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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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 翌日。

 開店準備を進める百合子だったが、同じ場所を何度も拭いたり、小物を手に取ったまま考え込んだりで、まったく身が入らなかった。

 純恋は、あれから部屋に閉じこもったまま出てこない。微かに物音がしたので中にいるのは分かるけれど、声をかけても返事はなかった。


「どうすれば良かったんだろう……」


 小さくつぶやいたその声は、静かな店内に吸い込まれていった。

 チリン、とドアに取り付けた鈴が鳴る。

 顔を上げると、笹原が立っていた。


「おはよう。開店前で忙しいと思って。差し入れ持ってきた」


「あ、ありがとう」


 いつもより元気のない百合子の様子に、笹原は少し眉を寄せた。


「少し外の空気でも吸わないか?」


 百合子はためらいながらも、頷いた。


 外に出ると、少し冷たい秋の風が頬を掠めた。

 ショーウィンドウに映る顔は、自分が思っていたよりも暗い。

 笹原はそんな百合子をちらりと見て、何も言わず、歩幅を合わせて隣に並ぶ。

 その沈黙が、やさしかった。


 やがて二人は、商店街の外れにあるベンチに腰を下ろした。

 笹原が近くの自販機で温かいお茶を買ってきてくれる。

 ペットボトルを受け取ると、その温かさにふっと息が漏れた。

 落ち葉の隙間から射す光が、二人の靴先をやさしく照らしていた。


「……何かあった?」


 笹原の声は、いつも通り穏やかだった。

 百合子は小さくうなずき、昨夜のことを話し始める。

 純恋とケンカをしたこと。

 原因は、自分が健太の奥さんのことを純恋に話さなかったからだということ。


 笹原はしばらく黙って聞いてから、静かな口調で話し出した。


「人間関係って、難しいな。話した方がいいときもあるし、話さない方がいいときもある……。百合子が健太の奥さんのことを伝えなかった気持ちも、純恋ちゃんの知りたかったっていう気持ちも、どちらが間違いなんてことはない。正解なんて、きっとないんだと思う」


 その言葉に、胸の奥に溜まっていた澱が少しずつほどけていくようだった。

 百合子はペットボトルを両手で包み、息を吐いた。


「ありがとう、透くん。聞いてもらえて、少し楽になった」


 そのとき、スマートフォンが震えた。

 画面には、健太からのメッセージ。

『ちょっと時間ある?』


 笹原と一緒にいると返すと、「行っていい?」という返事がすぐに届いた。


 十五分後、公園の入口に健太が現れた。

 いつもより少し真面目な表情をしている。


「……純恋ちゃんに、聞いた?」


「うん」


 百合子の頷きに、健太は頭をかきながら苦笑した。


「ごめん。オレがはじめから純恋ちゃんに話していればよかったのに」


「ううん。私も、知ってて話さなかったから。同じだよ」


 風が落ち葉を巻き上げていく。

 健太は少しうつむいて言った。


「昨日から純恋ちゃんにLINEしてるけど、既読はつくのに返事がないんだ」


「……私も朝、声をかけたけど返事はなかった」


 しばらく沈黙が落ちたあと、百合子は静かに尋ねた。


「ねぇ、健太くんは純恋のこと、どう思ってるの?」


 健太は視線を少し遠くにやって、考えるように言葉を探した。


「最初は、正直、戸惑ったかな。でも、純恋ちゃんの気持ち、迷惑だなんて思えないんだ。そう思える自分に驚いた。この気持ちが恋かどうかは、まだ分かんないけど……そうなったらいいな、って思ってる」


 その言葉に、百合子の表情がやわらいだ。

 純恋の気持ちを、大切に受け止めてくれていることが伝わった。


「ありがとう、健太くん。その気持ちを純恋に伝えてくれる?」


「うん」


 健太は神妙な顔つきで頷いた。


 百合子は健太を自宅に招いた。

 もしかしたら、自分の行動は純恋にとってお節介かもしれない……。

 健太の妻の件で良かれと思って行動しても、それが裏目に出てしまったから。

 健太を連れて来たことで、また純恋を傷付ける結果になるんじゃないか、百合子は不安になった。

 そんな百合子を安心させるように、笹原が肩に手を添えて、付き添ってくれている。


 百合子は純恋の部屋の前で立ち止まり、健太に視線を向けた。

 健太は小さく頷き、ドアの向こうに向かって声をかけた。



「純恋ちゃん。聞こえる? 君の気持ち……迷惑なんかじゃないよ。ありがとう」


 しばらくの沈黙。

 中からわずかに衣擦れの音がして、やがてドアがゆっくりと開いた。


 目を赤くした純恋が立っていた。

 長い髪の先が少し乱れていて、夜を越えた気配がそのまま残っている。


「……迷惑じゃないんですか?」


 震える声。

 健太は首を横に振り、穏やかに微笑んだ。


「迷惑どころか、まっすぐに想ってくれたことが、嬉しかったよ」


 純恋は小さく息を呑む。


「でも……勝手に気持ちをぶつけてしまって。九堂さんに負担をかけたんじゃないかって……怖くて」


 純恋の声はかすかに震えていた。

 健太は少し考えてから、やさしい声で答えた。


「最初は、びっくりした。正直、どうしたらいいのか分からなかった。でもね、あんなに真っ直ぐな言葉をもらったの、久しぶりだったんだ。嬉しくて、頭が追いつかなかっただけなんだと思う」


「……嬉しくて?」


「うん。誰かに、あんなふうに想ってもらえることって、そうそうないから」


 純恋の目がわずかに揺れた。

 その瞳の奥に、光が差す。


「私……自分の気持ちでいっぱいで、九堂さんのこと、ちゃんと考えられてなかったと思います」


「そんなことないよ。純恋ちゃんはいつも真剣だった。誰かを大切に思うって、そういうことだと思う」


 健太はそっと純恋の頭に手を置いた。

 その掌の温かさが、冷たくこわばっていた純恋の心を溶かしていく。


「私、これからも九堂さんのこと……好きでいて良いですか?」


「もちろんだよ。オレもちゃんと、君の気持ちと向き合うから」


 純恋はほんの少し唇を噛んでから、ふっと笑った。

 涙と笑顔が同時にこぼれるその表情は、まるで曇り空の向こうに光が差したようだった。


 その表情を見届けて、百合子は笹原と目を合わせ、静かに廊下を離れた。

 頬には、やわらかな笑みが浮かんでいた。


「ホッとしたらお腹空いてきたかも」と言うと、笹原が笑いながら提案する。


「じゃあ、いつもの喫茶店で食事でもどう?」


「うん」


 夕暮れの街を歩く二人の背中を、秋風がやさしく押した。

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