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珈琲の香りと二十五年越しの初恋  作者: 佐倉穂波


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11/20

閑話:純恋と健太

「九堂さん、こっちはもう終わりました!」


 祭の実行委員の詰め所で、純恋は手に持ったチェックリストを軽く掲げた。

 露店の片付けや備品の確認に追われている健太が、額の汗をぬぐって振り向く。

 商店街のPR動画の撮影のあとも、純恋は彼の手伝いをしていた。


「助かる。ありがとう、純恋ちゃん」


 その笑顔は昔と変わらない。

 明るくて、見ている方まで元気になれる笑顔。

 それを見るたびに、胸の奥がじんと温かくなった。


「花火、もう始まってますよ。ちょっとだけ、見ませんか?」


 そう言うと、健太は少し迷ったように空を見上げた。

 夜空には大輪の花が咲き、遠くから歓声が聞こえてくる。

 彼は作業の手を止め、工具を置いた。


「じゃあ、ちょっとだけ」


 ふたりは会場の外れ、提灯の灯りがゆらめく路地の端に並んだ。

 風が純恋の浴衣の袖をやさしく揺らす。

 打ち上がった花火が夜空を染め、ふたりの影を足もとに落とした。


「こんなふうに一緒に花火を見るの、初めてですね」


「そうだね」


 健太が笑う。その声に、純恋も小さく笑い返した。


 ――幼い頃、純恋は健太に恋をした。

 背の高い彼に向かって、「大きくなったらお嫁さんにしてね」と精一杯背伸びして告白をした。

 会うたびに。

 健太はそのたびに困ったように笑って、「その頃には、もっといい人がいるよ」と頭を撫でてくれた。

 あの手の感触は、今も覚えている。


「覚えてます? 小さな頃、何度も告白したこと」


「もちろん。毎回、真剣な顔で言ってくるから、びっくりしてた」


「子供だったけど、本気だったんです」


 純恋は夜空を見上げながら、そっと言葉を継いだ。

「でも、その“本気”が何なのか、わからないまま大人になって……仕事も、恋人も、それなりに経験したけど、やっぱり忘れられなくて」


 幼い頃の初恋。

 恋人と付き合っていた時も、ふとした瞬間に健太を思い出すことがあった。

 だけど、それは思い出の宝箱を少しだけ覗くような――純粋に「好き」という気持ちだけで体当たりしていた、あの頃の自分が懐かしいからだと思っていた。


 とっくに諦めがついていたと思っていた。

 今日、健太に再会するまでは。

 でも、健太に名前を呼ばれ、その笑顔を見たとき、あの幼い頃の気持ちが溢れてきた。

 諦めがついたなんて、勘違いだったのだ。


 健太は黙っていた。

 少し離れた場所で、花火がぱっと弾け、彼の横顔を淡く照らす。

 その表情に、影が落ちた。


「九堂さん、私、まだ貴方のことが好きです」


 その言葉は、風に溶けるように静かに零れた。

 真上で花火が弾け、空が一瞬、昼のように明るくなる。

 彼の瞳の奥に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。


「……純恋ちゃんに、オレはもったいないよ」


 そう言って、健太は笑った。

 けれどその笑みは、いつものように穏やかではなかった。

 どこか、自分を責めるような、そんな笑い方だった。


「どうしてそう思うんですか?」


 問い返す声が、少しだけ震えた。

 健太は空を見上げたまま、答えない。

 夜風がふたりの間を通り抜け、浴衣の裾を揺らした。


「……それは――」


 健太は、言葉を詰まらせ、目を伏せた。

 その沈黙だけで、純恋には十分わかった。

 その瞳の奥に、消えない痛みのような影が見えた。


 彼にとって自分は、友達の妹。

 それも十一歳も離れた子供。

 恋愛対象として見られていないことくらい、ずっとわかっていた。

 それでも伝えたかった。

 “女”として、彼の目に映りたかった。


 花火が終わる。夜空に煙だけが残った。

 ざわめきの中、純恋は小さく笑って言った。


「すみません、変なこと言って。忘れてください」


「……いや、ありがとう。そう言ってもらえるだけで、十分嬉しいよ」


 健太が少し俯いて言う。

 その横顔を、純恋はそっと目に焼きつけた。


「じゃあ、私、そろそろ帰りますね」


「ああ、ありがとう。本当に助かったよ。今度、何かお礼しないとな」


「ふふ、楽しみにしてますね」


 純恋は、何事もなかったかのように笑顔で手を振り、健太に背を向けた。


 商店街の灯りが遠ざかる。

 空には、最後の花火の煙がまだ薄く漂っている。


 ――今日、健太の隣にいられただけで、少しだけ報われた気がした。

 けれど、胸の奥ではまだ、ひとつの花が散りきれずにいた。

 それでいい。今はそう思うことにした。

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