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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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13

 数日後、純恋は健太の家を訪ねていた。


 ホームページの作り方を教えてほしいと純恋が頼むと、健太は「いいよ~」と快く引き受けてくれた。

 はじめは商店街の事務所で教えてもらう予定だったが、パソコンの調子が悪いということで、急遽、健太の家に変更になったのだ。


 玄関を上がると、懐かしいような木の匂いがした。


 リビングに足を踏み入れると、生活感がそのまま残っていた。

 ソファの上には雑誌とノートパソコン、ローテーブルの上にはマグカップと仕事の資料。

 洗濯物が端にまとめられたままで、カーテンの隙間から差す光にふわりと埃が舞った。

 けれど、床はきちんと掃かれていて、空気は不思議と清潔だ。

 ——几帳面じゃないけど、ちゃんと暮らしている人の部屋。

 そんな印象だった。


「すみません、お邪魔します」

「ごめんね、ちょっと散らかってるけど」

 健太が目を泳がせながら笑う。

「これくらい、散らかったうちに入りませんよ。あ、これ、食べてください」

 純恋は、笑いながら持参した紙袋を差し出した。

「わざわざ気を使わなくていいのに……あ、これ。食べてみたいと思ってたやつだ」

 最近できたケーキ屋のクッキーの詰め合わせ。何を持って行こうか悩んで選んだものだった。

 健太の嬉しそうな表情に、純恋の胸が少しだけ温かくなる。


 ノートパソコンを開き、商店街のサイトデザインについて話し始めると、健太の表情が真剣になる。

 けれど、説明の合間にふと笑ったり、冗談を挟んだりするその雰囲気に、純恋は少しずつ緊張を解いていった。


 しばらくして、「少し休憩にしようか」と健太が台所に引っ込んでいった。

 純恋は「ん~~」と腕を上に伸ばし、肩のこりをほぐす。

 ふと、棚の上の写真立てが目に入った。

 白いワンピースを着た女性と、優しく肩を寄せる健太。

 その表情があまりに柔らかくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 ——誰だろう、この人。


 気になって視線を止めたままでいると、隣の部屋の仏壇に同じ写真が飾られているのに気づいた。

 花が供えられ、線香の香りが静かに漂っている。


「純恋ちゃん、クッキー一緒に……あ……」

 背後から声がして、純恋ははっと振り返った。

 紅茶とクッキーを載せたお盆を手にした健太が、少し気まずそうに立っている。


「その……隠してたわけじゃないんだけどね。その人、オレの奥さん——三年前に病気で亡くなったんだ」


「……奥さん」

 思わず呟くと、健太はゆっくりと頷いた。

「大学の同期でさ。明るくて、すごく活発な人だったんだ」

 淡々と語る声の奥に、静かな痛みがあった。

 純恋は胸が詰まり、ただ小さく首を振った。


「……知らなかった。ごめんなさい」

「ううん。話してなかったんだから、知らなくて当然だよ」

 その穏やかな笑顔が、かえって遠く感じた。

 彼はいまも、その人を大切に胸に抱いている。

 そして自分が、軽々しく“チャンスがありますね”なんて言っていたことを思い出し、頬が熱くなった。


「私……知らないで……アピールしたりして……本当にごめんなさい」

 声が震えた。

 健太は慌てて立ち上がり、「大丈夫だよ」とやわらかく言った。

「純恋ちゃんの気持ち、ちゃんと伝わってたよ。オレも久しぶりに、誰かに向き合う時間をもらった気がする。ありがとう」

 優しさしかないその言葉が、痛いほど沁みた。

 それでも、涙をこらえきれず、純恋は立ち上がった。


「……ごめんなさい、今日は帰ります」

 健太が何か言いかけたが、純恋は首を振って玄関へ向かった。

 秋風が頬を打つ。歩きながら、涙が次々にこぼれ落ちた。



 泣きながら帰ってきた純恋を見て、百合子は驚いた。

「どうしたの、純恋……?」

 返事の代わりに、妹は目元をぬぐい、かすれた声で言った。

「お姉ちゃん……九堂さんの奥さんが亡くなってたの、知ってたの?」

 静かな問いに、百合子は小さく頷いた。

「……うん」

「どうして教えてくれなかったの!? 知ってたら、あんな無神経なこと、絶対言わなかったのに!」

 純恋の声が震えていた。

 百合子は一瞬言葉を探し、静かに口を開く。


「……私も、人づてでしか聞いていなかったの。それにね、純恋の素直さが、健太くんの心に新しい風を運んでくれるかもしれないと思ったの」


 純恋は唇を噛み、視線を落とす。

「そんなの、無理だよ……私なんか、ただ傷をえぐっただけ」

「そんなことないわ」

 百合子はそっと妹の肩に触れた。

「純恋の気持ちは、きっと届いてると思う」

「……お姉ちゃん、優しすぎるよ」

 涙をこらえきれずに言って、純恋は顔をそむけた。

「ごめん。しばらく一人にして」


 そう言って、部屋の奥へと消えていく。


 歳の離れた妹と、こんなふうにぶつかるのは初めてだった。

 百合子は、ただその背中を見送ることしかできなかった。

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