閑話:透と健太
「どこも予約で一杯だったな~」
「花の金曜日だからな。仕事から解放されて飲む人が多いんだろうな」
数日前、健太から「男同士で飲みに行かない?」と連絡があり、今夜がその約束の日だった。
だが、どの店に入っても満席。
いつもの喫茶店は開いているが、酒を飲むには雰囲気が違う。ファミレスという気分でもない。
「俺のアパートで飲むか? 近いし」
「え、いいの?」
「ああ。酒とつまみ、買ってこう」
健太は母親と同居しているため、急に押しかけるのは気が引ける。その点、笹原はひとり暮らしなので気楽だ。
二人はコンビニに立ち寄り、好みの酒やつまみをかごに入れていく。
笹原は日本酒やビール。健太は梅酒や甘いチューハイ。
「甘い酒って、悪酔いしないか?」
「え~、そうかな? オレは甘いのばっかり飲んでるけど、あんまり酔ってる感じしないんだよな」
喫茶店での再会以来、何かと連絡を取るようになった二人だが、こうして一緒に飲むのは初めてだった。
お互いのかごの中を覗き合い、イメージ通りのラインナップに「へぇ、やっぱりな」と笑った。
笹原の住むアパートは、商店街からバスで二十分ほどの静かな住宅街にある。
年季の入った建物だが、どこか温もりがある。
部屋に入ると、笹原はまずエアコンをつけ、テーブルの上に置きっぱなしだった本と書類をまとめて本棚に移した。
「透の部屋って感じだな」
「なんだそれ」
「いや、きっちりしてるなぁって思ってさ」
几帳面な笹原らしく、無駄のない整った部屋だ。
「そうか? 健太の部屋は……散らかってそうだな」
「ひどっ、その通りだけど」
顔を見合わせて笑い合う。
プシュッと小気味よい音を立てて、缶が開く。
乾杯の言葉もそこそこに、二人は一口目を喉に流し込んだ。
冷たさが喉を滑り、笹原は小さく息を吐いた。
「……夏の終わりって、少し寂しいな」
「わかる。祭りが終わると、一気に静かになるからな」
カーテンの向こうでは、遠くの通りを車のライトが流れていく。
どこかで誰かの笑い声がして、また夜が静まった。
「そういえば、百合子のこと、どう思ってる?」
ふいに健太が言い、笹原の指がぴくりと止まった。
「どう、って」
「好きなんだろ?」
「……ああ」
思いのほかあっさりとした返事に、健太は目を丸くし、そして破顔した。
「だよなぁ。昔から透、百合子のこと好きだったもんな」
「……え、昔から?」
「え、気づいてなかったの?」
笑いながら缶を傾ける健太。
笹原は曖昧に笑い、冷たい金属の感触を指でなぞった。
あの頃の気持ちは、「好き」なんて言葉で片づけられなかった。
ただ一緒にいると、心が静かに落ち着いた。
それが恋だったと気づいたのは、ずっとあとだ。
「オレもさ、あの頃、百合子のこと好きだったんだよ」
「え?」
驚いて顔を上げると、健太は少し遠い目をしていた。
「けど、あの気持ちは恋っていうより……特別仲の良い友達って感じだったんだろうな。恋愛がどんなものか分かってなくて、友愛を恋愛と勘違いしてたんだと思う」
淡い笑みの裏に、少しの寂しさが滲む。
笹原は何も言わず、もう一口、缶を口に運んだ。
「本気の恋をしたのは、働き始めてからだったな……」
健太がぽつりとつぶやいた。
視線の先には、冷めかけた缶ビール。
「職場で出会ったんだ。元気で、よく笑う人でさ。最初は何とも思ってなかったけど、気づいたら惹かれてた」
「……奥さん、だった人?」
「ああ。しばらくして結婚して……ほんと、バカみたいに幸せだったよ」
健太の声は、少しだけ震えていた。
笹原は缶をそっとテーブルに置いた。
言葉を探そうとするが、適当なものが見つからない。
「病気がわかって、あっという間だった」
健太は静かに笑った。
その笑みは、痛みをやわらげようとするように見えた。
笹原は小さく頷いた。
「……齋藤さんから、全部聞いたよ」
「そうか」
「迷ったけど、百合子にも話した。健太から話してくれるまでは、心に留めておこうってことにしたんだ」
健太が小さく笑い、「ありがとう」とつぶやく。
それだけで、笹原の胸の奥に温かい痛みが走った。
しばらく、二人とも黙って缶を傾けた。
夏の夜の風がカーテンを揺らし、外の街灯が淡く光った。
「……そういえばさ」
健太が、少し酔いの回った声で言った。
「この前、純恋ちゃんに告白されてさ」
「純恋ちゃんに?」
「ああ。『恋愛はまだ考えられない』って答えたら、『まだってことはチャンスありますよね』って言われて……それから会うたびにアピールされるんだよ」
健太が頭をかくように笑う。
「最初は困ったけどさ……それが嫌じゃないって自分に驚いてる」
笹原は缶を軽く掲げ、笑った。
「恋の芽が育ってきたか?」
「国語の先生みたいな表現だね」
「そうだが?」
「ははっ、そうだった! ……うーん、まだ芽にもなってないかな。ただ……あの子と話してると、少しずつ心が動くんだ。久しぶりに、誰かと未来を考えてもいいのかもしれないって」
十分、恋の芽は育っている――そう思ったが、笹原は黙って頷いた。
「いいんじゃないか」
笹原の言葉に、健太が小さく笑う。
「そういえば、純恋ちゃん、仕事やめて百合子の手伝いするって言ってたな」
「マジか。それじゃ、これからもアピールされちゃうなぁ」
そう言って、嬉しそうに笑う健太の顔に、笹原は思わず微笑んだ。
「……っていうかさ」
「ん?」
「いつの間に“百合子”呼びになってんの? ついこの前まで“日向”だったよね?」
「……」
笹原の耳がほんのり赤くなる。
「いや、別に……流れで」
「へぇ~流れねぇ。はいはい、そういうことにしとく」
「茶化すなよ」
「茶化すに決まってんだろ。俺の前で惚気るとは、いい度胸してるな」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。
冷たい缶の音と笑い声が混ざって、夜の静けさに溶けていった。
――きっと、健太はもう一度、誰かを好きになれる。
その笑顔を見ながら、笹原は静かに祈った。




