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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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エピローグ

 夕暮れの光が、ゆっくりと店内に差し込んでいた。

【樹樹】の窓際の席に、百合子はひとり座っている。

 遅い昼休みを兼ねて訪れたのだ。


 カップの中で、澄んだ深茶色の液面がかすかに揺れた。


 外では、商店街を行き交う人の声。

 客を呼び込む店員の声。

 アーケードの音楽。

 ──昔と同じ雰囲気が広がっている。


 数日前、雑貨店「花と日々」がオープンした。

 笹原と健太から贈られた花は、まだ新しい香りを放っていた。


 カップをそっと持ち上げる。

 湯気が静かに立ちのぼり、ほのかに甘く、少しだけ苦い香りが鼻をくすぐる。

 この香りに包まれると、いつも時間がゆっくりになる気がした。


 マスターが、カウンターの向こうで穏やかに微笑んでいる。

 「そのブレンド、少し味を変えたんですよ」

 「そうなんですか?」

 「ええ。今の皆さんに合うように、少しだけ」


 カップを口に運ぶと、たしかに少し柔らかい味がした。

 「……優しい味ですね」

 「思い出は、いつだってそういうものですから」

 マスターの声が、静かな空気の中に溶けていく。


 窓の外を眺めると、通りを渡る子どもたちの笑い声が聞こえた。

 どこかの家から、夕飯の支度の匂いも流れてくる。

 ああ、こんな時間が好きだ。

 何かが動き出す前の、日常の合間のような静けさ。


 笹原の顔がふと浮かんだ。

 真面目で、言葉数は少ないけれど、時折見せる笑顔が思い出される。

 きっと今ごろ、学校で部活の生徒たちと話しているのだろう。

 その姿を思うと、胸の奥がほんのりと温かくなった。


 カップを置く音が、店内に小さく響く。

 陽が傾き、窓ガラスを金色に染めていく。

 この場所で、どれだけの季節を見送ってきたのだろう。

 あの頃と違うのは、ここに戻るたび、守りたいものが少しずつ増えていること。


 ──過去と今をつなぐ、静かな時間。

 それはもう、特別な出来事ではなく、日々の中に溶け込んでいた。


 百合子は立ち上がり、ゆっくりとドアを押した。

 鈴の音が、やわらかく鳴る。


 外の空気はひんやりとして、夕風が頬をかすめる。

 遠くで犬の鳴き声がして、街灯がひとつ、またひとつ灯り始めた。


 帰り道、通りの向こうに自分の店の看板が見える。

 その灯りが、まるで誰かがそっと差し出した手のように、優しく揺れていた。

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