろう)

 最後に浴衣を来たのは二十代だった気がする。かなり久しぶりの着心地になんだかソワソワしてしまう。


「うん、やっぱりキレイ。見惚れられちゃうんじゃない?」

「そんな人居ないよ」

「え~? 誰かいい人いないの?」

 一瞬、百合子の脳裏に笹原の姿が浮かぶ。

(なんで笹原くんの顔が……)

「いない、いない」

 百合子は誤魔化すように首を横に振った。

「もったいなーい。おねえちゃん、こんなに美人なのにぃ」

 頬を膨らませる純恋に百合子は苦笑する。

「ふふ、着付けありがとう」


 窓の外では、セミが鳴いている。

 今日は久しぶりに、胸を張って外に出られる気がした。

 浴衣の袖が揺れるたびに、心の奥まで風が通っていくようだった。


 昼を過ぎるころには、商店街の通りに屋台の骨組みが並び、あちらこちらからトンカンと金槌の音が響いていた。

 赤や青の提灯が吊るされ、風にゆれるたび、淡い光が白い布地の上を走っていく。


 百合子は、許可をもらった通りの一角に机を並べ、布をかけて準備を始めていた。

 レジンで作った小さなアクセサリー、ドライフラワーを使った飾り。

 どれも、ここ数週間、夜な夜な少しずつ作ってきたものだ。


 日差しの下で見ると、透明なチャームが光を弾き、まるで小さな水の粒のように輝いている。

「お姉ちゃん、すっかり“お店の人”って感じだね」

 横から声をかけてきた純恋が、笑いながらうちわで風を送る。

「商店街、やっぱり懐かしいな」

「そうでしょ? 私も帰ってきたとき、そう思った」

「ちょっと、久しぶりに見て回ってくるね」

「うん。暑いから気をつけて」

 純恋は手を振って、人混みの中に消えていった。


 その背中を見送ったあと、百合子は汗を拭いながら息をついた。

 通りの向こうでは、健太が腕章をつけて走り回っている。

 実行委員として、露店の配置や電源の確認、通行の誘導――休む間もない。

「九堂さーん、氷の搬入、あと三つお願いね!」

「了解!」

 大声に笑顔で応えながら、軽トラックの荷台に駆け寄っていく健太。

 その動きは忙しそうなのに、どこか楽しげだった。

 誰かに呼ばれるたび、顔を向け、笑って返す姿は、昔のまま。

 けれど、どこかでその明るさの奥に、静かな影を感じてしまう――そんな気がした。


 風鈴の音と、遠くから聞こえる太鼓の練習のリズム。

 夏の午後の空気が、次第に祭りの熱気へと変わっていく。


 やがて、笹原からメッセージが届いた。

《夕方には手伝いに行けそう。場所、ここで合ってる?》

 短い文面を見て、百合子の頬が少し緩む。

《うん。ありがとう。無理しないでね》

 送信ボタンを押すと、胸の奥が少し軽くなった。


 風が吹き抜け、提灯が小さく揺れる。

 陽射しの中に、懐かしい笑い声と、これから始まる夜の気配が混ざり始めていた。


 夏の夕暮れは、何か始まる予感を連れてくる__そんな気持ちになった。

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