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あの後、純恋は「手伝います!」と張り切って健太のあとをついていき、百合子は苦笑しながら二人を見送った。
健太は「仕方ないなぁ」と少し困ったような、だけど穏やかな笑顔で純恋を見ていた。
その表情は、恋愛のそれではなく、小さな生きものを見つめるような優しさを含んでいるように見えた。
――それでも、純恋にとっては、そのまなざしが何よりも嬉しいのだろう。
純恋は花が綻ぶような笑顔だった。
百合子は、少し離れた場所から二人の背を見つめながら、そっと安堵の息をついた。
午後になり、戻ってきた純恋と一緒に喫茶店へ行くことにした。
木の扉を開けると、カランカランッと鈴の音が鳴る。
レトロなランプの光と、香ばしいコーヒーの香りが店内を満たしていた。
いつもの奥の席ではなく、店の入口に近い窓側の席に二人は座った。
「わぁ、素敵……! 本当に昭和みたい。今、こういうレトロ喫茶ってすごく流行ってるんだよ」
純恋が目を輝かせて言う。
百合子は笑ってうなずいた。
「そうなの? このお店、昔から変わらないのよ。私、高校のころ、よくここで勉強してたの」
「へぇ……九堂さんと、笹原さんと?」
「そう。三人でよく来てたわ」
「そうなんだ! もっとその頃の話聞きたいなぁ」
純恋が頬杖をついて身を乗り出す。
「そうねぇ、何から話そうかしら……」
もう二十五年も前の話だ。
だけど、あの頃の思い出は色褪せない。
社会人になってからの時間は一瞬で過ぎたというのに、あの頃の時間はゆっくりと、そして沢山の思い出が詰まっている。
カランカランッと鳴るベルの音に、引き寄せられるように、百合子は視線を向けた。
「あ……」
笹原が額の汗を手の甲で拭いながら、店に入ってくる姿があった。
そして、笹原も百合子の視線に気が付き、動きが止まる。
「え、あ、百合子」
笹原に名前を呼ばれ、トクンと胸が脈打つ。まだ苗字ではなく名前で呼ばれるのは慣れない。
「笹……透くん、偶然だね。もしかして、仕事帰り?」
笹原はスーツ姿だ。
「ああ、補講があったから」
「夏休みなのに大変だね」
「まあ、仕事だからな。えっと……?」
笹原がちらりと純恋に視線を移す。そう言えば、以前「俺の中で、純恋ちゃんは小学生のまま止まってる」と言っていたのを思い出した。
「純恋よ。大人になったでしょう?」
「こんにちは、笹原さん。姉がお世話になってます」
純恋が愛想良い笑顔で、笹原に頭を下げる。
「ああ、小さい頃の記憶しかないから、誰だか分からなかったよ」
笹原は苦笑しながら、純恋に会釈する。
「良かったら、笹原さん一緒に座ります?」
「いいのか? 姉妹でゆっくりしてたんだろう?」
「良いんですよ。笹原さんにも、昔の話聞きたいです。どうぞ、どうぞ、お姉ちゃんの隣に座ってください」
純恋に勧められ、笹原は百合子の隣の席に腰をおろした。
「純恋、私たちが高校生の頃の話とか聞きたいんですって」
「ああ、あの頃の話か」
「九堂さんも一緒に、三人でよくこの喫茶店に来てたんですよね」
「そうだな。週三・四回は来てた気がするな」
「そんなに来てた? あ、でもそれくらい来てたのかしら……?」
週二・三回くらいじゃないかと思ったが、よく思い出してみればそれくらい来ていた気もする。何ならテスト前などはほぼ毎日ここに通って、笹原のテスト対策のお世話になっていたのを思い出した。
「それって、もう常連だよね」
「そうだな。常連だったと思う」
笹原が加わり、昔話に花を咲かせると、あっという間に時間が過ぎていった。
「あ、そろそろ帰ってご飯作らなきゃ」
カウンターの奥の壁に架かる古い時計を見て、百合子は、このあとの予定を思い出した。
「そうだった。今日は親孝行しようって計画してたんだ」
いつもお世話になってる母に感謝を込めて、今日は百合子と純恋が夕食を作る予定にしていた。
「じゃあ、そろそろ出るか。今日は楽しかったよ」
「あ、待って、透くん」
席から立ち上がろうとする笹原を百合子は呼び止め、鞄の中から小さな箱を取り出した。
「これ、良かったら使って?」
「俺に? 開けてみても?」
「うん。どうぞ」
笹原が箱を受け取り、蓋を開ける。
そこには濃い茶色の革製のブックマーカーが入っており、小さなレジンの飾りが付いていた。
レジンの透明の中に、夜明け前の空みたいな青が沈んでいる。
「本、好きでしょ? だから作ってみたの」
笹原が、ブックマーカーを手に取り、指先でその青をそっとなぞった。
「……きれいだな」
低くつぶやいた声が、胸の奥に静かに残った。
「ありがとう。大事にする」
はにかむように微笑む笹原に、百合子は今日一番の胸の高鳴りを覚えたのだった。
店を出て、夕方の風に当たりながら帰る道すがら、純恋がぽつりと尋ねた。
「ねえ、お姉ちゃん。笹原さんのこと、好きなんだね」
その言葉に、百合子は立ち止まった。
通りを渡る風が、夏の名残を運んでくる。
笹原の穏やかな笑顔、ブックマーカーを受け取る指先――胸の奥に、その光景がやわらかく広がっていく。
「……うん」
小さく答えた声は、自分でも驚くほど静かで、確かな響きを持っていた。
夏の終わりの夕空が、少しだけ赤く染まっていた。
それは、心の奥に灯った小さな想いと、どこか重なって見えた。




