エピローグ
夕暮れの光が、ゆっくりと店内に差し込んでいた。
【樹樹】の窓際の席に、百合子はひとり座っている。
遅い昼休みを兼ねて訪れたのだ。
カップの中で、澄んだ深茶色の液面がかすかに揺れた。
外では、商店街を行き交う人の声。
客を呼び込む店員の声。
アーケードの音楽。
──昔と同じ雰囲気が広がっている。
数日前、雑貨店「花と日々」がオープンした。
笹原と健太から贈られた花は、まだ新しい香りを放っていた。
カップをそっと持ち上げる。
湯気が静かに立ちのぼり、ほのかに甘く、少しだけ苦い香りが鼻をくすぐる。
この香りに包まれると、いつも時間がゆっくりになる気がした。
マスターが、カウンターの向こうで穏やかに微笑んでいる。
「そのブレンド、少し味を変えたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。今の皆さんに合うように、少しだけ」
カップを口に運ぶと、たしかに少し柔らかい味がした。
「……優しい味ですね」
「思い出は、いつだってそういうものですから」
マスターの声が、静かな空気の中に溶けていく。
窓の外を眺めると、通りを渡る子どもたちの笑い声が聞こえた。
どこかの家から、夕飯の支度の匂いも流れてくる。
ああ、こんな時間が好きだ。
何かが動き出す前の、日常の合間のような静けさ。
笹原の顔がふと浮かんだ。
真面目で、言葉数は少ないけれど、時折見せる笑顔が思い出される。
きっと今ごろ、学校で部活の生徒たちと話しているのだろう。
その姿を思うと、胸の奥がほんのりと温かくなった。
カップを置く音が、店内に小さく響く。
陽が傾き、窓ガラスを金色に染めていく。
この場所で、どれだけの季節を見送ってきたのだろう。
あの頃と違うのは、ここに戻るたび、守りたいものが少しずつ増えていること。
──過去と今をつなぐ、静かな時間。
それはもう、特別な出来事ではなく、日々の中に溶け込んでいた。
百合子は立ち上がり、ゆっくりとドアを押した。
鈴の音が、やわらかく鳴る。
外の空気はひんやりとして、夕風が頬をかすめる。
遠くで犬の鳴き声がして、街灯がひとつ、またひとつ灯り始めた。
帰り道、通りの向こうに自分の店の看板が見える。
その灯りが、まるで誰かがそっと差し出した手のように、優しく揺れていた。




