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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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05

 書類の記入を早めに終わらせ、百合子は家を出た。

 相変わらず、しとしとと雨は降り続いている。

 最近買ったばかりの淡いクリーム色の傘を広げると、ぽつぽつと傘を叩く音が耳に心地よく響いた。

 濡れたアスファルトには街灯の明かりがぼんやりと映り、通り過ぎる車のタイヤが静かに水を跳ね上げていく。


 商店街のアーケードに入ると、傘の音が止み、代わりに人々の話し声と喧騒が耳に届いた。

 今日の商店街は、この前来たときよりもずいぶん賑やかだ。少し考えて、今日が土曜日であることに気づく。

「そっか、週末だから多いんだ」


 喫茶店のドアを開けると、コーヒーの香りとともに柔らかなベルの音が響いた。

 いつもより少し早く来たつもりだったが、すでに笹原が奥の席に座っていた。

「お疲れ様。今日も仕事だったんだね」

「ああ。やり残してた仕事があったのと、部活で生徒が来てたから校内の見回りもしてた」

 百合子は懐かしそうに笑う。

「笹原くん、部活の顧問してるの?」

「俺は文芸部の顧問」

「あ~、それっぽい」


 笹原は昔から本を読むのが好きだった。

 高校生の頃、課題に頭を悩ます百合子と健太の横で、早々に課題を終わらせた笹原は、静かに本の世界に没頭していた――そんな光景を思い出す。

 彼の前に置かれたカップからは、香ばしい湯気が立ちのぼっていた。


「昔はさ、土曜日も午前中に授業あったでしょ。前の職場で“土曜日の放課後何してた?”って話題になってね。若い子に“え、土曜日は休みでしたけど?”って言われた時、ジェネレーションギャップ感じたんだよねぇ」

 同年代の同僚と「年齢を感じるね」と軽くショックを受けたのだ。「そっかぁ、土曜日は休みだったんだぁ」と虚無の表情で返事をしたのを覚えている。


「第二、第四土曜日だけ休みだったな」

「そうそう。全部休みになればいいのにって思ってた」

 社会人になってからは、土日や祝日は特に忙しかった。平日に休みを取ることが多くなり、いつしか曜日の感覚も薄れていった。


「笹原くんも、休みの日なのに大変だね」

「まあ、慣れたけどな」

 笹原は苦笑し、軽くカップを傾けた。

 その仕草が、どこか昔のままで――百合子の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。


「そうだ、最近の若い子の流行を知りたいって話だったか?」

「そうそう。笹原くん、学校で生徒と話すことも多いでしょ? ちょっと参考にしたくて」

 百合子は、今度の商店街のイベントで出す雑貨のアイデアを探していた。

「まあ、生徒と話はするけど……参考になるかは分からないぞ」

「いいよ、聞いてみたい」

「そうだな……最近は、ちょっと前に流行ったものがまた人気になってるらしい。平成レトロ、だったか?」

「平成って、もうレトロなんだね」

「俺たちからしたら、つい最近の話なんだけどな」

「ほんと、それ」


 二人は顔を見合わせ、くすりと笑う。

 令和になってまだ数年。けれど、もう“平成”は懐かしさを帯びた言葉になっている。

 最近見た音楽番組でも、2000年~2010年あたりの曲が“懐メロ”として紹介されていて、百合子は思わず「ウソでしょ」とテレビに話しかけていた。


「あと、生徒たちが言ってたけど……“自分好みにカスタマイズできるもの”が人気らしい。オリジナリティが出せるって」

「カスタマイズでオリジナリティを出す、かぁ」

 少しレトロで、自分らしさが出せるもの。

 百合子は、笹原の話を聞きながら、頭の中でいくつかのアイデアを思い浮かべた。


「うーん……レジンで小さいチャームを作って、いくつかカスタマイズできるようにしたら面白いかも」

 何年か前、同僚と一緒にレジン作りにハマって、一式を揃えたことがある。

 透明な中に閉じ込めた花やパーツが光を受けてきらりと輝く――あの小さな世界が、百合子は好きだった。


「レジンか。以前、生徒が自分で作ったアクセサリーを見せてくれたな。簡単にできるものなのか?」

「うん。私は楽しく作ってたよ。興味ある?」

「ある」

「じゃあ、今度一緒に作ってみる? いくつか試作品を作ろうと思ってるんだけど」


 笹原が真面目な顔でレジンを流し込む姿を想像して、百合子の頬が思わず緩んだ。

「迷惑でなければ、作ってみたい」

「じゃあ、笹原くんのお休みの日で都合のいい日を教えて。その日までに準備しておくわ」

「何か、俺が買っておくものはあるか?」

「うーん、多分家にあるもので足りると思うけど……もし足りないものがあったら連絡するね。少し探さないといけないから」

 実家に持ち帰った段ボールのどこかに、材料を詰め込んだ記憶がある。

「わかった。楽しみにしている」

 ふっと笑った笹原の目尻に、小さなしわが寄った。


 ――昔はなかった目尻のしわ。


 きっと自分の目尻にも、同じように時のしるしが刻まれているのだろう。

 ふと、そんなことを百合子は思った。


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