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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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14/20

閑話:透と健太

「どこも予約で一杯だったな~」

「花の金曜日だからな。仕事から解放されて飲む人が多いんだろうな」


 数日前、健太から「男同士で飲みに行かない?」と連絡があり、今夜がその約束の日だった。

 だが、どの店に入っても満席。

 いつもの喫茶店は開いているが、酒を飲むには雰囲気が違う。ファミレスという気分でもない。


「俺のアパートで飲むか? 近いし」

「え、いいの?」

「ああ。酒とつまみ、買ってこう」


 健太は母親と同居しているため、急に押しかけるのは気が引ける。その点、笹原はひとり暮らしなので気楽だ。


 二人はコンビニに立ち寄り、好みの酒やつまみをかごに入れていく。

 笹原は日本酒やビール。健太は梅酒や甘いチューハイ。


「甘い酒って、悪酔いしないか?」

「え~、そうかな? オレは甘いのばっかり飲んでるけど、あんまり酔ってる感じしないんだよな」


 喫茶店での再会以来、何かと連絡を取るようになった二人だが、こうして一緒に飲むのは初めてだった。

 お互いのかごの中を覗き合い、イメージ通りのラインナップに「へぇ、やっぱりな」と笑った。


 笹原の住むアパートは、商店街からバスで二十分ほどの静かな住宅街にある。

 年季の入った建物だが、どこか温もりがある。


 部屋に入ると、笹原はまずエアコンをつけ、テーブルの上に置きっぱなしだった本と書類をまとめて本棚に移した。


「透の部屋って感じだな」

「なんだそれ」

「いや、きっちりしてるなぁって思ってさ」


 几帳面な笹原らしく、無駄のない整った部屋だ。

「そうか? 健太の部屋は……散らかってそうだな」

「ひどっ、その通りだけど」


 顔を見合わせて笑い合う。


 プシュッと小気味よい音を立てて、缶が開く。

 乾杯の言葉もそこそこに、二人は一口目を喉に流し込んだ。

 冷たさが喉を滑り、笹原は小さく息を吐いた。


「……夏の終わりって、少し寂しいな」

「わかる。祭りが終わると、一気に静かになるからな」


 カーテンの向こうでは、遠くの通りを車のライトが流れていく。

 どこかで誰かの笑い声がして、また夜が静まった。


「そういえば、百合子のこと、どう思ってる?」

 ふいに健太が言い、笹原の指がぴくりと止まった。


「どう、って」

「好きなんだろ?」

「……ああ」


 思いのほかあっさりとした返事に、健太は目を丸くし、そして破顔した。

「だよなぁ。昔から透、百合子のこと好きだったもんな」

「……え、昔から?」

「え、気づいてなかったの?」


 笑いながら缶を傾ける健太。

 笹原は曖昧に笑い、冷たい金属の感触を指でなぞった。


 あの頃の気持ちは、「好き」なんて言葉で片づけられなかった。

 ただ一緒にいると、心が静かに落ち着いた。

 それが恋だったと気づいたのは、ずっとあとだ。


「オレもさ、あの頃、百合子のこと好きだったんだよ」

「え?」


 驚いて顔を上げると、健太は少し遠い目をしていた。

「けど、あの気持ちは恋っていうより……特別仲の良い友達って感じだったんだろうな。恋愛がどんなものか分かってなくて、友愛を恋愛と勘違いしてたんだと思う」


 淡い笑みの裏に、少しの寂しさが滲む。

 笹原は何も言わず、もう一口、缶を口に運んだ。


「本気の恋をしたのは、働き始めてからだったな……」

 健太がぽつりとつぶやいた。

 視線の先には、冷めかけた缶ビール。


「職場で出会ったんだ。元気で、よく笑う人でさ。最初は何とも思ってなかったけど、気づいたら惹かれてた」

「……奥さん、だった人?」

「ああ。しばらくして結婚して……ほんと、バカみたいに幸せだったよ」


 健太の声は、少しだけ震えていた。

 笹原は缶をそっとテーブルに置いた。

 言葉を探そうとするが、適当なものが見つからない。


「病気がわかって、あっという間だった」

 健太は静かに笑った。

 その笑みは、痛みをやわらげようとするように見えた。


 笹原は小さく頷いた。

「……齋藤さんから、全部聞いたよ」

「そうか」

「迷ったけど、百合子にも話した。健太から話してくれるまでは、心に留めておこうってことにしたんだ」


 健太が小さく笑い、「ありがとう」とつぶやく。

 それだけで、笹原の胸の奥に温かい痛みが走った。


 しばらく、二人とも黙って缶を傾けた。

 夏の夜の風がカーテンを揺らし、外の街灯が淡く光った。


「……そういえばさ」

 健太が、少し酔いの回った声で言った。

「この前、純恋ちゃんに告白されてさ」

「純恋ちゃんに?」

「ああ。『恋愛はまだ考えられない』って答えたら、『まだってことはチャンスありますよね』って言われて……それから会うたびにアピールされるんだよ」


 健太が頭をかくように笑う。

「最初は困ったけどさ……それが嫌じゃないって自分に驚いてる」


 笹原は缶を軽く掲げ、笑った。

「恋の芽が育ってきたか?」

「国語の先生みたいな表現だね」

「そうだが?」

「ははっ、そうだった! ……うーん、まだ芽にもなってないかな。ただ……あの子と話してると、少しずつ心が動くんだ。久しぶりに、誰かと未来を考えてもいいのかもしれないって」


 十分、恋の芽は育っている――そう思ったが、笹原は黙って頷いた。

「いいんじゃないか」

 笹原の言葉に、健太が小さく笑う。

「そういえば、純恋ちゃん、仕事やめて百合子の手伝いするって言ってたな」

「マジか。それじゃ、これからもアピールされちゃうなぁ」


 そう言って、嬉しそうに笑う健太の顔に、笹原は思わず微笑んだ。


「……っていうかさ」

「ん?」

「いつの間に“百合子”呼びになってんの? ついこの前まで“日向”だったよね?」

「……」


 笹原の耳がほんのり赤くなる。

「いや、別に……流れで」

「へぇ~流れねぇ。はいはい、そういうことにしとく」

「茶化すなよ」

「茶化すに決まってんだろ。俺の前で惚気るとは、いい度胸してるな」


 二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。

 冷たい缶の音と笑い声が混ざって、夜の静けさに溶けていった。


 ――きっと、健太はもう一度、誰かを好きになれる。

 その笑顔を見ながら、笹原は静かに祈った。

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